「ふるさとづくり'87」掲載
入賞

旧市街地におけるふるさとづくり
兵庫県 真野まちづくり推進会
はじめに

 私たちの街、「真野地区」を20年計画でつくりかえようという「真野地区まちづくり構想」を住民に提案してから5年が経過した。この間、生活のための道路「真野公園通り」の一部完成や、モデル分譲住宅の「真野ハイツ」、モデル賃貸住宅の「真野東住宅」完成、そして今年度に着工される約100戸の公営住宅と道路拡幅にともなう共同建替えなど、5年という歳月のわりには進んでいるという人もいれば、都市計画とちがってテンポが遅いという人もいて、その評価はちがっている。
 それにしても何の変哲もない職住混在のわが町を訪れる人々の多いのに驚ろかされる。大学関係者、他市町村の行政、そして地域福祉や自治組織の民間の人々と毎月数組が訪れるが、ちやっかり勉強させてもらっているのは、実は私たちなのではなかろうか。とはいえ、折角交流に来られた方々の期待を裏切らないためにも、何とかまちづくりを玉成させたいと願っている毎日でもある。


街の概要

 私たちの街は、神戸市の西部海岸線に位置し、北を国道2号線、東西を兵庫運河と新湊川で囲まれた陸の孤島のような小学校区である。第2次大戦の戦災をまぬがれたこともあって、地区内の過半数が戦前建てられた家屋で、しかも長屋建てが多く老巧化している。昭和30年以前は、比較的居住環境に恵まれたベットタウンであったが、経済高度成長期からゴム、金属、油脂、機械などの中小零細企業の林立する街へ変わり、45へクタールの地区に260社にもおよぶ工場と、老朽住宅が混在する生活環境の悪い街になってしまった。
 そのため、人口の流失がつづき、ピーク時の昭和35年の13000人が現在では6200と半減してしまった。しかも65歳以上の高齢者の比率が増大し、若者が出て行ってしまうので、農村と同じような過疎化現象が起こったのである。
 そうした生活環境の悪化、人口構成の高齢化、そこからくる商業など街の活力の衰退といった状況に対応すべく私たちのまちづくり運動がはじまったのである。


運動の経過

 現在取り組んでいる「真野まちづくり構想」は、昭和55年に提案したが、その間に神戸市では他府県に先がけて「神戸市まちづくり条例」を制度化したし、国においても郡市計画法と建築基準法をつなぐ「地区計画制度」を制定した。私たちの街は、神戸市とのまちづくり協定の第1号となり、また国の地区計画制度施行に際しては、そのモデル地区に指定された。そういう意味では、いろいろな困難や障害はあっても、行政やコンサルタントなど有識者の熟心な支援、協力があり、めぐまれたまちづくり運動をすすめることができるのであろう。ただ、現在のすすめている「真野まちづくり運動」が5年前、突然はじまったわけではない。運動のキッカケとなったのは、昭和40年代の公害追放運動までさかのぼらなければならない。私たちは運動の経過を、第1期「公害追放運動」、第2期「緑化推進運動」、第3期「地域福祉活動」そして現在の「まちづくり運動」を第4期と分類している。以下、項目ごとに概要だけに述べてみたい。


公害追放運動

 街の概要で述べたように、昭和30年代に増加した町工場の進出によって粉塵、悪臭、騒音、振動といった公害にあわせ、高速道路などの排気ガス、そして兵庫運河、新湊川の汚濁といった複合汚染で、私たちの街はスラム化1歩手前の状態に陥った。当時、四日市ゼンソクなど全国的にも公害患者が多発しはじめていたが、私たちの街でも住民の4割が慢性気管支炎に悩まされ、「かるもゼンソク」とマスコミでも取りあげられる不名誉な公害の街と化したのである。こうしたなかで昭和41年に公害反対住民大会を開き、以後公害発生企業と住民との直接交渉が何年にもわたって続けられた。公害防止装置を設置させ、あるいはメッキなどの公害企業の進出を阻止し、憲法で保障された最低限の生活を守るために、住民総ぐるみの運動が続けられた。当時の運動の母体となったのは「苅藻防犯実践会」で6ヶ町約90名の役員で構成されていた。
 公害反対運動の過程では、「街のイメージが悪くなる」とか「工場を追い出すと街の活性化がなくなる」など一部の批判もあったが、私たちは、ただ、公害を告発し敵対的に追い出してきたわけではない。行政の協力も得ながら公害企業の移転先を斡旋したり、公害防止設備に対する県や市の助成を受けるための仲介をしたりという運動もあわせてやったため、それ以後の企業との関係も非常に友好的でさえある。


