「ふるさとづくり'87」掲載

夢とロマンを求めて
愛媛県 21世紀えひめニューフロンティアグループ
 太陽がまぶしい青い国「四国」の西方、愛媛県松山のすぐ近くに、人口7000足らずの双海町という西瀬戸に面した農山漁村の小さな町がある。そしてその町の中ほどに村おこしのさわやかな風をいまも地域に送り続けている入母屋茶室風の小さな館が建っている。
 おおよそ集会施設のたぐいのほとんどは民的性格を持っていても、ミニ公的施設に変わりはないが、この施設は明らかに私設であり、そのことに大きな意味がある。「煙会所」というその名が示すように、わずか4帖半と2帖の質素な部屋の真ん中には、畳半帖のいろりが切ってあり、30人もの食がまかなえるであろう大きな南部鉄の鍋を自在鉤につるして赤々と燃えながら“来る人こばまず”の草の根自治の理念を誇示している。


煙会所のおこり

 小さなどこにでもありふれた町、されどこの町に生まれたことに誇りを持ちながら、自然を友として育った私たちにとって、人が減り(過疎)生きるための証とも信じていた農業や漁業(産業不振)で飯が食えなくなるということは、とてもつらいことであった。加えて50数年の長きに渡って、住民の手とも足ともなって地域とともに生き続けてきた国鉄予讃線海岸回りが、赤字ローカル線として存亡の危機にさらされている現実があった。
 誰もが目を覆い、逃げ出したい気持ちであった。このままだといまに、町は足腰が立たなくなって滅びてしまう。「誰がこの町をよくするのか!!」そんな町を思う熱い想いが青年たちの心を動かし、村おこしの拠点づくりへと発展していった。
 だが、いざ建築となると金もなく物もない、まるでないないずくしのなかで、「たまり場」の建築は容易なことではなかった。1円でも安くするために、新築のための家壊しがあろうものなら進んで出向き、柱、梁から障子、座板に至るまでそのほとんどを廃材で調達した。
 企画から1年半、ときには裸電球を頼りに、ときにはかじかんだ手をたき火で暖めながらのほとんどが夜間工事であった。村の茶の間ともいえる私設ミニ公民館ができあがったのは、北風吹く昭和51年の2月頃であった。
 以来、火をたいて煙を起こすことから、いつしか「煙会所」と呼ばれるようになったこの施設は、青年はもとより地域住民や町外の人にも広く門戸を開放し、自治の原点ともいえるいろりを囲んだ車座の話し合いや実践が雑草のごとく生きづいている。


21世紀えひめニューフロンティアグループの誕生

 自治の原点は、地域社会やそこに生きる人たちの自立を目指すことである。当然その地域の人々のいのちと暮らしに結びつき、生活を高めていかねば意味がない。その意味での(1)集まり(2)学び(3)つないでいく機能が重要となってくる。私たちは集まり、何のために学ぶのかを真剣に考えた。避けて通れない過疎と産業不振、加えて国鉄予讃線海岸回り存続を学びの本流としながら、21世紀を託す青少年の育成をももくろみ、新しい「村おこし」運動の種となりたいと思った。
 青年中心の「夕食から朝食までの集い」、子どもたちを対象とした「ドラム缶の風呂に入って星空をながめる集い」「野草雑炊を食う会」、青年、中年と高齢者を組み合わせた「夜なべ談義」「めったに開けない人の話を聞く会」「おらが町の名人たち」「外人さんこんにちは」など、地域の子ども、青年、成人、老人を集めた学習会で、地域の問題点をあらゆる角度から本音を出し合って語り合い、学び合った。そのことが「21世紀えひめニューフロンティアグループ」の誕生となったのである。
 村おこしは1人ではできない。でも1人が始めなければまた何もできない。青年が中心のグループである私たちは学びながら生まれたさまざまな問題を煙会所のなかだけにとどめず、ときとして青年団と結び、またあるときは組合や婦人会、老人クラブ、PTAなどとつなぎ合って、問題解決のための運動や実践を試みた。町を美しくするためにつつじや桜を植えたときのように干害で全部枯れたり、土木事務所にこっぴどくしかられたり、ときとして失敗も多かったが、そのことが地域見直しの芽となって次第に自己変革し、村おこしへと広がっていった。
 この頃から、青年活動を終えた若者たちが県下各地から「煙会所」へ集まるようになり、活動の形態も双海というミクロから県規模のマクロへと移行し始めた。もちろん、ミクロ集団もマクロ集団の感化を受けながら現在もなお活動中であるが、青年活動で学び得た(1)自己主張ができだしたこと(2)人生の生活設計ができだしたこと(3)地域・職場のリーダーとなり得たことなどを、ただ漠然と過ぎ去る人生の1コマに終わらせることなく、もう1度地域社会に還元しようとの願いのもとに、いまから5年前に誕生したマクロ集団「21世紀えひめニューフロンティアグループ」について述べてみた。
 このグループは農業あり、大工さんあり、公務員あり、造園業ありの15名。過去の成功や失敗を熱っぽく語るなかで、心身ともに若くありたいと希い、「今やれる青春」をテーマとして集い、21世紀に向けて力と技を蓄電しながら愛媛へ「ゆさぶり」をかけた。


