「ふるさとづくり'88」掲載 |
入賞 |
ふるさとづくりは語り合いの中から |
群馬県万場町 万場町三区「かたる会」 |
語り合うなかから生まれたもの 私たち万場町三区「かたる会」は、昭和46年4月15日会員35名で発足しました。三区「かたる会」とは、万場町第三区に住居する学業を終えた、男女を問わず、年齢は30歳代くらいまでの者の集団です。何人たりとも入会を拒むことなく、何事にも積極的に語り合い、会員相互の埋もれた才能を引き出し、これを錬磨し、過疎化する三区および万場町の美化と発展を目的としています。組織は会長1人、副会長1人(書記兼務)、会計1人といういたって単純なもので、この組織は現在も続けています。 会の毎月1回(10日)の定例会の話し合いでは、先輩後輩を問わず、まさにカンカンガクガク止まることの知らない論議(くだらないうわさ話もたくさん出ます)で、これが「かたる会」の名称の根拠かも知れません。 しかも、このこと「語る」が会のもっとも主要な事業であります。会員の面、が語ったそのなかから、何かひとつ光るものがあれば、それを拾いあげ、いかにしたならば「ベター」であるか検討し合います。 その光るもののなかから最初に生まれ、この事業が大きく広がって町当局に取りあげられるまで発展したものとして危険物廃品回収があります。ドラム缶を区内の要所要所に配置し、廃品の回収とその処理を会員が始めたのが昭和46年五月からでした。この事業は各地区の若者にも広がり、ドラム缶が各地区に並びました。その後、家庭から廃棄されるゴミの処理事業は、6年後の昭和52年、町営ゴミ処理施設の建設となり、その2年後には廃品回収車の定時出動の実現となり、「かたる会」の役目は終わり、事業は町当局へ移行し、現在に至っております。 七夕納涼大会バザー また、会の発足の年の8月より「七夕様」(月遅れです)を飾り、「七夕納涼大会」と銘うって会員宅の庭でバザーを開催、全員手分けで各出店を受け待ち、楽しい「七夕」の一夜を区民とともに過ごしました。翌年からは、町長さんのご厚意により役場庁舎の前庭での開催ができまして、一層のにぎやかさが増し、全町民が参加する行事にまで広がり、町の但例行事となっております。 この七夕納涼大会の催し物もいろいろとありますが、本年は、会員有志が町に在住する踊りのお師匠さんにお願いにあがり、快くご指導をいただきけい古に励んだ“舞踊のまねごと”も加わり、夏休みの帰省客や子供、お年寄りからやんやのかっさいを浴び、夏の一夜の想い出に1ページを残しました。 この行事も、会員が朝から総出で会場の準備やバザーの用意をします。翌朝役場に迷惑のかからぬように、終了後の後片付けは深夜にまでおよびますが、会員は「後始末の良さ」をモットーにしておりますから、だれもぐちることはありません。後に続く子供たちにお手本となるような心がけでもあります。この「後始末の良さ」があればこそ、町当局も快く貸してくれるのだと思っています。七夕納涼大会におけるバザーの売上げの一部は、少額ではありますが、毎年寄付をしています。 スケート場の造成と「つつじ山」 昭和47年12月より万場町を西から東へ流れている神流川に、万場の子供は冬の楽しみが少ないからと、スケート場の造成に着手しました。町長さんや土木事務所長さんの絶大なるご協力により、町の有志の方、から大型ブルドーザーやパワーシャベル、大型トラック等をお借りし、会員のなかでそれぞれの分野のエキスパートが受けもち、早朝より会員総出でとりかかります。寒風つくなかでブルドーザーを動かし、大型トラックで砂利を運び、夕暮れまでには川原に大きなスケート場ができあがります。 このスケート場は無料で開放しており、桂村からも滑りに来ています。学校では体育の授業に取り入れています。スケート場の造成も、「かたる会」がやらねばだれがやる、という気がまえで現在まで継続して行っています。