平成15年度世代間交流シンポジウムの内容
基調講演
コミュニティに子育て機能の再生を
正高信男(京都大学霊長類研究所教授)


ヒト以外の動物に「老人」は存在しない

 私は、愛知県犬山市にある京都大学霊長類研究所で、サルの研究をしています。サルの研究をしていますと、人間を全然違った視点からみるようになることがあります。人間が人間をみているとごく当たり前に思えることが、サルを研究しているため不思議にみえることがあります。その一つがいわゆる人間の老人、高齢者の存在です。人間以外の動物、もちろんサルにも高齢者はいないといことです。
 もちろんサルだって年をとります。死ぬ直前のサルは老人ではないのかとお考えかもしれませんが、それは意味が違う。生物学的に見て、老人はどのように定義されるのか。「繁殖を停止したのに、なおかつ生きている」というのが老人なのです。生物にとって、子孫を残すというのが何よりも大事なことです。だから逆に子孫を残す役目を終えると、その個体は無用の存在なってしまう。例えばサケ。産卵をしたら死ぬでしょう。産卵したあとも生き延びているのは子孫にとっては邪魔な存在なのです。生物はかつかつのところで生きています。そのなかで、子どもをつくり終えた個体が存在しているのは、まさに無用の食い扶持です。邪魔な存在になるわけです。
 飼育下のニホンザルは、大体二十五年生きます。それで、いつまで繁殖するかをみてみます。メスをみてみる。つまり、いつ閉経するかということです。大体二十三、四歳で閉経します。そして閉経したら、一年か一年半で死んでしまう。チンパンジーは五〇年ぐらい生きますが、やはり四〇いくつかで閉経し、すぐ死ぬ。同様のことがオスでもいえる。いくらがんばってもそれ以上長生きできません。寿命は基本的には遺伝子によって決められています。死ぬべくして死ぬようになっているわけです。


高齢者の最大の役割は子育て

 翻って人間をみてみましょう。人間の場合、いつごろ閉経するかご存知ですよね。でも、その後も生きる。普通に七〇歳から八〇歳の間でしょうか。繁殖停止よりはるかに長い寿命を与えられています。そういう遺伝子をもったものが進化してきたといえます。長生きをした人間がいたほうが回りにとって有利だったということなのです。
 では、高齢者の存在は人類社会のなかで、どのような役割・機能を果たしていたのか? 現在考えられている役割は子育てなのです。このことを調べたのがアメリカの研究者でした。人類が直立歩行したとき、狩猟採集生活をしていただろうということで、アフリカの狩猟採集民のライフスタイルの調査をしたのです。そのなかで、高齢者の位置づけをみたら、高齢者が生き延びた理由がわかるだろうとの仮定のもと調べたのです。
高齢者は何をしているか? 一番大事な仕事は子育てだったのです。現在、子育てというと子どもを産んだ母親、さらにそれに協力した父親がするのが当然であると考えがちですが、これは人類の数百万年の歴史のなかでは、ほんのごく最近の習慣にすぎないのです。育児は、もちろん授乳は母親がするかもしれませんが、それ以外の大部分は祖父母によって担われていたということなのです。
 これをグランドマザーリング・ハイポシスといいます。日本語でいうと「おばあちゃん仮説」です。つまり子育ておばあちゃん―おじいちゃんも含めた意味ですが―がしていた。それはなぜか? 狩猟採集民の生活は過酷です。食糧を調達するために、必死なって働かなければならない。基本的に男は狩猟、女は採集です。採集というと楽そうにお考えかもしれませんが、私のアマゾンでの経験から言うと、女でも、二十キロ、三十キロは歩く。それも木の実など背負って。それをしないと食糧が調達できない。だから、子どもを産んだからといって、子育てに専念しているゆとりはなかったということです。
 そのとき、おじいちゃん、おばあちゃんが長生きし、子育ての援助をしてくれる家庭がある。一方でそれがない家庭がある。ない家庭では、母親がたぶん子どもを連れて採集せざるを得ないでしょう。どちらのほうが豊かになったかというと、援助してくれる方がはるかに豊かになったのでしょう。その結果、繁殖を停止してもなお生き延びるような家系が選択されて、現在のような寿命に達したのだろう。それがおばあちゃん仮説です。
 それが、幸か不幸か、ここ一、二世紀で社会の構造が激変してしまった。ホワイトカラーが出現し、男は会社に出かけ、奥さんは専業主婦になり、子育てが仕事になる。子育ては血のつながった産みの母親の役割であるという観念が出来上がったのです。そして、そのことを人類が本来そうであったかのような錯覚を抱いている。