緑化推進運動

 昭和45年頃までは、子どもたちの遊び場としての広場や公園は皆無であった。子どもたちはみんな、道路上で遊んでいて、交通事故が多発していた。そこで子どもの遊び場つくりを市に陳情し、公害企業の移転した跡地を市に買いしげてもらうなどの運動が、公害追放運動と並行して取り組みはじめた。
 住民総出で幹線道踏沿いに花壇をつくったり、小さな空地を整備してチビッ子広場にするなど、休目は住民自ら地区の環境づくりに取り組んだ時期でもある。
 昭和46年、尻池公園の開設から52年の南尻池公園の開設まで、大小9ヶ所の公園を確保することができた。
 また建設省による緑化推進モデル地区の指定を受けたことから、各家庭のひと鉢運動や企業の周囲に垣根木を植えてもらったことなど緑化もすすみ、現在では露地に草花が咲きみだれ、訪れる人々を感心させるほどになっている。
 また子ども会同士の交流や、新湊川の浄化運動を通じて交流と連帯を深めてきた丸山地区から300木をこえる樹木の寄贈を受けている。


地域福祉活動

 昭和50年代になって公害も減少し、緑も増え徐々に住み良い街にはなってきたが、時すでに遅く昭和35年のピーク時から4割近い人口が減り、8500人になってしまった。その結果、ひとり暮らしの老人夫婦世帯など核家族化がすすみ、老人問題が深刻になりはじめた。
 当時、全国的にもひとり暮らし老人の孤独な死が、新聞紙上にたびたび登場しはじめたこともあって、この地区で死後何日も発見されないという痛ましいケースは出すまいという決心から、民生委員を中心に向こう3軒両隣のボランティア組織を結成し、友愛訪問活動をはじめた。
 同時に「まちづくり学校、医療教室」を開いて勉強するなかで、寝たきり老人は風呂へ入りたいという願望を一番強くもっていることや、ひとり暮らし老人が交流をもたず家にとじこもっているとボケたり、寝たきりになるということが分かってきた。 そういう学習のなかから、昭和53年より「寝たきり老人の入浴サービス」をはじめ、昭和55年より会食方式の「ひとり暮らし老人給食サービス」をはじめた。数年の実績を経て神戸市に予算要求をしたところ、一部助成制度もできたし、他の地区にも同様のサービスを実施するところが増えてきた。
 私たちは、これだけで満足しているわけではない。今後の課題は、老人が在宅ケアを安心して受けられ、しかも生活できる家賃で入居できる老人向けの住宅が必要だし、予防、治療、リハビリまで含めた総合的な健康づくりができ、しかもショートステイなどの中間施設的なものを含めた「福祉センター」の確保が必要だと考えている。


20年計画のまちづくり運動

 公害から地域福祉まで、どちらかといえば『なんとかしなければ』という受け身の運動をつづけてきたわけだが、4期目の「まちづくり運動」は、住民が自主的に未来に向かって能動的に街をつくろうという点でロマンがある。
 まちづくりの構想づくりは、昭和52年に長田区長も参加した「まちづくり懇談会」から翌年には「真野まちづくり検討会議」を結成して構想案を検討した。
 昭和55年に「まちづくり構想」を住民に提案し、「検討会議」は発展的解消し、「真野まちづくり推進会」となる。
 まちづくりもひと区切りである5年が経過したが、モデル住宅や公営住宅、道路拡幅やコミュニティセンター用地の確保などこれまですすめてきた事業のほとんどは、行政の手によるものだ(とくに財源面で)。
 さて、これからが住民主体へ私たちがどこまで迫ることができるのかという点でいよいよ正念場である。道路拡幅、隅切り、そして老朽住宅の共同建替えなどで、住民の活力が発揮できるかどうか、不安はあるが、それができなければ私たちのまちづくりは成功といえない。
 とにもかくにも「安全」「健康」「便利」「快適」という物理的側面と「家族愛」「隣人愛」「人間愛」といった精神的内容を統一した街にするのが私たちの願いである。