ふるさとを空から見る運動

 発想の転換を求めたこの運動は、当初地域の人たちや他の青年にも呼びかけ、約30名で実施する計画であったが、セスナ機のチャーター代が意外と高くついたことから結局12名の参加となった。
 情報社会といわれて久しいが、海の向こうの情報は日々刻々伝わっても、向こう三軒両隣の話題は伝わりにくい。いわば遠くが近くに、近くが遠くにの時代でもある。また人間のものの見方はおおよそ水平で垂直でもない。そこで、参加する各々がいろいろなテーマをもってセスナ機4機をチャーターし、ふるさとの空にチャレンジした。
 小さな飛行機で低く飛ぶふるさとの空はたとえようのないほど素晴らしかった。四国は島である。島であるがゆえの後進性も否めないのは事実だが、瀬戸内海大橋によって四国への期待は次第に高まろうとしている。しかしいくら橋がかかってもそこに生きる人たちがふるさとに責任と誇りをもち、自主性を持たない限り、四国は本州の惑星でしかない。
 煙会所におけるビデオを使っての感想は、「本州が島である」であったし、「四国に生きることの誇り」再発見でもあった。ある者は「肱川の源流を探る」をテーマとし、ある者は「離島開発の希望を求めて」をテーマにそれぞれ搭乗したが、自分の家や町の姿をカメラやVTRに収め、それらの写真や映像が、町の文化祭、学習の教材として使われ、村おこしの一助となったことも大きな収穫であった。


子どもたちに夢と感動を与えた無人島生活

 数年前、煙会所の主催事業で子どもたちといろりを囲んで「ふるさとの民話を聞く会」を行った。冬のことでもあり、いろりに赤々と火を焚きながらの古老の話は、子どもたちの影が障子にシルエットとなってとても効果があった。
 そのときある子どもが「おいちゃん、煙って煙いね。煙って目にしみると涙が出るね!」と語りかけてきた。私たちは煙は煙いもの、煙が目にしみると涙が出るものと幼い頃からの体験を通して分かっていても、そのことすら知らないままいまの子どもたちの置かれている立場や環境をこの言葉から学んだような気がした。そしてこの子どもたちに新しい未知との出会いを作ってやりたいと「無人島にいどむ少年のつどい」を計画した。
 私たちがこの計画を考え実行した理由は大きく分けて2つある。1つは、かつて私たちが大自然を友として育ったあの鮮烈な子ども時代の印象深い思い出を、もっとも感受性の強い小学4年生から中学1年生までの子どもたちにタテ・ヨコから味あわせて将来の足がかりをつくろうと思ったこと。そしてもう1つは、物の豊かさにどっぷりつかり、物や平和の尊さを知らず知らせぬ親や現代社会へ警鐘を鳴らそうとしたためであった。
 できるだけ非日常的な、しかも安全な冒険をさせることを第1として、計画や準備には約半年もの長い時間をかけ、無人島の下見やスケジュールの打ち合わせ、必要道具の調達、リーダーや講師の依頼など、休日や余暇をほとんど費やしての毎日だった。初めてのことなので募集しても果たして希望がいるかどうか心配であったが、この計画がテレビや新聞で取り上げられるや、30人の定員に10倍を超す約350人が県内外から応募、改めて責任の重大さを痛感した。
 何をしたいか、何をさせたいか、親子の意志を第1条件として、おおよそこれらの活動に縁遠い無経験な43名を選び、異年齢グループを8班つくり、看護婦さんを含めた22名のリーダーを配置した。かくして、できるだけ非日常的な、しかも安全なる冒険をテーマとした2泊3日の無人島生活はスタートした。
 私たちが「ひょうたん型由利島共和国」と名付け、パスポートを作って入国しようとした「由利島」は、松山から約17キロ離れた周囲7キロの小さな島だが、瀬戸内海航路の要所釣島水道の真ん中にあり、かつては人が住み、海岸からは古代の土器も出土する歴史の島である。
 無人島に出発する日は、日本に接近する台風の影響であいにくの雨だった。特船2隻に分乗して無人島に渡ったが、テントはいらぬ、流木や草を利用して家を建てればいい。火は工夫すれば起こせる。そんな無人島生活ならではの抱いた夢や空想に対し、子どもたちは必至に耐えてチャレンジ、降りしきる雨のなかでカッパを着、家づくり、井戸水くみ、雨もりのする手製の家で石ベッドでの睡眠と、忙しくも助け合いながら、自活の知恵を自らの行動のなかに学んだ。
 大雨・風雨、波浪警報から引き返す勇気をも学んだ2泊3日の思い出を心のリュックいっぱいに詰め込んだこのつどいは、子どもたちの流した感動の涙に集約され、私たちの当初目指した共感、共有、共鳴の世界をつくった。


