「あしたのまち・くらしづくり2007」掲載 |
<企業の地域社会貢献活動部門>あしたのまち・くらしづくり活動賞 内閣総理大臣賞 |
商店街を通しての街活かし |
大阪府北区 天神橋3丁目商店街振興組合 |
私土居年樹は商店街の役員に任命されてもう30年になる。 当時の天神橋筋3丁目商店街は、道はアスファルト、アーケードは簡易テント張り、1日の通行量は8000人という、どん底の状態であった。 戦前は広域型商店街であり、この地の総称である「天満」へ行くといえば「大阪」へ行くということに繋がる、といわれるほどの中心市街地でもあった。戦後は天神橋筋4丁目から6丁目がメインとなり、1丁目からわが街3丁目はマイナーな時代が続いた。 役員に任命された時に私が考えたことは、4丁目から6丁目に追いつきたいという反骨精神と、商店街がぬるま湯に浸かっている仲良し集団では駄目だという思いであった。 早速手がけたのは、商店街を「振興組合」という組織にして法人化すること、そしてその中の役職に「近代化委員会」という若手集団を作ることであった。組織が出来、若手役員が実力を発揮しだしたのは昭和54年のことであった。 委員長として私は若手をまとめ、事業を積極的に展開してきた。そしてその間に培われた街意識が今日の私を支えているのである。 その思いは、 (1)商店街は住まないと傷みます。 (2)街商人は街守り人の役割を担ってます。 (3)街は地べたの活性化が大事です。 (4)大阪の良さを知るのは商店街が一番。 (5)次の世代に継承する仕組みを作りたい。 というものであった。 以来、商店街の中だけに留まらず地域の活性化を呼び込むため、商店街の周りの活性化にも力を注ぎ、今日に至っている。10年間はサブとして、後の20年間はリーダーとしてこの仕事を受け持ち、天神橋筋3丁目商店街がこれからも生き残れるのは、 (1)人情―売り手と買い手がどれだけ信頼しあえるか。 (2)信条―商店主がわが街をどれだけ愛し街の伝統を伝えられるか。 (3)繁昌―商店街の発展に伴い個店がどれだけ伸びるか。 の三つである。 この考えを30年間にわたって実践した結果、現在1日3万人の来街者に恵まれ、好結果を生んでいるのである。 この30年間を振り返り文化を通して街繁昌に成果を挙げてきた実例を列記してみたい。 地域ふれあい文化 昭和56年のこと、近代化委員会は早速動き出したのが空き店舗活用であった。当時から天三商店街は既に空き店舗が目立ち始めていた。 貸し手を探し、とりあえず1店舗に了解を頂き、その活用方法を協議することからスタートした。3日間話し合った結果、イベントホールを作ることに決まった。 当時、国からも脚光を浴びたこの「天三カルチャーセンター」は商店街の活性化として全国に波及する事業になった。 その趣旨は (A)天満にある伝統文化を掘り起こし大阪の若者の文化を大切に住民とのふれあい文化を (B)浪速の芸能・芸術をメジャーに というものである。 15年間いろんなイベントを考え、実践しているが、自慢出来ることは、すべてが自らで考え手づくりで実践していることである。自分の街は自分が一番よく知っている。「人に任すな」「人に頼るな」がモットーであり、成功した感動は何よりも大である。 その後(15年後)この施設がビルに立て替えられるのを機に、新たに空き地活用で「ものごと館」を5年、次に空き土地を商店街が買い取り「天三おかげ館」と名付け1階を事務所とフリースペースに、2階を貸し店舗にして運営、現在に至っている。また近隣の公園内にある商店街の建物を画廊・文化教室として運営している。 伝統文化の復活 7月24、25日の天神祭は、日本三大祭りとして100万人の観衆を呼ぶ大事業でもある。天三商店街はこの祭りをより盛大にする新企画を打ち出している。往年は雪除けとしての縁起物だった「天神花」を再生、そして天神祭の「キャンペーンガール」を加え、祭りに華を添えている。 「天満天神にぎわい船」も商店街が船渡御に参加し、外国の方々、遠来のお客を誘致している。 千年の歴史を持つ「七夕池」「星合池」「明星池」のあることから星愛七夕祭を復活。今や万を超える集客がある。