「あしたのまち・くらしづくり2013」掲載
あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞

限界集落が「中山道の街道と集落保存」により国際観光都市へ
長野県南木曽町 公益財団法人妻籠を愛する会
中山道の宿駅 妻籠宿
 関ヶ原の合戦において天下を制した徳川家康は、翌慶長6年(1601)から7年にかけて五街道を制定した。木曽には中山道が通り、十一宿が置かれた。妻籠宿は木曽川の支流、蘭川のわずかな河岸段丘上に南北に細長く周囲を高山に囲まれこの地形を人は、薬研の底と表現する。そのわずかな平地に二町三十間(約270メートル)の小さな妻籠宿場が造られた。以後300年にわたり江戸と京都をつなぐ重要幹線道の宿場として栄えた。多くの宿場はしばしば火災が発生しているが、妻籠宿においては全宿が罹災した記録はない。このことは宿場保存に大きな魅力となった。
 しかし明治25年(1892)、賤母新道(現国道19号線)が開通し、明治42年に鉄道が三留野(三留野宿)まで開通した。さらに2年後には中央西線全線が開通し交通網から外れ陸の孤島となり、一寒村への道をたどることとなる。

宿場保存のため住民の勉強と実践
 太平洋戦争末期多くの文化人が疎開をした。終戦後も数家族が残って村の青年たちとの交流があった。公民館活動の中から御料林問題や村の実態の本質を知り、また、演劇(主に創作劇)を通じて自己主張の仕方を学んだ。戦後まもなく隣の馬籠宿での藤村記念館の竣工により、ここを訪れるため宿泊する一流の多くの文化人による学級や講座を通じて質の高い文化に接していった。昭和39年、小学校長の呼びかけでPTAの役員を中心に民俗資料の収集保存を始めた。これはどんな古い物でも捨てる前にもう一度考え直す習慣と、古いものは大事にしなければならないという気持ちを植えつける効果をもたらした。PTAによって始められた民俗資料保存運動は、40年「宿場資料保存会」が組織され妻籠地区全体の運動になった。行政においては集落保存で村起こしと観光振興を図るため、先生方の支援により長野県明治百年記念事業の一環として「妻籠宿保存事業」が採択され、妻籠宿場再開発が開始された。一方妻籠全住民組織として「妻籠を愛する会」を発足させ「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を確認し、外部観光大資本に対抗する手段を講じて地域一体となって保存の基礎を作った。ここに行政、住民、学者の三位一体の妻籠方式といわれる仕組みができた。昭和43年6月29日付けの妻籠を愛する会と南木曾町観光課連名によるチラシには、「売らない、貸さない、壊さない」の三原則が唱えられている。この三原則は町内他地区から、妻籠モンロー主義として酷評されたが、外部からのあらゆるものを排除しなければ、せっかく築き上げつつある集落保存が水泡に帰す恐れがあるのでやむを得ない処置であった。町並みと周囲の景観すべてを保存しようとしているところへ、土地を取得されてホテルや遊園地など作られては、それで妻籠は終わってしまう。しかも世情は高度成長下で、公害の垂れ流しなどものともせず、どんどんと自然や歴史を破壊して、無味乾燥の人工構造物を作り出している真最中だったのである。妻籠は観光地として出発の時点ですでに保存を何よりも優先させる理念が確立していたのである。これは妻籠地区全住民組織、「妻籠を愛する会」の保存に対する学習効果によるところが大きい。昭和46年7月25日に宣言し制定された「妻籠を守る住民憲章」であるこの宣言によって妻籠宿保存の精神的支柱は確立された。広告・看板・ポスター等の掲示は自主的に廃止され、建物の色彩も新築といえども古色塗りとし、街路の清掃も定期的に住民が行なう体制が整った。
 昭和48年8月1日、町は「妻籠宿保存条例」を制定し町単事業でも実地が可能となった。しかしこの条例は、妻籠を愛する会と「妻籠宿を守る住民憲章」という強固な基盤の上に成り立っていた。条例に基づく届け出書類はすべて妻籠を愛する会の内部組織「統制委員会」に提出され、そこで第1次審査が行なわれ実質的な運営は住民自身が行なった。
 昭和51年9月4日、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたその面積は1245.4ヘクタールという、江戸時代の妻籠村とほぼ同じ面積である。これは妻籠の景観は単に町並みだけでなく、その屋根の連なりから見える山紫水明のすべての景観が保存されなければ完結しないという思想から来ている。建物だけでなく山々の木1本まで、繊細な注意を払って保存してきたのである。それともう一つの理由は、保存運動を宿場と在郷が一体となって進めてきたことである。「妻籠を愛する会」は妻籠地区全戸の加入の住民組織であり、国の線引きによって壊してはならなかったのである。文化庁は当初宿内のみ約6ヘクタールを選定する考えであったが、町の説得によってまれに見る大きな面積を選定してくれたのである。
 昭和58年2月1日に「妻籠宿保存財団」が設立された。そして平成2年12月14日には従来の妻籠を愛する会と保存財団が一体となって「財団法人妻籠を愛する会」に改組された。財団は当初2億円の基金を集める計画であったが、寄付金に免税処置がなされないなどの障害もあって未達成である。財団は土地問題ばかりでなく、空家対策など行政では対処できない問題にも対応している。本年4月1日「公益財団法人妻籠を愛する会」に名称変更し登記した。
 平成5年の秋、宿内の飲食店にさりげなく「コーヒー」の品書きが加わった。これがかれこれ20年近く続いた、いわゆる「コーヒー論争」の決着であった。なぜ妻籠宿はコーヒーをかたくなにまで拒否したのか。妻籠宿の人々の目は、コーヒーの背後にある飲食店の喫茶店化、それに伴うゲーム機の導入やカラオケの設置などを見据えていたのであった。
 幕末明治初年には妻籠宿にはコーヒーはなかったという強引な論法でコーヒーを締め出していたがようやくコーヒーを出しても懸念するような事態にならないと見極めをつけた時点で、メニューの一つに追加してもよいとの条件で解禁したのである。つまり20年近くも「コーヒー論争」をしてきたから、コーヒーのもたらす危険性は十分に皆に浸透したと判断された上での決定だったのである。
 先に上げた存在価値を問われるような諸問題についても、本質を見失うことなく上手に解決していくであろう。妻籠宿の保存はかたくなであっては成り立たない。妻籠を愛する会は結成の始めから、賛成する者も反対する者も全部を抱合した組織であるから。
 保存から40年が経過し、今や妻籠宿は「国際観光都市、世界の妻籠宿」となった。もはや後戻りは許されないし、他に生きる道もない。保存第1世代が退きつつあるが、後を継ぐ者は第1世代からの教えと共に、世界中からの「妻籠宿への期待」によって、外からも教育されてゆくであろう。それだけに、声の大きい人、強引な人に負けない人を育て、妻籠の知恵を継承していく必要があろう。
 そして妻籠宿は「集落保存の先駆者」であったが、町並み保存が全国に展開された現在、これからの妻籠宿は「どこよりも徹底した保存をしている所」でなければならないのである。言うまでもなく妻籠宿は、そこに住民が生活する生きた動態保存の宿場である。妻籠宿を形成するのは建造物もその一つではあるが、そこに住む人々が最も重要な要素である。建造物は、法令等により今後とも守られていくであろうが、住民の心は住民自身で維持していかなければならない。苦しく、かつ寂しかった過去の妻籠宿を忘れてはならない。集落保存の実践は集落の存立に関する問題であり、地域住民にとっては、生活をかけての選択であった。行政も、住民も先生方も覚悟を決めての選択であった。妻籠の座右の銘は「初心忘るべからず」である。
 妻籠宿を訪れるほとんどの人が3度、5度目の訪問というリピーターである。高校生の体験学習、大学での集団ハイキング、そして社会人になってからの職場の旅行等である。あるいは青、壮年の家族旅行もある。世代を問わず訪れている。

