「ふるさとづくり'01」掲載 |
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞 |
400年前の歴史が蘇える地域づくり |
長崎県北有馬町 セミナリヨの里からMerry X'mas in 北有馬実行委員会 |
北有馬町を含む島原半島全体の過疎化が進む中で「まちづくりは人づくりから」を理念に、若者たちをターゲットに400年前の地域の歴史を今に生かそうと、平成9年、「セミナリヨの里からMerry
X'mas in 北有馬実行委員会」を結成。キリシタン文化の啓発と郷土の誇りを高める活動に乗り出した。 野外の巨大ツリー下でパーティーに集う 過疎化の進む島原半島は、なかでも青年層の割合が激減していた。それに加えて、青年団体などへの加入者も減少し、若者の郷土に対する無意識化も進み、地域の将来に暗雲を投げかけていた。こうした状態に危機感を抱く北有馬町の青年たちが、立ち上がった。 地域活性化のアイデアとして、町内の青年の1人が、イベントとしてクリスマスツリーのイルミネーション化を提案した。これに賛同する町内の若者たちは、地域青年団や農協青年部、商工青年部などで実行委員会を組織して、実現に向けて動き出した。 ところで、“そもそも北有馬町でクリスマス交流会とは”――には隠れた歴史があったからだ。約400年前の北有馬町には、織田信長時代の1580年に、日本で初めての西洋式神学校「有馬のセミナリヨ」が設立され、ルネッサンス方式の当時世界最先端の教育が行われていた。有馬のセミナリヨ第1期生の中には、日本初のヨーロッパ派遣団「天正遣欧少年使節」の少年4人も含まれていた。 北有馬町の国指定史跡「日野江城跡」からは、400年も昔の当時、大大名しか使えなかった金箔瓦が出土しており、外国の技法を駆使した石階段も発見されている。キリシタン大名・有馬晴信は、時の天下人の信頼を得ていたことや、西洋や東南アジアとの交易を積極的に進めていたことが分かる。 これまであまり知られていなかった、このような有馬氏を中心とするキリシタン文化の啓発と、郷土の誇りを高めることに、クリスマス交流会の狙いがあったのである。 平成9年12月、第1回を皮切りに、昨年までに4回を数えるクリスマス交流会は、巨大なクリスマスツリーの下で、野外のクリスマスパーティーを繰り広げる。まず、クリスマスツリーは、北有馬小学校第2グランドの県道沿いにある高さ約30メートルの立ち木など4本を利用してイルミネーションなどで飾り付け、点灯しない日中でも美しく見えるように、様々な装飾を施した。 パーティーは国際化時代も反映したものに 会場には、巨大なスクリーンを設置。ビデオカメラに接続し、ライブなどの中継も楽しめる。ツリーへの点灯式は、町最大のイベント「日野江ひろば」(11月第3土曜日)に合わせて行い、以後約1か月、クリスマス交流会までイルミネーションを点灯し、北有馬の町を彩るのである。 「フェスティビタス ナタリス」というのが、イベントの正式名称だ。これは現代では使われていない「ラテン語」で、直訳すると、クリスマスのお祭りを意味する言葉、だという。この言葉を400年前に住んでいた有馬の人々が使っていた。クリスマスの時期になると、キリシタン大名有馬晴信や家臣団、住民たちがヨーロッパの宣教師から教えてもらった「フェスティビタス ナタリス」を祝っていた、その400年前を偲んでのことだ。 イベントには、北有馬町の若者に限らず、広く島原半島・長崎市内等の若者や留学生にも呼びかけて、遠い昔から世界に開かれた地域の伝統を今に、国際交流の場ともなる。長崎市内から招いたネパール、アルゼンチン、ドイツ、カナダ、フィリピン、中国などからの留学生が地元の青年たちの家にホームスティして、イベントの中で得意の母国料理を担当する。こうして披露された世界各地の料理は、出身国のスパイスで自慢の味付けをした本場の味が、参加者に大好評となる。 料理も、北有馬特有のこだわりがあった。飲み物は、大航海時代にヨーロッパから伝えられたポルトガルワイン。また、ヨーロッパから伝わったという菓子も推定復元した。当時、宣教師が有馬の殿様たちに振る舞ったと思われる菓子で、日本では貴重な輸入品の砂糖を使っていた。試作を繰り返して完成した菓子は「バスディシュ・デ・ナタ」と名付け、素朴な味わいが人気を集めた。 北有馬らしさにこだわるイベントは、さらに400年前の音楽も登場する。長崎のグループは、400年ぶりという賛美歌を披露し、かつての神学校「セミナリヨ」で少年たちが学んでいたという、古い西洋音楽も発表された。天正遣欧少年使節が豊臣秀吉の前で演奏したというスペインの名曲「皇帝の歌」を、北有馬中学校の生徒が再現したのである。 実行委員会は、この活動を通して、町の活力は人口の多い少ないではなく、住む人たちの町への愛情と誇りの高さこそが、それを可能にする、ということを学んだ。 |