古事を愉しむだけではなく、若者が興味を持つ企画をと考え本殿ではゴスペルも。また、短冊に願いごとを書いて星合池に奉納する道中は茅の輪をくぐりローソクの灯りで演出、ミニの紙サイコロに金平糖を入れ男女で交換会などを実践している。 「大塩平八郎展」天満が生んだ江戸時代の街の貢献者、与力・大塩平八郎の話は余りにも有名。年1回の資料展覧会は多数のファンが駆けつける。 若者文化 街は老若男女が集まってこそ街になる。こんな思いをつなげるためにも若者とのジョイントは大切だ。写真家の卵による天神橋筋風景展、アーケード下のモニュメント製作、未来の天神橋筋像のイラスト展など多くの協力を得て好評だ。今、やっていることはストリートミュージシャンの育成、天満音楽祭(年1回)の開催、各大学生との交流などそれぞれで効果を挙げている。 物づくり文化 天満はもともと物づくりの盛んな土地であった。その再現をしようとの試みが今定着しつつある。 その一つがガラス。天満は大阪のガラスの発祥地でもある。今は切子職人が1人いるだけだ。「天満切子」と名づけたこの製品の広報役を務め、おかげ館などで展示販売、ホテル・飲食店などへの売り込みにも精を出している。 江戸時代から昭和の初めまでこの地は酒どころであった。150店の醸造家が住んでいた。水がきれいだった天満にもう一度地酒の復活を。私は大阪の水がめである琵琶湖の水で米をつくり大津のお酒屋さんで酒をつくり「百天満天百」という命名で開発した。毎年好評である。 今一つ大根がある。江戸時代に植えられていた「天満・宮の前大根」の再生を大阪府の農場にお願いし収穫した。今はその料理法の模索をしている。 観光文化 大阪の観光を見るとき、大阪の代名詞のように言われているのが「あきんどの街」である。とりわけ商店街の賑わいは貴重な観光のポイントであろう。「天神橋筋」を観光のスポットにしたい。常々こう考えていた私は「修学旅行生の一日丁稚体験」を考えた。平成11年に始めたこの企画は今や全国に広がり教育文化でもある。大阪弁を習い、街あきんどの思いを知り、各店で見習いをし、修学旅行生たちが地場産業の商品を屋台に乗せて商店街で売り歩く。この企画は毎年、希望者が増えている。 外国人の誘致にも懸命に取り組んでいる。私が「日本一長い商店街」と言い始めてからもう15年になる。このネーミングも観光に寄与している。そしてアーケード。鳥居の付いたアーケードを売りにした。これはマスコミにも大好評である。 さて平成16年1月のこと、縁あって(社)上方落語協会会長、枝三枝さんとの出会いがあり、私の街起こしの集大成のような企画が持ち上がった。 彼は商店街の活性化に空き店舗ででも落語をやろうと言う。そこで私は大阪天満宮の宮司に話をし、敷地の一部を借りること(無償)を許してもらい、多くの人々の浄財で建設することで積極的に動きだした。事は順調に運び、浪速の街で60年振りに上方落語の定席が誕生したのである。3億円の寄付、3階建ての小屋が昨年の9月にオープンした。一街あきんどの仕事としては想像もつかない大事業であった。 その後の天神橋筋の様相は一変した。日・祭は通40%増、着物姿の女性が増える。当然のことながら飲食店は盛況という。経済効果は年間10億円に達するだろう。商店街に異文化を持ち込むという手法が当たったことに意義があるのだ。 この成功を機に天神橋筋は新たな企画を打ち出しこれも成功している。「芸能てんこ盛りツアー」と銘打った観光事業を始めた。天満発・天満着で関西の芸能の舞台を回りその地の食を愉しむ。今順調に推移している。 天神橋筋商店街を端から端まで歩いた人には「満歩状」をプレゼントも人気の的である。 その他に環境文化として琵琶湖の葦再生で紙にして活用。おみやげ文化として天神橋筋・繁昌亭のおみやげも多数。商い文化として天神橋筋の商人像を描いた「商店街の本」の発行などアイデアと実践は数知れない。 むすびに 街にはあらゆる文化が潜在している。文化の掘り起こしが地域・商店街の再生に繋がると私は確信している。またその実践を30年やり続け、活性化に成功したことは何よりも裏付けである。逆説を言うならば古き良きことが現代では新鮮なのである。時計の針を逆さに廻そう。そこに「美しい日本」の原点がある。 |