「あしたのまち・くらしづくり2015」掲載 |
あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞 |
東日本大震災後の子どもの居場所づくり |
宮城県気仙沼市 気仙沼あそびーばーの会 |
中高生になると勉強や部活動に追われ、心にモヤモヤを抱えながら忙しい毎日を過ごす日々・・・。 そんな彼らが、息抜きをしてのんびりできる居場所をつくりたい。そんな思いで企画した「ほしぞら食堂」。 現在、日本に暮らす18歳未満の子どもは6人に1人が貧困状況で、とりわけひとり親家庭では貧困家庭が50%を超えており深刻な状況にあると、ある調査に載っていました。 そんな中、気仙沼では震災以降、職が無くなり年収250万円以下の家庭が8%増加し、そのため心の貧困だけでなく経済的にも貧困な家庭がさらに増え、子どもへ及ぼす貧困の連鎖に拍車をかけている状態だということです。 「気仙沼あそびーばー」に来ている子と関わる中で、 「いじめにあっている」 「半不登校状態にある」 「学校に友だちがいない」 「家族とゆっくり食事を摂ったことがない」 といった子どもの背景が見えてきました。中には「いつもカップ麺ばっかり」という子もいます。 そんな中、日頃家族みんなでご飯を摂れないでいる子も、月に一度でいいから「ほしぞら食堂」に来て、あったかい食事を摂ってほしい。 仲間と楽しい時間を過ごす中で、少しでも心のモヤモヤが安らぎ、心も身体も元気になってほしい。 生きづらさを抱えている子どもの居場所になってほしい。 そんな思いが募り、地元の中学校の校長先生に企画の原稿を見て頂くことになりました。 対象者が中高生だったので、印刷も中学校へお願いしようと思っていたからです。 校長先生は、原稿を見ながら「こんな企画をしてもらってありがたいですね。」と話され、「ここに、親の許可を得て下さいという文言を入れて欲しい」とおっしゃいました。 その言葉を持ち帰り、スタッフで話し合いました。 「不登校の子が親の許可をもらってまで出て来るはずがない。」 「その文言を入れるなら、いっそのこと有料にした方がいいんじゃないか。」 「有料にしたら、食に欠ける子が来られなくなる。」 「中学校じゃない所で印刷するか。」 喧々諤々の話し合いでした。 しかし、私は「中学校に背を向けた状態で行うことはできない。今までも、これからも、幼、小、中、高、今まで通り連携を取り合いながら活動していきたい。もしそうでなかったら、この企画そのものをもう少し時間をかけて理解してもらう必要があるんじゃないか」と話し、妥協案として「基本的には、親の許可を得て下さい」と「基本的」という言葉を入れ、対象となる子どもの逃げ道を作ることで話がまとまり、校長先生から許可を得ることができました。 夜の行事ということで、教育委員会、警察署にも主旨を説明し、市内にある6高校と、道の駅、公民館、郵便局、駅等へ手作りポスターとチラシをお願いして廻りました。 どこの施設もよく理解して頂き、快く受け取って下さったことに胸をなでおろし、地域とのつながりの大切さを改めて感じる思いでした。 あの震災の時、夫が会長をしている地区の会館に120名の方が着の身着のままで避難して参りました。 私たち夫婦の実家もそれぞれ津波で流されてしまいましたが、目の前に居る困っている人が最優先でした。 その日から4ヶ月、夫と二人で避難所のお世話をしました。 そんな中、震災の1ヶ月後のことでした。 「NPO法人日本冒険遊び場づくり協会」の方が、「外遊びを通して心身共に回復して元気になることを目的に、子どもの遊び場を作らせて下さい。」と訪ねて来られ、その時初めて、「子どもたちはどうなっていたんだろう?」静かで手がかからなかったとばかり思っていたけど、私が被災者という所にのみ目が向いていたため、子どものことは何一つ考えていなかったということを目覚めさせられたのです。 遊び場が出来ると聞いた途端、子どもは目を輝かせました。 「俺たち、退屈だったよ」「俺、寂しい」と口々に言いながら、子どもたちが集まって来て、そして「あそびーばー」がオープンしました。 