「ふるさとづくり'87」掲載
奨励賞

小さな世界都市、美しい芳洲の里づくり
滋賀県 高月町雨森区
 高月町雨森は、滋賀県の北部、琵琶潮の北の“湖北地方”と呼ばれる田園のなかに広がる農村集落。古くから水稲を中心にした農家がほとんどであったが、最近では第2種兼業農家が多い。戸数120戸、人口520人ほどの村である。
 私たちのふるさとづくりのきっかけは、昔は「働くのも、遊ぶのも、寝るのもみんな村の中」であった時代から、サラリーマンが増えて「寝に帰ってくる所」に変わってしまったふるさとをもう1度遊んで楽しむ場にしようという、極めて単純でやさしいところからのスタートである。よくいわれる連帯感が薄れ、村に活気のないのを、みんなが楽しみながらいきいきとしたふるさとにつくり出していこうということであった。
 住んでいる住民が、自らふるさとを見つめ直し、失ってしまった良さを回復し、新しい良さを創造することこそ、地域への愛着と誇りにつながるものと思われる。自分の住んでいる地域の良さは、実はそこに住んでるものには分からないで、外から教えてもらって改めてその良さに気づくケースも少なくない。
 私たちの村でも、村が生んだ江戸時代の儒学者で当時の日朝友好に大きな功績を成した雨森芳洲(1668〜1755)について、京都大学の上田昭教授らによって、鎖国のなかにあってアジアのなかの日本をしっかり認識し、とりわけ朝鮮との友好を研究し実践した優れた思想家であり、外交家であり、研究家、教育家でもあった人で、日本と東アジアの友好の灯になっておられる偉大な人物、滋賀県のみならず日本が東アジアに誇る大先達であると教えられ、遺徳の顕彰を進めなければならないということになった。
 芳洲の業績を讃え国際化のなかの民間の交流を進める記念館の建設をめざして、行政へ働きかけ昭和59年11月にはその名も「東アジア交流ハウス 雨森芳洲庵」が完成した。この建設にあたっては、建物をどのようなものにするのか区民が研究し、ユニークな建築物の視察などを行い、結論は芳洲が偲べる木造の建物ということになり、京風書院造りの芳洲庵となった。庭も芳洲の厳しさを出すような男性的なものとした。そして、この素晴らしい建物と調和する“美しい芳洲の里”をつくろうという話がふくらんで“小さな世界都市”づくりへと広がった。


村の風景憲章の制定

 雨森は、その名のとおり森の村である。鎮守の森は県下でも屈指の巨木の数が多いので知られている。芳洲の屋敷にも観音様の杜にも大きな木が茂っている。そして先人の知恵で村のなかを縦横に幅1.5メートルの川がめぐっている。これら先人が残してくれたまちづくりの素晴らしさも、村を訪れる人から指摘されて改めて思い直したものであった。
 この村の美しさを守り育てようと、昭和59年7月には“村の風景憲章”を制定した。この憲章は「ふるさと雨森の風景を守り育てる憲章」というもので、住んでいるみんなの小さな心づかいと工夫によって、美しい村の風景を守り育てて次の世代に引き継ぐため、芳洲の里として、小さくてもキラリと光る村の風景づくりをめざそう、というもので、“雨森の名にふさわしいみどりの森をつくるため、みどりを守りみどりを育てます”“せせらぎのきれいな村をつくるため川をきれいにします”“先人たちが残してくれた歴史的景観を大切に守ります”“みんなでいつも村の風景を考え美しい村をめざします”−−というものである。
 そして、この憲章を生かす活動としてさまざまな修景活動、アメニティの保全と形成活動を行ってきた。
 村のなかの川を美しくするため、ゴミは下流へ流さず、みんなが近くの川を掃除し、川へ鯉を放流して、楽しみながら清冽な小川づくりが成功し、村を訪れる人からは“近江の津和野”と呼ばれるようになった。
 この川をいっそう引き立たせるため、隣組単位で、村の山から切り出した木を使って手づくりのプランターを作り、川のなかに設置して華やいだ雰囲気を作り出した。さらに、村に数個所は手づくりの可愛いい水車を回し、カタコトという音を響かせ、ふるさとのイメージアップを高めるとともに、水のなかに酸素を入れることでいっそう澄んだ水にする効果も現われた。
 個人の家でも生け垣が増え、芳洲ゆかりのタチバナの並木づくりも定着し、新しく整備された道路には、コスモスの花を植え、秋にはやさしい風情をかもし出している。村のなかの電柱も1本でも少なくなり、少しでも目に付かなくなるよう移設してもらったり、ガードレールも緑の田園と調和する緑色に塗装したり、カーブミラーの黄色い支柱には、竹を取り付けてカモフラージュするなど村の歴史、自然、文化を生かしながらのふるさとの景観づくりは、快適環境づくりへと進み、美しい芳洲の里と呼ばれるようになってきた。
 このような農村のアメニティを都会から訪れる人にも享受してもらえるよう、村のなかを巡ったあとは、静かな芳洲庵で抹茶を楽しんでもらうサービスを村の婦人たちが始めて人気を集めているし、芳洲ゆかりの料埋やお菓子も賞味してもらうなど開かれたふるさとづくりにも努めてきた。