古代の丸木船瀬戸内海を渡る

 子どもたちと一緒に丸木船に乗って瀬戸内海を渡りたい。そんな発想が太平洋の彼方アラスカから切り出し運ばれた長さ8.2メートル、直径1.2メートルのモミの木との出会いであった。以来4か月、千葉県から出土した畑町3号の設計図をもとに、地域の人々とともに丸木船の製作に励んだ。
 見事に進水した「21世紀えひめ号」は、バドル8丁の力漕によって1泊2日の航海で瀬戸内海の難所「釣島水道」を見事漕ぎきり60キロの航跡を残して目的地由利島へ到着した。そしてその夏子どもたちと楽しくも苦しい瀬戸内海の探検を楽しんだ。


古代の青年宿から21世紀へ

 煙会所活動10年、フロンティアグループが煙会所を拠点に活動を始めて5年、そして私たちの目指す21世紀まであと15年という昨年、私たちは発足の原点に帰って自らの足元をみつめ、見直しのなかにその発想を求め、この5年、10年、そして21世紀まで拠点となるであろう煙会所と、私たちの心を育んできた無人島を結びつけ、未文明の島に原始の家屋、竪穴式住居(青年宿)を再現し、21世紀のふるさとづくりを夜を徹して語り合おうということになった。
 (1)事前活動=原始の宿建設(2)現地活動=語りべのつどい(3)事後活動=報告書出版とふるさとづくり運動の推進の3つが活動の柱として決められ、松山市束本遺跡の1号竪穴式住居平面図を参考にミニチュア模型(45センチ×45センチ)を作り、事前活動に備えた。
 なにしろ実際に作る住居は縦横の長さ10メートル床面積が78平方メートルという、日本でも復元したことのないジャンボ型で、30人が共同生活できるほどのものである。1500束にものぼるカヤの調達は、4月から6月の雨期でもあり、カヤ場の確保、カヤ刈り作業、カヤ干し、カヤ保存は勿論のこと、何100本もの支柱材や竹、カズラ、縄などを含めて、無人島への輸送は壮絶を絶する厳しい作業であったが、1泊2日の無人島野宿作業を4回行うことによって、予想以上の住居ができあがった。語りべのつどいは、建国式でスタート、遠くアフリカを思うをテーマに24時間何も食べなかった飢餓体験や、アワ、ヒエなど古代食への挑戦、土器の野焼き、語りべシンポなど、まさにロマンの3日間であった。


国鉄予讃線海岸回りの存続を願って

 町を憂うたった1つの心が煙会所をつくり、煙会所にともった灯火がミクロの活動を作りあげた。そしてその灯火は炎の如くマクロへと発展していった。
 今年、これらの活動に目覚めた地域の人たちは、地域発展の本流に帰るべく、国鉄予讃線存続のため、大きな2つのイベントを企画し実行した。
 1つは無人駅プラットフォームコンサート(日フィルのトロンボーン奏者喜多原氏を招き、列車走るプラットフォームでコンサートを開いた。西瀬戸に沈む夕日をバックにしたコンサートはNHKのブラウン管を通して全国各地にさわやかな印象を与えた)であり、もう1つはふたみにきてみなはいやクーポン券の発行(1000円でクーポン券を申し込めば、上灘駅発行の乗車券と特産品土産、魚のつかみどり券、地引網券、野外パーティ券、巾着網体験航海券がもらえ、夏の1日、双海の海がまるごと味わえるユニークなイベント)であった。
 コンサートは800人、クーポン券は3000人と、大成功を収めたこの裏に、したたかな町を思う心を見る思いであった。
 いままで述べてきたように、いま地域は中央依存や他力本願的な甘えの体質から完全に脱皮し、地方の時代を確立すべく、確かな1歩を踏み出している。これこそ本当の自治の姿なのかも知れない。どこにもない、自分たちの町にだけしかないまちづくりを、煙会所や21世紀えひめニューフロンティアグループは地域とともに今日も明日も続けるであろう。