「ふるさとづくり'87」掲載 |
奨励賞 |
地域における豊かな暮らしを求めて |
和歌山県 三田生活学校 |
三田生活学校のある三田地区は、和歌山市の中心から東西に4キロメートルのところに位置し、和田、坂田、田尻と田のつく3地区からなり、かつては、地域名の通りの静かな農村であった。しかし、ご多分にもれず開発が進み、工場、農家、団地などと、さまざまな人が住むようになった戸数1700の地区である。昭和45年に開校したわが生活学校は以降15年間、休むことなく活動を続けてきた。 バス路線の変更と新停留所の設置 開校当時、三田地区は、市の中心部に出るには、坂田→和田→田尻を経過して、国鉄和歌山駅に通じるバスを利用していた。ところが、昭和46年の和歌山国体を機に、国体道路と呼ばれる二車線の県道和歌山・海南戦が開通し、バスはその立派な道を走ることとなり、わが地区の大半はバス路線からはずされてしまった。市内への通勤者や高校、大学への通学生、買物で商店街へ出る主婦など多くの人が支障をきたし、通勤に自家用車を買わねばとか、通学に単車がほしいという人も出るような状態になった。 生活学校で集まるたびに、バス路線のことが話題になり、「路線を元通りに戻す運動をしよう」ということになった。こんな大きな話題に女のわれわれが取り組んでも………という不安もあったが、できなくてもともと、できれば儲けもの、やらずになげいていても仕方がない、やるだけやってみようというような、やぶれかぶれの意気ごみで、この問題に取り組んだ。 まず、地区内300戸に対して、バスの利用目的、利用頻度、利用時刻、意向などの調査を行い、それをもとに各種団体、住民との話し合いを重ね、地域住民の合意をとりつけ、バス会社との対話を行った。話し合いのなかで、路線変更理由のひとつに、田尻から旧市街に通じる道が狭く、交通渋滞を起こすということがあげられた。 そのころには「三田にもう一度バスを走らせよう」という住民の一体となった熱意が盛り上がり、バスの折返しのための土地提供を申し出る人も出てきたので、バス停留所の増設要望をも併せて再三、再四の話し合いを持った。その結果、バス会社も生活学校運動にカブトを脱ぎ、昭和46年4月の新しい引き込み線と新停留所の実現をみ、以来住民の足として利用されている。 開校1ヶ月で、必死の思いで取り組んだこの課題の達成によって、運動の基本的な展開方法と同時に、その面白さ、喜び方を体得し、「生活学校」にたち切れない愛着を覚えることとなった。 青空市場の開設 三田地区は、前にものべたおり、3地域からなりたっているが、田尻は農家が多く、坂田は、住宅団地が続々と開発され、勤め人が多く、和田は工業地となっている。田尻地区の農産物には、市場へ出荷した残りや、規格外品や、自家用野菜の残りなど、捨てるに惜しい物がたくさんあるが、処分のしようがないという話があり、かたや、和田、坂田では、安価で新鮮な野菜がほしいという声があった。 田尻の農家の人たちと話し合ったところ、出荷用以外に、野菜、いちご、みかんなどが余るほどあり、地元で使ってもらいたいと思っていることがはっきりした。また、坂田、和田の非農業の人たちとの話し合いでも、地元の野菜を購入したいとの希望が多かった。両者の思いが合致しているので、田尻の農家が売手となって、毎日日曜日の朝9時30分から青空市場を開くことにした。 農家側は、余剰品は腐らせてしまったり、市場価格の関係で、田畑にすき込んでしまったりしたものも、全部生かされるだけではなく、庭先や蕗や、山椒の葉や実までが市場に出るようになり、さらに老人たちは、山へ山菜取りに出かけ商品化するなどで大喜び、かたや買い手の方も、新鮮で、安価(市価の半額程度)で、信用のできる商品が入手できて大喜び。毎日曜日の朝の青空市場は大賑わいで好評を得た。 この青空市場は、初期の目的以外に、大きな効果を内在していた。毎日日曜日に集まることにより、井戸端会議的な話し合いが活発に行われ、農家と非農家、新住民と旧住民、高齢者と若者といった異質な人々の生活の実態や、よろこび、苦労などを理解できるようになるとともに、野菜を漬け物などに加工して商品としたり、若い人に指導したり、ふるさと産品化するための試食の場となったり、また、山や野原を知らない住宅地の子どもたちを老人たちが山菜取りに連れていったりなど、数え切れないほどの効果をあげた。 リサイクルシステムの確立 昭和49年のオイル食以来、省資源問題がクローズアップし三田でも「もったいない」という言葉がとり交わされ、ゴミに目が向いてきた。 和歌山市では、ゴミは混合収集され、そのまま焼却、埋立処分をしていたので、埋立地の延命、資源の再利用の面から、ゴミのリサイクルシステム(分別収集と再利用)の確立をめざした活動に取り組むことになった。 