近隣景観形成協定の締結

 そして、昭和60年7月に全国でも珍しい「ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例」(略称「風景条例」)が施行されたが、この条例のなかの大きな柱である、住んでいる住民が景観づくりの協定を結ぶ「近隣景観形成協定」の第1号を村ぐるみで締結し、さらに景観づくりを進めることになった。
 このなかでは、“コンクリートやブロックのへいは避け、生け垣を増やそう”“屋根は日本瓦の勾配のあるものにしよう”“建物は派手な色彩を避け農村らしい落ち付いたものにしよう”“川をきれいにし、みどりを増やそう”−−といった事柄をみんなが確認しあい、協定書ができあがった。
 このような県下でも、全国でも集落単位では例の少ない景観づくりを進めるには、村の者が村のなかだけ見つめていたのでは新しい空気が入ってこないということから、昭和61年5月には「景観づくり草の根のつどい」を開いた。これは“自治会景観サミット”と呼んで、滋賀県下の美しいまちづくりを進める15の自治会が参加し、財源不足や修景についての事例や悩みを話し合い、どう克服していくかの方途をさぐろうというもので、意義深いものであった。
 快適性、住み心地の良さといったものは、短急に作り出すことは難しく、長い時間をかけ、楽しみ半分に息の長い活動が必要であり、そのためには世代を越えた取り組みが不可欠となってくる。
 そのため青少年が早くから地域のことを考えるため、「風景条例」をもじった「風景情麗」の歌をつくって、中学生に歌ってもらったり、村のみんなが歌って踊れる「雨森音頭」も区民手づくりで創作し、小学生のコーラス入りでレコード化した。この曲をいつも家庭にと、テレホンオルゴールを作って全戸へ配布、「ちょっとお侍ち下さい」という電話の合い間には、「桜かすみの湖北の里に緑の森のそびえる村よ……」と、ふるさと音頭が流れている。


草の根の国際交流をめざして

 青少年が小さなふるさと意識だけにとどまってはいけないので、広い世界へ視野を広げることの手助けも必要である。村では、芳洲が仕えた長崎県対馬の子どもたちとの交流を続け、お互いの代表が行き来したり、図画や書の交換を重ねている。
 国際化は21世紀に向けて民間交流が進むものと思われるが、村でも江戸時代の外交家を生んだ村として、「湖北の村からアジアが見える−−国際村アメノモリ」をキャッチフレーズに、草の根の国際交流をめざしている。小さな動きだが、韓国の書家の「善隣友好」の書や、ハングル文字の書が届けられたり、在日韓国人がたくさん芳洲庵を訪れるたびに友好のきずなを広げている。来年には、芳洲が渡った釜山を村の者が訪れ、交流の拠点探しの旅の計画もはずんでいる。東アジア交流ハウスに東アジアの首脳を集めて「友好サミット」を開くのが将来の夢となっている。
 緑と静けさのアメニティだけでは、村の活力と若者をひきつける魅力がないのでは、ということから、日常の活性化や文化の向上もエネルギッシュだ。若者総参加の芳洲まつりは村から地域へと広がって盛大なもの。ちびっ子トライアスロン大会もユニークな催しだし、村の全戸が夏の10日間ナイターで熱戦を展開する「ファミリーゲートボール」も、その発想が全国へ広がった。区民運動会も「雨森キンリンピック」の名で全員が握手を交わし、すばらしい盛り上がりで、情報紙「まち・むら」のカラーグラフで紹介された。
 子どもたちの成長を願って、村のコイのぼりを集めて、高時川に川渡しする風景も壮観だし、村の全戸の数のタコを1本の糸に結んで上げるたこ上げ大会や、村の1年間の行事やニュースで綴る「雨森かるた」も毎年作って好評で、芳洲の詠んだ和歌1万首のなかから100首を選んだ「芳洲一人百首」のかるたとともに子どもたちの歓声を集めてにぎわう。
 老人クラブもふるさとの山を守ろうと、マツタケ山作業に取り組み、美しい松林の山を蘇らせ、秋にはマツタケ狩りでにぎやか。
 こうした区民の連帯感をまとめ、オピニオンをリードする村の新聞「区報あめもり」も昭和37年に創刊され、一時休刊の時期もあったが、ここ数年は月2回発行され、全員が顔写真で紙面に登場する親近感で、都会に出ている人へのふるさと便りとして喜ばれている。ユニークな編集で京滋広報紙コンクールで自治会紙最優秀賞も受賞している。