今後の課題
 街道てくてく旅の勅使河原郁恵さん曰く、私の撮った妻籠宿の写真と私の生まれる前にお母さんが撮った写真と同じ、すごいことだと思った。
 保存という名の観光開発、多くの先生方(技術者)の応援を得ながら住民と行政との三位一体の賜物である。これからも本物志向で保存を続ける。この4月5月のサンプリングでも53ヶ国からの来宿者があった。多くの人々を引きつける心の故郷「日本の妻籠宿」である。国際交流も盛んである。台湾文化庁とは数年に一度町並み保存の現地「妻籠宿」訪問と保存の歴史を伝えている。また、学生の訪問も集落保存の実践勉強で、活発であり年4~5件の交流会を受けている。妻籠宿保存工事をきっかけに始まった、文化文政風俗絵巻之行列も45回を数えた。妻籠宿保存のシンボルであり華美に走ることなく「当時の服装で中山道を歩こう」の思いは今も同じである。妻籠地域外からの参加者も増えている。
 妻籠冬期大学講座は37回目を過ぎた。保存とは、景観とは、当時の文化は、冬期でしか時間の取れない(訪問客の対応で)住民にとって貴重な学習会である。継続こそ力なり。妻籠宿はあくまでも本物志向でありモドキであっては、ならないのである。過去を学び、現在を知り、先を読む。難しい時代をこれからも三位一体で乗り越えなければならない。多くの人々に支えられかつ自己研鑽に励み保存の本質を追及し続ける必要がある。
 20年後の旅人も50年後の旅人も同じアングルなら同じ写真が撮ることができる。この思いを持ち続けて行動するのが私たちの使命である。住民は保存という船に乗りその中で論議しながら船を前に進めている。