「ふるさとづくり2004」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

隅田川を軸とした快適なまちづくり
東京都台東区  隅田川市民交流実行委員会
はじめに

 東京のシンボルである隅田川は、明暦の大火、関東大震災、そして東京大空襲などで、逃げ遅れた人々の死体が、隅田川やその支流に浮かび、戦後の高度経済成長期には悪臭のただよう川に成り果てた。この隅田川が、再び川の生気を取り戻し、水質の改善が進み、水辺のテラスや景観も整備され、家族連れや仲間同士で釣りや舟遊び、水辺の散策を楽しむ人々が増えてきた。このように、かつての清流に少しずつ近づくことのできたのは、多くの人々の熱意と努力による成果である。特に、川の周辺に住み、日常、川を見つめ、この川を愛し、川とともに生きてきた人々が団結し、美しい川を昔の姿に戻し、隅田川を首都・東京の生活と文化の創造の拠点にしたいと願って、地道な活動を展開してきた。この啓発運動が世論の風を呼び寄せて、「隅田川を清流に」という大きな流れを後押しし、この20年間に目的に大きく近づけることができた。この活動の概要について述べることにする。


発足の経緯および活動の概要と成果

 1985年11月10日、隅田川・荒川流域の28の文化・環境団体の代表が結集して、浅草公会堂で「隅田川市民サミット」を催し、「隅田川宣言」を発表し、隅田川市民交流実行委員会(島正之会長)が発足した。宣言文は、隅田川を「白魚が棲み、子どもたちが水辺で遊び泳げる清流」にすると運動目標を掲げ、「戦後、人々は物質面の豊かさのみを求めるあまり心の豊かさを失い、その結果、産業経済の発展は、自然の生態系を次々と破壊しつづけ、隅田川も例外なくその犠牲となった。そして、今日、人々はようやく失ったものの大きさに気づきはじめ、やっとそれらの再生や創造が試みられはじめた。しかし、一度死に瀕した川はそう簡単に復元するものではない」と問題点を提起し、「このような環境のなかで、われわれは次の世代に『水と緑』の豊かな潤いのある生活環境を継承するため、これからは、いままでの反省をもとに、市民団体が団結して、行政に提案し力を合わせて、明日の隅田川の創造に向けて努力することを、ここに誓う」とまとめた。
 本会は市民レベルでの交流を基本として、隅田川宣言を実現するために、隅田川・荒川水系に関して提言・啓発をし、川を軸とした快適なまちづくりを目指している。具体的には、市民サミットをはじめ講演会やシンポジウム、視察・調査・研究やイベント、『都市の川』『隅田川の活動記録1985‐2002』をはじめとする出版活動、他の河川との交流などを、できるだけ多くの市民とともに行動することが目標である。今日まで、一歩一歩着実に続けてきた活動内容は、年2回発行の会報「すみだ川」に詳細に記録してあり、精力的に、多面的に、手作りの活動を進めてきた。その結果、橋梁やテラスの整備、スーパー堤防の建設、ウォーターフロント開発などの事業が進み、水辺の景観が向上し、1998年には、東京都景観条例による景観基本軸(水の軸)第1号に隅田川が選ばれ、1999年には永代橋や清澄橋など隅田川の著名な橋梁8橋と旧岩淵水門が、東京都歴史的建造物の指定を受けた。また、水面の活用が進み、水上バスや屋形船などの観光面やボートレースなどのスポーツ面も盛んになった。下水処理場の整備も進み、1997年には隅田川の水質環境基準が1類型向上しC類型となり、釣りを楽しむ人々の姿が増えた。春のお花見、夏の花火大会など、江戸期以来の風物詩もよみ返り、隅田川への関心が深まり、多くの人々が水辺に集うようになった。その他、1990年には、四国の四万十川とわが国初の「友好河川提携」が実現したこと、公開講座「隅田川大学」を開講したなど、本会の活動は全国的に注目されている。