「ふるさとづくり'87」掲載

音楽を通じてのまちづくり
神奈川県 陣馬・相模湖音楽祭実行委員会
森と湖に囲まれた小さな町
 私たちの住む藤野町は、神奈川県の最北西部に位置し、東京都と山梨県に接しており、横浜市と甲府市のほぼ中間にある。
 交通面では、国鉄中央線、中央自動車道、国道20号線が町の東西を走り、都心への連絡は比較的便利であることから都内への通学、通勤者が多いところである。
 地形は南北に長い長方形を成しており、中央部を相模川が東西に流れ、町域を二分している。
 面積は神奈川県全体の約2.7%の65平方キロメートルで、山林が約75%を占めており、豊かな緑が県民の貴重な水がめである相模潮の水を担っている。
 町の北部には東京都八王子市と隣合わせに神奈川景勝50選に選ばれた陣馬山がそびえ、昭和58年12月には相模潮とともに倶立陣馬相模湖自然公園に指定され、多くの人々に親しまれている。
 また、町中央部の名倉地区には昭和47年に開設された観光農園の「藤野園芸ランド」があり、秋の味覚シーズンにはイモ掘り、クリ拾いなどで、かなりにぎわうところである。同地区は全体になだらかな山地となっており、ケヤキ、クヌギ、コナラなどの雑木林による濃い緑に囲まれたところであり、61年4月「森林浴の森日本100選」に選ばれ、新緑の春には多くのハイカーでにぎわった。
 現在、人口1万人余り。森と湖に囲まれた小さな町、自然豊かでやすらぎのある町。そしてちょっと田舎っぽい町で、音楽を通じたまちづくりとして、陣馬・相模湖音楽祭を開催している。

自然のすばらしさをより多くの人たちに
 「自然を生かした人間性豊かな住みよいまちづくり」これが昭和59年3月に策定された藤野町第2次総合計画に記された町の将来像である。この豊かな自然をいかに生かし、心豊かな暮らしを築いていくかが町の課題であり、私たち住民の望みでもあった。緑公害といわれるまでの豊かな自然、しかも生活基盤もまだまだ未整備のところが多く、文化施設もまったくない地域にあって、自然を生かした人間性豊かな住みよいまちづくりは、町にとっても住民にとっても容易な話ではなかった。
 そんななかで、私たちの自然保護グループの話し合いのなかで、藤野町の自然のすばらしさをより多くの人に知ってもらったらどうかという意見があった。東京から1時間圏内にこれほどすばらしい自然があることを知っている人は少ないにちがいない。自然を保護していくためには、自然のすばらしさ、自然の尊さをより多くの人に知ってもらうことが必要であった。しかし、そのためにはどうすればよいか。どうすればこの藤野町に人が来てくれるだろうか。その後の意見が続かなかった。
 沈黙のなかで、メンバーのひとりである町内在住の声楽家釜付良子さんから「今年、若手研修のためにオペラ歌手や研修生が藤野に4日間滞在するけれど聴いてみない」という提案があった。
 誰とはなしに「それなら自分たちだけでなく、音楽祭にしたらどうか」という声があがった。日ごろ鑑賞する機会の少ないオペラを大勢の人に聴いてもらうと同時に、わがまちの自然のすばらしさを来た人に知ってもらうことができる。まさに一石二烏であり、全員の賛同を得ることができた。

