「ふるさとづくり2004」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

史実に基づいた新しい郷土芸能の創出
北海道苫前町  苫前町くま獅子保存会
はじめに

 北海道における郷土芸能は、そのほとんどが北海道へ移住してきた出身県(市町村)をルーツとして受け継がれてきた郷土芸能であります。
 苫前町の郷土芸能「くま獅子舞」は、本町開拓期の大正4年12月に起きた獣害史上最大の惨劇「三毛別羆事件」をもとに、開拓の悲話を後世に伝えようと全てが史実に基づいて町民の創意工夫から生まれた北海道を代表する郷土芸能であります。


三毛別羆事件の概要

 苫前町は、明治20年代の後半になると原野の開拓が始まりました。未開の原野への入植は続きましたが、掘っ建て小屋に住み、粗末な衣服を身につけ空腹に耐えながら原始林に挑み、マサカリで伐木しひと鍬ひと鍬開墾したのでした。
 大正初期、町内三毛別の通称六線沢(現・三渓)で貧しい生活に耐えながら、原野を切り開いて痩せた土地に耕作をしていた15戸の家族にその不運は起きたのでした。
 大正4年12月9・10日の両日、380キロの巨大な羆が現れたのです。冬眠を逸した「穴持たず」と呼ばれるこの羆は、空腹にまかせ次々と人家を襲い臨月の女性と子どもを喰い殺したのでした。その夜、この部落で犠牲者を弔うため人々が集まり通夜が執り行なわれていた民家に、再びこの羆が現れ、通夜は一転して悲鳴と怒号の渦と化しました。
 この事件の犠牲者は10人の婦女子が殺傷(7人が殺され、3人が重傷)される、獣害史上最大の惨劇となったのです。恐怖のどん底に落とされたこの部落に、熊撃ち名人として名高い老マタギが隣村から駆けつけ、12月14日この羆を射殺したのでした。
 このとき一天にわかにかき曇り、一寸先も見えぬ大暴風雪となり、この時の瞬間風速は40メートルとも50メートルとも言われ、木々が次々となぎ倒され土地の人々はこれを「熊風」「羆嵐(くまあらし)」と呼び、後世まで伝えられている。


苫前くま獅子保存会の結成

 隆盛を誇っていた羽幌炭鉱が、昭和45年11月に閉山となった折り、苫前町古丹別神社氏子関係者が、築別炭鉱(羽幌炭鉱3鉱の一つ)の神社のお輿と獅子頭二つを譲り受けた。古丹別神社関係者と町内会関係者は、越後の流れをくむこの獅子頭を利用して古丹別の獅子舞を作り出そうと、かつて越後獅子を舞ったことのあるという町民にお願いし、有志を対象に手ほどきを受け、20数名の団員が懸命に稽古し、昭和46年古丹別神社祭に舞ったところ、大変評判が良く地域の皆様に大いに喜ばれた。
 このことがきっかけとなり、苫前町即ち郷土に根ざした趣のある郷土芸能を創作しようと多くの若者を集め、また小道具などの購入をするときのバックアップをしようと町内会及び神社役員等が相談し合い保存会の設立準備委員会が立ち上げられ、昭和48年2月7日に「苫前くま獅子保存会」が設立されました。
 前述した「三毛別羆事件」は、あまりの悲惨さと遺族への配慮から語ることすらタブーとされていたが、小説等でも紹介され、その実態も調査研究が進められていることから、この尊い犠牲と悲劇を単に語ってはならない事件として終わらせるのではなく、先人の苦労を肝に銘じ、その偉業を後世に伝えるため、郷土芸能に託して保存していこうと、新しい郷土芸能「くま獅子舞」の創作に取りかかったのである。
 全体構成は当時の公民館長が担当し、笛、太鼓、舞の振り付けは会員の1人があたり、寝食を忘れ仕事も忘れ、これに没頭したのである。
 会員は、週3日間、それぞれ昼間の仕事で疲れた身体を公民館に運び、自らムチ打ちハードなスケジュールをこなし、メンバー誰一人音をあげる者がいなかった。最初の頃は、土日を除いて毎日練習、その後週3回、1年間に160日余りの練習を重ね、ついに完成させたのである。


くま獅子舞の構成

第1章 開拓の夜明け――大自然に入植した開拓者の姿を表す
第2章 熊騒動――冬将軍の到来と同時に訪れた羆の悲劇(この章は「犠牲」「がい歌」「くま風」で構成されている)
第3章 豊かなふるさと――悲劇のあと希望を回復、立ち直る開拓民の姿を表す


