「ふるさとづくり'87」掲載

ふるさと美深にDON企画あり
北海道 DON企画
DON企画の誕生

 名称の起源は「ドンドン祭」に始まった。
 昭和57年9月、おやじさんたちの殻からちょっとぬけ出したくなった商店の二世たち10人が密会(?)した。メンバーは若いから決めるのも早かったし実行も早かった。町の中心部(国道40号線と当時赤字日本一のローカル線美幸線の美深駅前通りが交差する)にある遊休店舗で、第1回共同売出しを行うことが決まった。これがこれから紹介する私たちDON企画結成の一歩となった。
 新しい発想で共同売出しをと、物に不足しない時代にお客に満足してもらえるショッピングのかたちづくりと、町のど真中で年中シャッターが降ろされ、見るからに活力が失われている状態に奮起したのである。これは後日、商店街診断の第1の問題提起になった訳だが…。
 売出し期間は2日間、10人の夜を徹しての準備と当日のイベント内容が功を奏し、予想をはるかに超えた成果を得たことに歓喜した。そしておまけがついた。まちの活性化の要素が強いということで地方紙に記事として取り上げられた。宣伝費のかからない大きなPR効果を生んだ。
 タイトルは、どんどん売れるように、どんどん前に進むようにとのプラス発想で「ドンドン祭」になった。ドンドンドドーンと太鼓の響きを店内外に流したものだから子どもたちにもお祭りの親しさで受けたようである。対外的に責任を持つためにグループの名前を明らかにしようと「ドン」から引用して「DON企画」の誕生となった。


「びふか街(がい)ど」発刊

 当初3ヶ月に1回ペースで「ドンドン祭」を計画した。そして、時代のテンポの速さから3年間を一応の目処とすることで決議一決した。実際には3年間で15回を数えたが、お正月に商品を売らない遊びのイベントなども実施した。でもいつまでもよい状態ではない。3年間を通して来店客の固定化に気がついた。人口8000の小さな町の流動人口の少なさといえばそれまでだが、どうしても、この種の企画ではアタックできない人々が多く、私たちは悩んだ。何をしようか。共同売出を続けながら自店舗と町民とのつながりを持たなければならない。30分ほど車で走れば、デパートのある名寄市があり、消費流失も大きい状態にあるので、DON企画のメンバー店だけの問題ではなくなっていた。密度の高い商店街の活性化をはかり、個性的で魅力のある店舗づくりや、楽しい商店街づくりをしなければ、衰退の一途をたどることは誰もが考えるところであった。
 私たちのできることは何かを議論した結果、東京中小企業大学を受けた1人の提案で、ミニコミ誌を発行し、お客とコミュニケーションをはかろうということになった。これは画期的なことであるとともに大変な作業であると思った。なにしろまったくの素人が仕事外でやるわけだから。それと経費の心配もあった。それでも計画はどんどん進み、2600全戸に無料配布し、年4回の季刊誌として3年間をめざしたその名も「びふか街(がい)ど」と華々しく、と申し上げたいところだが、創刊号が普通の新聞の開き方とは逆開きになるミスをし、いかにも素人っぽいデビューだった。
 内容は商品情報、街の話題、グループ紹介に加えて文化的な要素も入れることにした。ただ、選択の自由から政治と宗教については記事にしないこととした。1回の発行経費20万円は、全商店にスポンサーを募り、広告収入と私たちのカンパから始めた。現在、郊外は町の区長によって配布されている。内容を豊富にと商業界以外から教育委員会の若手職員に毎回寄稿してもらい、いつもユニークな記事を提供してくれている。そして彼は、私たちDON企画になくてならない存在となり、一緒に町を考える立場でドンくさい私たちとハイセンスな彼が、どうしてマッチできているのか不思議な間柄となってしまった。


ひとり歩きしはじめたDON企画

 さて、私たちの活動が「ドンドン祭」「びふか街ど」「DON企画」と町の話題に取りざたされると、私たちがビックリすることも起こってきた。ひとつに60年度北海道新事業として発足した「北のまちづくりプロジェクトチーム」に「ドンドン祭りとミニコミ誌『びふか街ど』」が美深町の自慢のマチづくりとして挙げられた。「会員の店の宣伝のみならず、商業ニュース、地域の話題を盛り込み、紙面を通じてマチづくりを展望している」という理由からである。また、昭和60年7月には、広大な自然のなかでフロンティアスピリッツとユニークな発想で、住んでいる環境に解け新鮮なビジョンを目指して活動する北海道ミニミニ独立連邦のひとつとして名を連ねたことである。
 そして「アイディアグループDON企画」の異名も寄せられ、商業活動から町づくり活動の集団へとなっていった。その要因のひとつは、メンバー10人のほかにミニコミ誌を発行するときよきアドバイザーであるとともによきパートナーである教育委員会と商工会、地元信用金庫の3名の職員が参画していたからである。
 「DON企画」は私たちの知らないところで、どんどんひとり歩きしはじめ、共同売出しグループのイメージが薄くなってしまい、本来の姿には戻れない新しい体質にならざるをえなくなった。でも、あくまでも商業団体であってボランティア団体や助成を受ける団体ではないことを確認しなければならない。10人のメンバーは、商工会青年部員として中核的存在であり、青年活動にも活発に参加していたから、この3年間を一区切りと考えたことは一応の目安が達成されたが、その頃大きな壁につきあたった。それは新しい活動のDON企画に歩調を合わせられないメンバーが出てきたからである。これから述べる第2の脱皮によって新生DON企画が今日存在することになる。