大勢の子どもが居るのにつながりが無く個々に遊び、そして暴力的。みんな自分勝手な遊びばかりでした。 「遊びを通して子どもは自分自身を癒す力が備わっているので、大人はその力を安心して出せる環境を整えてあげればいい。」と教わりましたが、「気仙沼あそびーばー」は、正にそのための遊び場だったのです。 にぎやかな遊び声が聞こえると、地域の人たちが「子どもの声が聞こえるとうれしいね。」と言って集まって来るようになりました。 大人に相手にされなかった子どもたちは、大人が喜ぶ姿を見て一層元気になっていったのでした。 そんな中、日本冒険遊び場づくり協会の方に「ここの子どもは都会の子より体力が無いですよ」と言われた言葉に驚かされました。自然がいっぱいの中で、子どもは遊んでいると勝手に思っていただけで、塾やゲームで外で遊ぶ機会が無くなってしまっていたことに、大人は気付いてさえいなかったのです。 ターザンロープにつかまりバランスをとりながら向こうの木への距離感を一瞬で感じて動く、そんな運動がさっぱり出来ていないと言われ私は焦りました。 このまま子どもたちを大人にさせることはできないと、改めて遊び場の必要性が感じられた時でした。 平成24年に夫が会長をしている寺谷振興会が、そして25年4月には現在の「気仙沼あそびーばーの会」が運営を引き継ぎ活動しているのは、そんな思いがあったからです。 幼稚園、小学校、中学校とも連携をとり、ご協力頂き子どもたちへ月1回渡すあそびーばー通信は小学校で、また地域の皆様への案内は公民館で印刷して頂きます。 つい先日は幼稚園の子どもたちが遊び場のイベントに合わせて大勢集まって来ました。また小学2年生は、地域の公共物や公共施設の役割を知る生活科の学習「町たんけん」でやって来て「あそびーばーには、いくつ遊べるものがあるんですか?」「いつからできたんですか?」等の質問をされました。 そして、「子どもの元気な声が聞こえると嬉しい。」と言って下さった地域のおじいちゃん、おばあちゃん方が、「あそびーばー」でお茶を飲みながら手作りの作品作りを始め、あそびーばーの助成金が今年いっぱいで終わることを知ると、「この手作りの作品であそびーばーの活動資金にしたらどうですか」と温かいお言葉を頂きました。 こうして、日々進化している「気仙沼あそびーばー」。 今日は、いよいよ「ほしぞら食堂」のオープン日です。 スタッフが「ほしぞら食堂」のために作った看板を掲げます。 照明もやさしく、オレンジ色の白熱灯にしました。 焚き火の周りには手作りの椅子を並べ、各自自分の食べたい量を盛れるようにセルフサービスにしました。 メニューはカレーです。 麦茶も氷をたっぷり入れつめたく冷やしてあります。 夕暮になりポツリポツリと中高生が集まり出し、自由に焚き火の周りで食べ始めます。 2升ずつ2釜炊いたご飯も、「ご飯まだありますかー?」「まだまだあるよー!」1人で3杯食べる子が続出。あれよあれよという間に2升釜は空になりました。 家で米粒を食べないと聞いていた子もさり気なく見ていると、おかわりをして食べ、ひと遊びしてまた一杯。 みんなと一緒に食べる楽しい雰囲気がそうさせるのか、とりあえず第1回、焚き火を囲んで“たべて”“だべって”の「ほしぞら食堂」は、中高生の参加で無事終了させることができました。 震災で大人の大変さを見て子どもは元気を無くし、あそびーばーで元気を取り戻した子どもの声を聞いて大人が元気をもらい、そして子どもの居場所を継続させるため、おじいちゃん、おばあちゃんたちが立ち上がってくれた。 そんな中、「ほしぞら食堂」をスタートさせるために警察、公民館、中学校、高等学校、郵便局、道の駅、JR等あらゆる公共施設と連携を取り合い、地域の中高生を地域で守るための活動がゆるやかにスタートしました。 「次は何を食べたいの?」 「焼きそばが良い」 と、遠くから聞こえます。 この子どもたちが近い将来、地域を担い国を担っていくのだと思うと、せめて月1回お腹いっぱい美味しいものを食べて、不安や悩みを吐き出せる場所になって欲しい。 目には見えない心のガレキを片付けるためのお手伝いを惜しみなくしてあげたいと、思いは募るばかりです。 |