大自然の中で聴くオペラ
 さっそく音楽祭のための実行委員会を組織し、委員長を釜付さんにお願いした。そして音楽祭の名称は、町の代表的な景勝地である陣馬山と相模潮から「プレ陣馬・相模湖音楽祭」と命名した。実行委員会のメンバーは、自然保護グループが中心で、町内在住の各層からなり、自営業、会社員、主婦、役場職員など多彩であり、年齢的には30歳代から40歳後半にかけての中年と呼ばれてもおかしくない人々であった。しかも、そのほとんどが音楽祭を開催することは初めてであり、まったくの素人集団による手づくりの音楽祭となった。資金の調達、出演者との打合わせ、パンフレットの作成や配布、会員券の販売、会場の設営など役割分担を決め、その都度実行委員会の合意により準備が進められた。
 昭和59年7月29日、藤野町名倉の釜付さんの私邸「サ−ラ・ピノキオ」でプレ陣馬・相模湖音楽祭が開催された。
 藤野町の町長をはじめ約100名の親客の前で東京のオペラ団体「東京オペラプロデュース」の講師と研修生による試演会とボーカルコンサートが行われた。
 大自然のなかで初めて聴くオペラ。丹沢の山なみが一望できるホールのなかで、歌声と拍手が幾度も響きわたった。音楽祭のあとのグリーンディスカッションでは、オペラの余韻を残したホールを観客に開放し、野外劇場についての討論を行った。満足感に浸る参加者の顔を見、音楽祭成功を確信した。この日のために、みんなでカを合わせ頑張ってきた充実感に酔った。当日、親客に福引きを行っだが、これも客集めのひとつの手段であり、いかにも素人集団による発想であったが、意外にも町外からこられた方が38名もいた。

“まちづくり”運動としてのイベント
 第2回音楽祭は、昭和60年9月16日に前年同様、ス−ラ・ピノキオで行った。ジャズアレンジャーの稲森康利トリオど作曲家で鍵盤奏者の青島広志氏を迎え、釜付さんの歌を織りまぜた「名曲のアルバムコンサート」と題して開催した。
 実行委員会のメンバーも増え、今回は会場の裏山を借りて物産店やティールームも出店した。そして音楽祭の主旨を「住民各層が参加する手づくりの音楽祭としての文化活動の場として、地域の素材を生かした手芸、工芸品、特産物の展示、即売を通して地域産業振異の方向を探る場として、町民相互の交流と触れ合いの場として位置づけ、これらの総合的な推遣を図りながら、『ふるさとづくり』『まちづくり』運動のイベントのひとつとして開催する」とした。藤野町の自然のすばらしさをより多くの人に知ってもらうという昨年の目的から、文化活動の場、地域産業振興の場、そして人々のふれあいの場として広げていった。産野の秋のなかで、名曲と出会い、物とふれあい、人と語り合う。これらを連動させたまちづくりを図っていこうというものである。
 当日はあいにくの天候であったが、町内から59名、町外から54名の参加者があり、遠くは姫路市から来ていただいた方もおり盛況であった。
 また、今回の特色として試みた物産展は、地域でとれた新鮮な野菜や地域の素材を使った草木染めの手編みセータ言や竹網工、野草の展示、即売を行い、町の物産物を参加者にPRすることができた。
 自己満足であるかもしれないが、第2回音楽祭もその主旨を十分に満たしてくれた。それは参加者から音楽祭の感想を得たからである。咋年の反省から今回は参加者にアンケートを書いてもらった。「今日の催しはどうお感じになりましたか」という設問に、多くの人から「すばらしい音楽会だった」「ありがとうございましだ」と書いていただいた。素人集団の手づくり音楽祭がこれほど多くの方々に喜んでもらったことに感激した。そして、「今後のご希望がありましたらお書き下さい」の相には「来年も楽しみにしています」「長く統けて欲しい」という意見が多く、実行委員を喜ばせてくれた。まだ、物産展に関する感想もあり好評であった。
 コンサートの終了後、ざわめく観客席に向かって音楽祭実行委員会への参加を呼びかけた。「来年も開催します」という予告でもあった。会費による運営では資金面に限界がある。何よりの資金はボランティアによる労力であったからだ。手づくりの音楽祭にひとりでも多くの人が参加し、自分たちで企画し、開催したという自信がまちづくりへとつながっていく。まちづくりは人づくりといわれるが、音楽祭を通じてより多くの人々がまちづくうに参加しているという自覚をもってくれればと思っている。「自然を生かした人間性豊かなまちづくり」をめざすには、自分の住んでいる地域は自分たちでよくしていくことが大事であり、音楽祭はそのひとつの手段であった。
 第2回音楽祭の主旨に「まちづくり」と明記しだが、原点は自然保護グループの「藤野町のすばらしさを多くの人に知ってもらう」ことにあり、音楽を通じて町内に住む人々にも、町のすばらしさを知ってもらう。地域を見つめ直してもらう。郷土愛をもってもらうことがまちづくりの基本的姿勢であると思う。