高齢者は仕事を剥奪された

 このことによりいろいろな弊害が出てきている。
その一つが、人類の進化のなかで培われた、高齢者が子育てをするという役割を剥奪されたということがあげられます。子育てから解放されたといえば聞こえは良いが、仕事を剥奪されたともとることができます。さらにこれに拍車をかけたのが少子化といえます。結果として、祖父母は社会のなかですることがない。これが一番の大きな問題でしょう。
 人間が生きるうえで何が大事か? 「自尊感情」、自分を尊いと感じる感情を持つことだと思います。ボケるボケないの最大の要因は何か? その人間が自尊感情を持って生きていけるか否かでしょう。それは本人が意識するだけでなく、無意識の自尊感情というものもあるかもしれません。
 一流会社の幹部の人が、退職され悠々自適の生活をするとボケたりする。逆に八〇歳を過ぎても食べるために働いている人がボケなくて、朝見たら、死んでいたということを聞きます。前者の悠々自適の生活の人は、裏返して言えば、自分の存在が他人によって必要とされていないということを知ってしまったのでしょう。そう思ったとき人間が正気を保っているのはむずかしいと思います。人間は自分の存在が誰かの役に立っているということを認識していないと生きていけない存在なのだと思います。後者の人はつらいかもしれない、しかし、少なくとも社会の役に立っています。その人は、無意識のうちに自尊感情を持っているのだといえます。このような人間は意外にボケない。
 では、どちらが幸せか? 後者の人は、ご本人は幸せでないというでしょう。主観的には「幸せでない」と。幸福感をどうやってはかるかという問題です。本人に尋ねて、幸福か否か答えてもらうのを、主観的幸福感といいます。主観的幸福感から言えばボケたら幸せなのです。ボケたら自分が「ボケた」とわからない。でも、それはいやなのです。自分の体から目を離して、そのボケた自分を想像し、そんな風にはなりたくないと思うわけです。それは主観的幸福感では説明できない。その意味で大切なのは、周りの人たちが、高齢者に対し、自尊感情を失わないような環境づくりをいかにするかということだと思います。そして、そのとき必要なのは、世代間交流だと思います。


大人とつき合うことがない今の若者

 第二の問題は、若者に起こっていることです。母性愛があるから子育てができるものではない。子どものときから、年下の子どもの扱いを経験し、練習したうえで、自分の子どもの子育てができるようになる。経験がないのに上手くやれといっても無理です。最近、虐待の問題が騒がれていますが、とくに多いのは十代か、二十代のはじめに子どもを産んで虐待をするというケースです。不幸な話ですが、全然驚くべきことではない。社会化もしていないし、子育ての技術ももっていない。しかし、繁殖能力だけはあるのだから子どもを産む。子どもへの経験をもたず、さらに周りから援助されることもなく向き合う親、とくに女性が増えている。女性が一人で子育てをせざる得ない状況が増えている。なぜ、そうなったか。やはり高齢者が子育てから除外されていることがあると思う。高齢者が子育てに関与することが大事だと思う。
 今の日本で中学から大学を卒業するまでに毎日の生活のなかで、親と学校の教師以外の大人とどれだけ会話するかということです。ほとんどないといっていい。世界的に見ても異常です。そんななかで、子どもにまともな社会的経験を積めといっても、それは無理なのです。大学を出て、子どもを産んだって、それは育てられないということです。