活動の軌跡

 こうしたオリジナル郷土芸能の取り組みが昭和49年6月にNHKラジオ番組「ひるのいこい」で放送され、この年の秋、羆事件の地、三渓神社に奉納。公民館で行なう町民文化祭で町民に初披露(以後毎年実施)し高い評価がなされ、一同万感胸に迫るものがあった。昭和50年にはHBCテレビ番組「パック2」にテレビ出演した。
 このように、実話に基づいたオリジナル郷土芸能が苫前町にあるということが各地に広まり、あちらこちらから出演依頼の声がかかり、太鼓や道具類、衣装の新調、上川町のアイヌポンモシリの木彫師に依頼して羆頭作成、開拓民や猟師の面の作成をしていただき、一応郷土芸能としての形が整った。
 この間、町の補助金、町内会、神社関係者からの助成金、その他一般の方々からも寄付等をいただいたが、足りなく、四度にわたって金融機関より、役員個人名義のうら印により200万円ほどの借り入れを行ない、会の運営維持保存に努めたものである。当時は出演が終わっての打ち上げにも一升びんを立て、乾物のつまみという形ばかりの慰労であったが、不平を言う者もなく、「自分たちがやらねば誰がやる!!」という意気軒昂さがみなぎっていた。
 昭和53年11月9日には東京以北では随一のホールを持つ札幌厚生年金会館の晴れ舞台での上演であった。“郷土芸能の源流をさぐる”「北国の芸能」で北海道の代表的郷土芸能5団体が一堂に会し競演するもので、この舞台のトリを演じたのでした。
 その後、昭和54年3月には、北海道教育委員会の「留萌管内教育実践表彰」、57年3月1日付けで苫前町文化財保護条例に基づく「無形文化財第1号」に指定され、58年には北海道文化団体協議会より奨励賞、昭和61年には北海道文化財保護協会より「北海道文化財保護功労者賞」に輝き、町関係者、会員の雇用主、文化協会関係者とともに盛大な祝賀会が開催された。
 一方、57年3月、先に記述した「北国の芸能」の構成・演出を担当していた作曲家桑山真弓氏が「くま獅子舞」を高く評価し、舞台芸能として出演時間等もコンパクトにまとめた方がいいとの助言を受け、15回ほどスタッフを連れて訪れ、従来の基本的な舞に改良を加えながら完成させ11月2日札幌市教育文化会館で開催された第1回北海道郷土芸能祭に臨み、これもトリを務め満席の会場から盛んな拍手を浴びました。
 平成の時代に入り、会員の高齢化や会員数の減少から後継者の発掘、養成に力を注ぎ古丹別中学校の吹奏楽部が鳴り物として篠笛を担当、平成2年10月22日札幌市共済ホールで開催された「北海道ふるさと芸能」に出演し、中学生の笛の吹き手9名を含め保存会のメンバーは熱演し、感動させられた観客の熱狂的な拍手を浴び、苫前町民としての誇りを感じながら深夜に帰町した。
 平成5年2月に苫前町公民館が新装オープンとなり、講堂のステージは本格的照明施設も施されホームグラウンドともいえるこのステージを得ることができたが、過疎化・高齢化の波はさらに会員の高齢化、減少を余儀なくされたが、何とかこの舞を後世まで伝えようとの保存会員の熱意が地域に伝わり、平成9年4月に古丹別小学校児童61名の参加により苫前くま獅子舞少年団を結成、各地からの出演要請に応え活発な活動を展開し、毎年のように各局のテレビ取材を受け放映されているが本年3月13日には札幌市に出向きNHKテレビ番組「ほくほくテレビ」で初めて少年団としては生出演を果たした。


おわりに

 昭和48年に保存会を結成してから31年間を経過したが、この間、財政問題や後継者問題など数多くの問題や課題に直面してきたが、先人の偉業を後世に伝えようとする使命感、自らが創作した郷土芸能であるという自負心、北海道を代表する郷土芸能を守り続けるという責任感、そして何よりもふるさとに対する愛着心と文化面からの地域おこしの思いがこれまでの取り組みを支えている。
 これからは、少年団活動はもとより、少年団を巣立っていった子どもたちが少しでも地元に残り保存会員として新しい息吹を吹き込んでくれることを期待してやまない。
 町無形文化財「苫前くま獅子舞」の未来に愛と夢とロマンを求めて…。