「ふるさとづくり2005」掲載 |
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞 |
里山の恵みを活かした地域づくり |
島根県津和野町 野中里山倶楽部 |
地域の概況 野中地区は典型的な過疎の中山間地で、戸数13戸、人口34人、高齢化率は実に67%という高い値を示しています。津和野の中心部から北に約12キロ、公共交通機関といえば、1日2往復通う路線バスだけで、自家用車を持たない高齢者にとっては病院に行くにも1日がかりという状況です。 設立の経緯 こうした、過疎と高齢化の集落に「野中里山倶楽部」が誕生したのは津和野町出身の青木氏の働きかけがきっかけでした。青木氏は横浜市でアミューズメント系の会社を経営していましたが、自分の生まれ育った益田圏域を「都会の人の癒しの場」にしたいという熱い情熱を持っていました。そうした中、白羽の矢が立ったのが「野中(のなか)集落」だったのです。 これまで、地域おこしとは無縁だと思っていた集落だけに、この青木氏の提案に対して集落は大騷ぎとなりました。しかし、頻繁に集まって意見を交わした結果「集落の高齢化率から考えて、このままでは何もしなくても近い将来集落が自然消滅してしまう。将来のことは分からないが、勉強したことだけは自分自身の財産になるのだから、何もしないよりはできるところまで頑張ってみよう」ということで平成11年8月、野中里山倶楽部が誕生しました。 野中里山構想の策定 一言で地域づくりといっても、口で言うほど生やさしいものではありませんでした。倶楽部を設立しても、順風満帆に今日に至ったわけではありませんでした。「出る杭は打たれる」という保守的な田舎の体質にも随分と悩まされました。集落の半数以上を占める65歳以上の高齢者は、ほとんどが定期的に通院しています。倶楽部の活動を始めた当初は、病院に行った時ほかの人たちから「あんたらぁは騙されとる…」とか、「よそから来た者は何を考えとるか分からんから集落を食い物にされるでぇ…」等と言われたようです。朝、元気だったおじさんが病院から帰った時には元気をなくし、話を聞いてみると「病院で○○さんに『あんたらぁは騙されとる』と言われた。自信がなくなった…」というのです。こうしたおじさんたちと路上で、時には家に上がり込んでお酒を飲みながら「よその人が何を言っても良いじゃないか…今やろうとしていることは間違ってないから…」と夜遅くまで話したこともありました。これは、倶楽部はできたものの、野中集落が、これまで地域づくりとは無縁の集落であったため、みんな何をどうして良いのか分からなかったからだと思います。 そこで、青木氏の計らいにより、これまでいろいろな町や村で地域づくりの手伝いをしてこられた青木氏の同級生の中井氏(津和野町青原在住)に倶楽部の活動を支援してもらうことになりました。そして誰が見ても活動の目標(目指すところ)がはっきりと分かるように、その中井氏の力を借りて野中里山構想を策定することになったのです。 野中里山構想では、高齢者が多いという野中の地域特性を踏まえ「住んでいる人々が心豊かに暮らせる地域づくりを目指す」を基本理念とし、5年後を当面の目標として活動を展開することとしました。また、構想実現のために「生産拠点としての地域づくり」「総合学習の場としての地域づくり」「都市と農村の交流拠点としての地域づくり」の大きく三つの柱を掲げています。 森の学校・里山大学 「地域づくりを行なうには、そこに住んでいる人が住んでいる地域のことを知り、自分のふるさとを誇れるようにならなければならない」という考えのもとに始めたのが「森の学校」です。当初は、中井氏を専任講師に地元の人の勉強会という位置づけでスタートしましたが、せっかく勉強会を行なうのであれば、野中という地域を広くPRしようということになり、平成12年4月からは広く会員を募集して本格的に森の学校をスタートさせました。この森の学校には、町内はもとより益田市や山口市などからも参加者がありました。この森の学校の開催により、これまで無名であった「野中集落」が新聞などにも度々取り上げられるようになり、多くの人たちの知るところとなりました。