子どもにとって必要な背中を押してやる役割

 第三の問題は、育てられる子どもをめぐる問題です。現在、子どもは両親、とくに母親との濃密なコミュニケーションを経て育つことになります。しかし、それは決していいことではない。確かに母親との濃厚な交流は、子どもにとっても大事なことです。しかし、それで十分ではない。子どもを養育するものが提供しなければならないものが二つあります。一つは、子どもにとっての情緒的に安定できる安全基地を提供すること。それは、今の日本では十分と言ってよいほど提供されています。世界的にみて、日本の母親の子育て水準は低くはありません。アメリカのお母さんなんかに比べたらまじめに子育てをしています。しかし、安全基地を提供するだけでは十分でないということです。子どもはいつか親元から離れ、ひとり立ちをしなければならい。そのためには、怖いことがあっても「もうちょっと頑張りなさい」と背中をおしてやることも大事です。外へ出たらぶつかり挫折をする。その挫折を乗り越え、出て行く。その繰り返しのなかで、いつか親元から離れ社会に出ていくのでしょう。その背中を押してやる力が今の日本にはかけている。その結果不登校がおきたり引きこもりがおきたりするのでしょう。要するに、子育てを母親一人に任せていることが、母親にも負担であり、子どもにも良くないことなのです。もっといろんな人間との交流の中で、外に出ていく力を養うということが、今の子育てに求められているのだと思います。
 端的に言えば、この役割は父親の役割といわれます。「昔の父親は今の父親に比べて子育てをしたのですか」と問われるが、残念ながらよくわからない。一概には言えないですが、昔もあんまり父親が子育てをしたとは思えない。しかし、昔は母親だけが子育てをしたのではなく、いろんな人が子育てに関与していたことは確かだと思います。日本社会は地縁の結束が強い社会でしたから、周りの人間が関与し、子どもたちが社会化していったという姿だったのでしょう。
 そして、子どものときいくつものプチ挫折を経験し、一人前になっていくのだが、今、それがなくなってしまった。挫折経験なしで思春期になって突然挫折を経験する。そうしたら、それでもう立ち行かない。引きこもってしまう。それなのに行政はどのようなことをしているのかというと、「子どもにストレスを与えるのは良くない。そのストレスとはなんだ? 高校受験だ」とくる。そして中高一貫教育をやろうとしている。たしかに高校受験はストレスでしょう。しかし、そのストレスを味わないで良しとするのか? それは結局のところ、不良債権を先送りにしていることと一緒ですよ。高校受験をなしにして、大学受験。大学だって子どもが減っているから、選ばなければ全入できるような状況になっています。大学出てどうするのだ。たぶん困るのは企業なのです。大会社の重役と話をしたことがあるのですが、「大学出たての人間なんか役に立たない。一人前の社員にするのに五年から八年の間教育しなければならない。しかし、八年も会社にいない。高望みをするわけではない。毎日会社に来て、ちゃんと働いてくれるような人間を送り出して欲しい」と。たぶん、日本の労働者の質は極めて低下しているのでしょう。


子育てができるコミュニティづくりを

 では、このような状況を阻止するためにはどうしたらよいか? 当面のところ、高齢出産を奨励したら良い。そういうと皆さんお笑いになりますが、実際の出産適齢期は三〇歳を過ぎてからであって、四〇歳ぐらいまでの間に子どもをどんどん産めばよい。
 それから、「母乳育児」と「母乳育児」と言うのをやめることです。これにはすごく抵抗があります。しかし、人工栄養は昔に比べて進歩しています。今、母乳をやるのが大変だったらどんどんミルクをやればよいのです。高齢で出産し、人工栄養で子どもを育てればいのです。
 しかし、これらは対症療法でしょう。一番大きな問題は育児スタイルをかえることだと思います。子育ては親が、とくに母親するものというスタイルを。血のつながった母親が子育てをするというのは、二十世紀につくられた幻想にすぎない。もっと自由ないろんな人間がかかわった子育てを考えていかなければならない。でも、そのとき「地域」でやりましょうと言ったって、そのような地域が残っていない。ではどうするか。人為的に努力をして、本来のコミュニティにあるものを創り出し、そこで子育てをするということを意識的にやらなければいけない。それが、世代間交流の大きな課題になるのではないかと考える次第です。(文責・編集部)