地域各戸のゴミに関する実態、再利用システム作りに対する意向、関心などの調査を行うとともに、市のゴミ処理の実態調査、沼津市、広島市など先進地の見学、製紙会社、金属会社の見学などの事前活動を行い、市の回収方式について、行政との対話集会を持った。 人口40万人の和歌山市で1小学校区でしかない三田が、どうあがいてみても、聞きいれられるはずのないことは百も承知であったが、あえてこの運動ののろしをあげ、警鐘を打ち、地区活動の出発点にしたわけである。 まず、もっともやりやすそうな古紙からはじめ、回収業者との対話集会、地区ごとのステーションの設定、回収計画、世話役決め、地域への周知の方法などの体制固めを行い、50年4月いよいよ集団改修の実施に移った。その後1年間、古紙回収の徹底をはかり、次にガラス瓶カレットの回収、てんぷら廃油の回収、空カンの回収へと地道に定着を見きわめながら、次々と進めてきた。 ちなみに、てんぷら廃油については、豆腐屋、惣菜屋、大量給食をしている学校、病院、工場などを対話集会に招き、ともに地域を考えようと合意を求めた。空カンについては、学校、PTAをまきこみ、また散乱する空カンは高齢者の定期で果たす役割を明確にしながら、力を出し合うかたちにした。その結果、リサイクルは勿論、地域の美化、汚染防止などにも大きな成果をあげることができた。 上記の活動実績をしめしながら、市行政に対して、ゴミの分別回収を訴え続けた結果、10年目にして、ようやく分別回収が実施されることになり、これに果たした三田地区の役割の大きさが、高く評価されるとともに、三田の住民は先駆者としてのよろこびをかみしめた次第である。 高齢化社会への対応 (1) 高齢者の在宅福祉の充実活動 三田の旧住民のなかには高齢者を抱えた家庭が多く、高齢者も、孫の守りや家事、留守番などそれなりに家族の一員としての役割を果たしているが、近年、豊田商事事件、観音竹事件など、高齢者の被害が多くなってきた。これを防ぐため、高齢者を対象にした講座の開催とともに、被害防止、苦情処理のネットワークを作った。すなわち、生活学校のメンバーでそれぞれ受付地域を持ち、きめのこまかい情報の伝達や苦情処理やクリーニングオフの窓口としての役割を果たし、地域住民に喜ばれている。 三田の旧住民のほとんどが二世代、三世代家族であり、病弱な高齢者のほとんどが家庭で看護されていることから、病人にも、看護婦にも、楽で便利な器具の貸与、紙おむつなどの器材の共同購入をねらいとして、該当者の意見調査と、医療器具店での器材の調査を行った。 この結果を市の生活学校大会で発表し、市内22校の同意を得て、市行政へ要望した結果、低所特赦に対して「ねたきり老人見舞金支給事業」の代替として、介護用品(インターホン、ベル、ブザー、車イス、洗髪器、ポータブル浴槽、寝具乾燥機、寝具、ガスもれ警報器、紙おむつ)が貸与のかたちで支給されることになったが、一般家庭に対してこれらのリース制や斡せんについて、さらにつめていく所存である。 (2) 高齢者の社会参加 さきにものべたが、旧住民のなかには高齢者が多いが、新住民はほとんどが核家族であることから、高齢者の持っている知識や技術の伝承をねらいとして「むかしの遊び」を取りあげ、高齢者と子どもを対象に遊びについての調査を行い、その結果をもとに小学校の協力を得て、生活学校が高齢者と子どものかけ橋となって、夏休みを利用して「高齢者と子供の交流会」を開いた。 竹馬、竹とんぼ、水鉄砲、お手玉、あね様人形などの作り方を教える高齢者、習う子どもたち、ともに遊ぶ老と幼、いままでわが地区で見たこともないような光景がくり広げられ、「また次の機会にな」「また○日に教えてね」と地域の老人たちと地域の孫たちの自主的で積極的な交流が芽生えはじめ、今後の大きな楽しみとなっている。 男性の活動集団の誕生 生活学校が誕生してより15年間、上記以外に、様々な活動を展開してきた。例えば、トイレ包装の排除、合成洗剤の追放、水道問題、農薬空きビンの適正処置、プロパンガスの安全管理、など数多くのことに取り組み、それなりの成果をあげてきた。 しかしいま、われわれ生活学校のメンバーがもっと心強く感じていることは、男性の活動集団が誕生したことである。「地域には、女性と男性が半分づつ住んでいる。にもかかわらず男性の活動集団がないことはおかしい」と、心ある男性に働きかけ、昭和57年に熟年男性を中心にしとした「三田町づまり会」の誕生をみるに至った。 わが地区では、婦人、熟年、壮年の異質な集団がそれぞれの運動を展開しつつ、隔月に合同会議を持ち、各集団からの希望や提案を出し、お互いに助けあいながら強力な運動を展開することになっている。合同会議では道路の問題、中学校の学区の問題、投票所の変更の問題、老人いこいの家の建設、町史の編さん、和田川の浄化など、いままで話題にもならなかったことが、真剣に語り合われている今日このごろである。 生活学校を母体として、男性の2集団を生み出し、やっぱり「女は強し、母はなお強し」と自画自賛をしている次第である。 |