「ふるさとづくり2005」掲載
<市町村の部>ふるさとづくり賞 内閣官房長官賞

「昭和の町」整備による中心市街地の再生
大分県 豊後高田市

 豊後高田市の中心市街地は、昭和30年代まで繁栄した商店街であり、人口規模以上の商圏を背景に栄えたところであった。しかし、その後、地域の過疎化とともに「犬や猫しか通らない商店街」と言われるほどに衰退していた。
 そんな中、商工会議所と市内の有志は商店街の再生にこだわり、中心市街地の賑わいを目指した研究を続け、「昭和」をキーワードにした取り組みを行政の事業化としてスタートした。事業は「四つの再生」を柱に商店街の中に「昭和の店」を整備していくとともに、拠点である「昭和ロマン蔵」を集客施設として整備を図るものである。
◎四つの再生
 建築再生―建物の外観と看板
 歴史再生―一店一宝
 商品再生―一店一品
 商人再生―お客さんと会話する昭和の商い
◎昭和の店 現在32店舗
◎昭和ロマン蔵
 「駄菓子屋の夢博物館」
 「昭和の絵本美術館」
 「案内所」
 平成15年には、商店主・商工会議所・行政の地道な取り組みとマスコミの取り上げが功を奏し、多くのお客さんにお出でいただけるようになった。
 思わぬ多くのお客さんにお出でいただけるようになったため、受け入れの仕組みなど様々な問題点も出てきたが、組織の枠を超えて取り組んできた事業を継続するため、今後とも3者が一体となった取り組みを続け、中心市街地を振興していきたい。

 人口1万8600人(平成17年3月31日合併2万6000人)の小さな地方都市に奇跡が起こっている。ほんの4年前まで“犬や猫しか通らない”とまで言われていた中心市街地の商店街を、毎日マップ片手に観光客が店の中をのぞいて回っているのだ。
 豊後高田市は市制施行当時(昭和29年)約3万人の人口があり、中心市街地も国東半島全体を商圏として栄えていたが、過疎化の一途をたどり、商店街もシャッター通りと陰口されるようになっていた。そんな商店街にここ2年、1日に10台以上も県外ナンバーの大型観光バスが乗り入れ、休日ともなると個人客の車で市内の駐車場があふれている状況が続いているのだ。
 「昭和の町」は、商店街が最も活気があった昭和30年代の賑わいを取り戻そうと、商業者はもちろん、商工会議所、行政、市民に加え、市外からの応援団も一緒になって、考え、議論し、実施運営している取り組みである。簡単に言えば、高度成長期に造られた看板建築を取りはずし、元々の建築を見せ、昭和の時代の商い―売る者と買う者の対話を伴った商売―をやっているだけである。しかし、この人と人との対話や商店街そのものの懐かしさが、奇跡の大半を担っているように思える。


「昭和の町」構想

 中心市街地再生の構想そのものは、平成4年に商工会議所が策定した「商業活性化構想」に遡る。この構想は都市計画的な大規模整備を主体とし莫大な資金を必要としたため、そのままお蔵入りの状態となってしまった。しかし、この策定に係わったメンバーは商店街の生き残りを模索し続け、商店街を近代化遺産としてとらえ活用しようと、膨大な調査と長期間にわたる議論を繰り返してきた。これが「昭和の町」のバックボーンとなり、平成12年以降の加速的な動きの原動力になったことは間違いない。
 また、商店街の中でも平成10年頃から「街並みめぐり」や「おかみさん市」といった自主イベントで、まちの中にお客さんを呼び込み、店々を見て回り、賑わいをつくる取り組みをはじめていた。「昭和の町」で商店街を回遊してもらう手法は、これに基礎があったように思われるし、商業者が本来の購買者以外に観光的なお客さんを受け入れる素地となった。さらに、商業者の代表と商工会議所からの熱心な構想の提案と熱い思いを受け取り、事業化していくという行政の全面的なバックアップ体制が整えられたことも、「昭和の町」が現実に形になっていく大きな要因であった。