サヨナラ美幸線最終列車キャンペーン

 昭和60年8月、10名の話し合いでお互いの立場を認め合ったうえでDON企画は解散した。そして5名の新DON企画が動き始めたのは、9月16日に廃止されることになっていた日本一の赤字ローカル線美幸線についてであった。それが私たちがやらなければならないこ大事業になった。
 ことのおこりは単純である。7月中旬に近くの廃止線に行ったひとりが、ある新聞社が作った記念絵ハガキの内容が間違えていることに気付いたことがきっかけとなった。そのことを知らされたメンバーは、地元の人間で記念品を作らねばと痛感した。この話を各方面に協力要請すると、さまざまなアイディアが飛び出し、話はどんどん発展の一途をたどった。ついに廃止日の9月16日に来町する方々へ記念品を作ろうと考えたことが、ひとりでも多くの人にサヨナラ列車に乗車してもらい、美深の町を知っていただこう、そして町民に与えるマイナス要因をみんなの力ではね返そうと決意したのである。お金ことなどまったく頭になかった。いましかできないこと、これしかない、と5人の気持ちが一致した。
 9月7日札幌テレビ塔下、8日旭川駅と旭川西武デパート前でのサヨナラ列車キャンペーン、15日美深駅前、16日仁宇布駅前(美幸線の終着駅)と、準備からわずか1ヶ月余の短期間のハードスケジュールになった。一体いくらかかるのか、赤字のときはどうするか、私なりに心配はあった。旭川と札幌のまでの経費は唯一記念品の売り上げに負うしかない。協力金や助成金は0である。そんな心配とは関係なしにアイデア商品はどんどん作られた。銀行マンの主婦がかって出てデザインした女の子のキャラクターは、その愛らしさが評判となり、木製ハガキ、BIGペーパーバック、小樽ワイン会社と提携してBIKOH LINE(美幸線)ワインのラベルにレイアウトされた。美幸線の石、Tシャツ、ミニチュア額縁、切符型キーホルダー、ステッカー、シラカバ壁掛、美しい幸せの旅テープ、レールセンヌキ、レール文鎮、記念ゴルフボールなど続々とできあがった。
 「美幸線最終列車に乗ってあなたも美しい幸せの旅を体験してみませんか」と記念乗車券を持ってキャラバン隊が編成された。多くの団体の全面的なバックアップはお金のない私たちを大いに勇気づけてもくれた。結成されたばかりの美深ふるさと太鼓愛好会、産業振興推進協議会も美深特産のじゃがいも、かぼちゃのチャリティとPRに、そしてミス、準ミス美深のお嬢さんたちが花を添え総勢24名のキャンペーンは、9月7日、8日雨にもかかわらず大成功を納めた。そして驚いたことがあった。それは北海道のTV局がすべて取材にきたことだ。田舎の心意気を買ってくれたのだろう。それと最後まで廃止反対に頑張り続けた赤字線の象徴「美幸線」という名の大きさだったと思う。このキャンペーンでキャラバン隊全体が高い評価を受けた。美深町がなくなるわけではない、こんな小さな町にも、どっこい生きている存在証明をし、新たな町の活性化を町民にアピールした。前線開通の陽の目を見ないまま美幸線は消えてしまったが、キャンペーンを通して、いつまでも心に残したい試みであったと思う。
 9月16日、サヨナラ列車は道内外の3500人の人々を乗せ、秋晴れの山野のなか、いつもは1両しかないレールの上を8両編成を超満員にしてかけぬけた。「美幸線」っがせっかく全国に知れわたったのだから固有名詞にならないだろうか、そして町づくりに生かせないものか、残された遺産をどう活用するかを課題とし、DON企画は新しい挑戦に臨むことになった。


思い出の美幸線1年祭

 最終列車の走った日から1年目を迎えようとしている9月13日の土曜日、美深神社で採火した聖火は、赤く錆びた鉄路を右に左に見ながら21.7キロを子ども5人を含む美深走ろう会のメンバー20人によってパトカーを先導に走った。題して「美しく幸せの聖火リレー」。心にだけは過疎をつくりたくない、そんな「心」と「心」を結び合うレールを、この1年間祭を通して1本1本つないでいきたい。そんな思いで町民の交流を目的に思い出の美幸線1年祭を単独主催した。「生まれて初めて夜空に大輪の花火を見せてもらったヨ」と喜んでくれた仁宇布のおばあちゃん。会場は駅も看板もなにもなくポツンと残されたプラットホームが舞台だった。来場者数150名で前回の比ではなかったけれど、充実感はもっと大きいものであった。資金は6月に行った「一枚の絵」絵画展を主催して得た30万円で賄った。
 DON企画はこの1年のうちに町づくり集団のひとつであるとクローズアップされ、メンバーに責任もついて廻るようになった。私たちは自己のおかれている立場をしっかりと見極め、商業を通して町の活力を生み出していくことを忘れてはならない、と思っている。そして「仕事は即ち生き方」の言葉通り、見失うことなく全力疾走していくことを、新しくひとり加わって6名となったメンバーがしっかりスクラムを組んで、わがふるさと美深を愛し、子や孫にすばらしい町の財産を残すことを究極の目的として生きていきたいと思っている。