このことは、活動に対して半信半疑だった地元の人たちに自信を付けさせる結果となりました。 この森の学校は平成14年度まで続けましたが、平成14年度からは森の学校と並行して新たに里山大学を開校しました。森の学校が「座学+実学」を基本に昼間の開催だったのに対して、里山大学は「座学」を基本として夜間の開催でしたが、遠くは広島市などからの参加もあり盛況でした。里山大学は、平成15年3月までの2年間、月2回のペースで開催し、山菜や薬草の見分け方から利用方法まで、より専門的なことを学びましたが、これが、「農家レストラン縄文の館」の基礎となっているといっても過言ではありません。 森づくり・登山道開設・農家レストランの建設 森の学校や里山大学等のソフト事業と並行して進めてきたのが森の整備や登山道の開設、農家レストランの建設等のハード事業です。今でこそ一般的になってきた「里山」という言葉も、活動を始めた頃は一部の人が使うくらいで、まだまだ馴染みのないものでした。こうした中、倶楽部では先駆的な取り組みとして里山の景観の保全に取り組みました。荒れていた広葉樹の森(約2ヘクタール)を整備し「みんなの森」として一般公開しました。この森にはイワガラミが数多く自生しており、毎年イワガラミ観察会を開催しています。また、集落内で一番の標高を誇る胡摩ヶ岳(標高561メートル)に新たに登山道を開設したところ、登山途中から日本海を眺望することができることや、手軽に登れる山として地元の小学校の遠足等にも利用されるようになりました。また、この山を使い平成12年の元旦からは毎年倶楽部主催による「胡摩ヶ岳ご来光登山」を行なっています。 一方こうした環境整備とは別に、「地域づくりはボランティアで始めても経済活動につなげなければならない」という考えのもと、平成14年春から倶楽部員総出で農家レストランの建設に取り掛かりました。カヤ刈りから柱等の材料集めまで、1年半の歳月と延ベ1000人役の労働力により平成15年秋に完成、平成16年4月より「農家レストラン縄文の館」として営業を行なっています。 活動の成果 集落としてのまとまり 活動を始めて大きく変った点のひとつに、住民の連帯感が強まったことがあげられます。活動を始めるまでは、みんなが集まって作業をしたり飲んだりという機会は、新年会か泥落とし、お盆前の道刈りくらいでした。しかし、活動を始めてからは毎月1回の定例会にはじまり森の学校や各種イベント、登山道の整備や草刈り等の作業で多い月には月の半分も集まって作業をしたり勉強したりということがありました。おかげでこれまで余り話をすることがなかった高齢者と若者とが、一緒に作業をするなかで対等に話ができるようになりました。言うなれば、若者が地域の高齢者から認められたということです。 農村景観の保全 農家では、定期的に田んぼの周囲や家の周りの草を刈っていますが、倶楽部の活動が始まり、集落外からいろいろな人が訪れるようになると、自然と草刈りの回数も増えてきて集落全体がきれいになってきました。これは、結果として農村景観の保全につながっていると思います。 高齢者の生き甲斐づくり 平成16年4月にオープンした「農家レストラン縄文の館」は、身土不二を基本に「食」にこだわった山川薬膳懐石を、一つひとつ手作りした竹の器で提供して大変喜ばれています。山菜等の食材の調達から調理、接待は地元の婦人たちが交代で携わり、レストランで使用する竹の器は予約の度に地元の男性たちが手作りしています。これまで年金が主な収入源だったところに、昨年からはわずかではありますがレストランからの収入が加わり、これまでの単調な生活に少し張り合いが生まれたように感じられます。またこれは、高齢者の生き甲斐づくりにつながっているのかもしれません。 縄文の館がオープンして1年が経過しましたが、この間の利用者は約200人でした。営業的に見ればまだまだですが、これまで何もなかった所にこれだけの人が訪れてくれたことは、これまでの倶楽部の活動の成果として大きな自信になりました。これからも息の長い活動を展開していきたいと考えています。 |