「昭和の町」の誕生

 実際に事業がはじめられたのは「商店街町なみ実態調査」であった。この調査は商店街の中の土地、建物等の現状や歴史を調べることで、これまでの構想の再確認と町の歴史を物語にしていく、いわば「昭和の町」のソフト部分であった。また、次年度以降に予定していた店を『修景』するための建物改修プランニングも同時に手掛けることで、事業実施に拍車をかけることとなった。そして、修景事業と空き店舗対策事業により、『昭和の店』の整備がはじめられたが、「30年ぶりに町中で大工工事の音が聞こえる」という喜びの声も聞かれた。しかし、構想や下地はできていたものの、実際に自分の店がやるとなると後継者や資金などなかなか簡単にはいかず、最初に取り組んだのは7人の商店主であった。
 こうしてオープンした「昭和の町」だったが、改修した店はわずか、全体的なソフトも未完成、駐車場や看板もない…当然、お客さんの感想は最悪で、「このままでは『昭和の町』は頓挫する」。関係者の中にこの思いは広がった。そこで団体客には、商工会議所や市の職員が付き、お詫びと町の歴史などをガイドすることで対応した。これは後に、自発的に市内の女性がボランティアでガイドを引き受け、人気を高める大きな要因となり、今では「昭和の町」になくてはならないものとなった。


「昭和ロマン蔵」の誕生

 「昭和の町」として連動して商店街にお客さんを誘導する、集客できる拠点施設として高田農業倉庫は、位置といい、規模といい、歴史といい拠点として最適であった。ここは、過去にもコンサートやギャラリーとしてイベント活用され、「昭和の町」オープン時からも「昭和の町の暮らし展」や「昭和の子どもたち人形写真展」など手づくりの展示コーナーとして利用されていた。それを平成14年に小宮氏のおもちゃコレクションの常設博物館「駄菓子屋の夢博物館」を中心とした「昭和ロマン蔵」としてオープンした。
 小宮氏については、元々福岡市で駄菓子屋とコレクション展示の店舗を経営されていたが、商工会議所や応援団の幾度にも渡る熱心な誘いで、ついに「昭和の町」への進出を決意いただいた。倉庫の改装や受け入れのための多くの準備が必要であったが、行政としても“「昭和の町」への一種の企業誘致”として取り組み、「昭和ロマン蔵」と「駄菓子屋の夢博物館」は観光の起点として拠点施設の役割を果たし、賑わいの中心となった。
 また、本年には「昭和の町」のキャラクターになっている童画の原作者である黒崎義介氏の絵本原画を収蔵する「昭和の絵本美術館」も整備し、新たな魅力を付け加えている。


「昭和の町」の奇跡

 さらに忘れてならないのは、商業者・商工会議所・行政が一緒になって取り組んだ対外的宣伝活動であった。福岡・山口方面への幾度にも渡った旅行社・マスコミ等への訪問宣伝は、多くの者が初めての経験であり、多分その熱意だけで話を聞いてもらったものだったと思う。また、応援団を含む関係者がそれぞれの方法で、様々な情報発信に努め、その結果、本当に熱意が伝わったのか、たまたまタイミングが良かったのか、平成14年の年末から平成15年の年始にかけて、全国放送を含むテレビ放映や新聞・雑誌等に多く取り上げていただいた。
 マスコミの影響力は驚くベきもので、年明けから休日も平日もなくたくさんのお客さんがおいでくださり、これまでのバスツアーに対する地道な働きかけや対応も功を奏し、毎日10本以上もの大型観光バスが入るようになった。まさに、奇跡が起こったのである。まるで、昔のお祭りの時のような人の流れに、商店主たちもそこを通る市民も目をみはるばかりの状況であった。


奇跡の継続

 「昭和の店」の整備は毎年7〜8店舗ずつ続けられ、現在では32店舗となった。当初、年問5万人のお客さんを見込んでスタートした「昭和の町」が、20万人を超える状況が続いている。大変ありがたいことであり、まさに奇跡としか言いようがないが、現実には喜んでばかりではいられない。「いつかお客さんが減ってしまうのでは」という不安と、予想外のお客さんの受け入れに対する様々な経済的負担、対応する人の不足、今後の整備への予算など課題は山積している。そのため、現在行政と商工会議所が主体になって、これらの課題に対応するための組織づくりに取り組んでおり、町に魅力をつくる収益施設を整備するとともに、その運営から営業など全体的な受皿となる計画である。
 まだまだ、「昭和の町」による中心市街地の再生を果たしたとは言いがたいが、「奇跡を起こすことより、それを継続させる方が可能性は高い」という考えで関係者一同奮起している。
 「昭和の町」は、まだまだ「工事中」である。懐かしさといとおしさ、思い出と人のふれあいに出会える町。今年より来年、再来年と、まちなかに大工工事の音を響かせ、賑わいをつくっていき、いつの日か日本全国の人々の心を癒す町にしたいと考えている。
 「昭和の町」は枠を超えた人のつながりとそれぞれができることを取り組んで、奇跡を起こしてきた。これからもその思いを大事にしていきたいと願っている。