安い会費で生の音楽を
 昭和61年5月30日、第3回音楽祭の初めての打合わせを行った。前年の反省と今年の事業計画の検討が主であった。今年の出演者を誰にするか、資金をどうするかがもっとも重要な課題となる。予算がいくらあるがで出演者が決まってしまう。スポンサーもなく、会費だけの運営には限度があった。会場への入場者数に限りがあるからである。会場へはいっぱいに詰めて170名前後、咋年と同じ2000円の会費で34万円である。これで誰にお願いできるかであった。
 さまざまな意見が出された。「格調高い音楽を」「誰でも知っている歌を」とか「有名な演奏を」というのが共通した意見であった。しかし、30万円前後でこれを満たすことは困難に近い。「会費を値上げしたらどうか」という意見もあったが、それには反対の声が強かった。運営は苦しくとも安い会費で生の昔楽をより多くの人に聞いてもらいたいという委員会の気運があった。
 ある委員から童謡という話が出た。私たちが幼い頃歌った「ふるさと」や「われは海の子」や「村のかじや」などが次々と小学校の教科書から姿を消していく。童謡のすばらしさを再認識しようではないかということであった。そんななかで「それなら中田さんはどうだろう。中田さんならお願いできるんじやないか」という声が上がった。中田さんとは「夏の思い出」「雪の降る町を」「小さい秋みつけた」など数々の名曲の作曲者で、日本童謡協会会長の中田喜直先生である。
 しかし問題は出演科であった。
 そんなとき、神奈川県で文化による地域づくり活動に賛助金を交付するという話があった。今年から行うというものであり、町役場職員の委員から聞いた。ワラをもつかむ気持ちでさっそく町から推せんをお願いした。「いくらでもいい」それによって少しでも充実した音楽祭ができればという願いがあった。そして県の絶大なるご理解により、15万円いただけることを知ったときの喜びは格別のものがあった。
 同時に中田先生とオペラ歌手の佐藤光政氏に出演をお願いし、快諾をいただいた。出演科も格安でお願いすることができた。

「小さなまちづくりをみつけた」
 昭和61年9月21日、日曜日、サーラ・ピノキオにおいて「小さい秋みつけた」の曲で86’陣馬・相模湖音楽祭「ふじのの秋のコンサート」がはじまった。170余名の観客がそれぞれ曲に酔い、歌に酔い、演奏に酔った。童謡のなつかしさ、すばらしさに心打たれた方が多かった。
 「心が落ちついた」「心豊かな一時をいただいた」「豊かな気持ちになった」「心があらわれる思いだった」「心がなごむ」などアンケートに感動的な言葉が残されていた。
 最後に、中田先生のピアノ演奏で、佐藤光政氏と釜付さんと会場をうめた観客全員が、もう一度「小さい秋みつけた」を合唱した。森と湖に囲まれた小さな町で、そしてこれから秋を迎える藤野の地で、中田先生のピアノ演奏によって「小さい秋みつけた」を歌えることに幸せを感じた。
 全員が声をあわせて歌う姿に「これが小さなまちづくりだ」「小さなまちづくりを今みつけた」と感じるものがあった。
 来年もまた、資金確保と出演者で苦労するだろう。しかし、今年の成功がまたメンバーひとりひとりに大きな自信を与えてくれた。みんなそれぞれの夢がある。いつか湖上で音楽祭を開催したいという委員もいる。しかし少しでもこの町をよくしていこうというのがみんなの共通した夢である。だから苦労承知で音楽祭を開催している。このすばらしい藤野町で。 人口1万人余り。森と湖に囲まれた小さな町。自然豊かでやすらぎのある町。そしてちょっと田舎っぽい町。昨年から音楽祭のパンフレットには、町のすばらしい風景をカラー写真で紹介しているが、今年はその写真の左に詩を入れた。

父さん生きてるこの町は
山と川と谷の町
おまえの大きな明日にすれば
小さすぎるか淋しすぎるか
だけどだけどだけど
きこえてくるか山のうた
きこえてくるか川のうた
(鳥取県 和田芳治作)