これも、町長さんはじめ町の有志の方、から心強いバックアップがあればこそ、と全員一同は心にきざんでおります。 このスケート場の北西に雑木林の山があります。この山があるので冬は日影になり、スケート場ができるのです。この山を見ていながら(他人の所有物であるにもかかわらず)、会員からひとこと出たのです。「この山をなんとか物にしようよ」と。昭和54年の春先のことでした。山に花木を植えて町民の目を、万場町を訪れた人、に楽しんでもらおう、という案でありました。 それではと「ヨイショ」の気持ちを早速行動に移し、役員が山の所有者宅に「花木を植えたい」と趣旨を伝えにお願いにあがりました。会員のとっぴなお願いにもかかわらず、地主さんは、日頃の全員の言動と活動に絶大なるご好意をお待ちくださいましたので、快く賛同していただき、全面的に自由な使用許可までも委任していただきました。 これには全員一同感激し、 これから取り組む事業に一層の情熱がわき、会員はそれぞれの休日の楽しみを返上し合って、雑木の下刈り作業に精を出し、「つつじ山」という事業が発足しました。同年6月に、つつじの苗木で植林の一歩が始まりました。 つつじは、徐、に町民に親しまれ、町や緑の団体からも援助の手がさしのべられ、現在その成果は、季節がくるたびに賞賛されるまでに成長しました。山の手入れも、下刈りや増植などで一層の充実をはかっています。 万場町名物「鯉のぼり祭り」 昭和56年1月、かたる会は5部事業会制度を導入しました。「総務部」「七夕企画部」「スケート部」「つつじ山企画部」「体育レク企画部」という組織であり、今後一層の発展を期待しての部会制であります。 ある日のつつじ山の手入れで山頂での作業休憩中のこと、眼下に流れる神流川と自分たちの町並みを見おろしながら、だれいうことなく「家に眠っている鯉のぼりをつるしたならば、ゆかいだなあ」と言葉が出ました。これを「ヨイショ」の気持でかつぎ出しだのが、「鯉のぼり祭り」のもとであります。 まずは会員たちが町内各戸を廻り、眠っている鯉のぼりの寄付募集に歩きました。また、鯉のぼりをさげる設備の準備にも語り合いの精神を発揮し、一歩を踏み出したのでした。つつじ山山頂より対岸へ200メートルのワイヤーロープを2本敷設しまして、そのラインに快く提出してくれた想い出の多い鯉のぼりを100匹ずつ神流川の川面上に泳がせたのです。 五月晴れの澄んだ大空に緋鯉や真鯉がゆうゆうと泳ぐさまは、いっぺんに万場町の名物となりました。 翌年にはもう1本増設し、一部のテレビ、地方新聞にも取り上げられ、見学者もだいぶ増えたので、「体育レク企画部」を「鯉のぼり企画部」と名称を変え、鯉のぼり祭りの定着、発展をはかりました。会員総出で毎晩、鯉のぼりがワイヤーに絡まないよう、取り付け金具の加工工作等の作業に精を出し合いました。 大空に泳ぐ500匹の鯉のぼり その鯉のぼりが全国的に有名になったのも昭和59年のことでした。会員のひとりが東京のあるイベント企画会社の「初夢買います」という企画を新聞で見つけたのがきっかけでした。この企画に「500匹の鯉のぼりを大空に泳がせギネスブックに登録したい」という「かたる会」のアイデアが採用され、その会社を通して全国の新聞に、この計画と鯉のぼり寄贈の依頼が掲載されました。 この時からイベントの当日まで、これまでにない重圧が全会員にのしかかりましたが、どの会員も自分の仕事、家業を多分に犠牲にし、全国より送られてきた鯉のぼりをいかによく泳ぐようにするか、止め金や諸、の作業に連夜の試行錯誤をくり返しました。 いよいよ昭和59年4月15日、前日よりイベント企画会社の案内で宿泊している全国紙、週刊誌等の記者、テレビ会社関係者等50名に加え、当日駆けつけてきた報道関係者、アマチュアカメラマン、そのほか多勢の行楽客のなかで、7本のワイヤーロープの鯉のぼりが次、と大空に舞い上がっていく様子は、山間の狭い空をとび回る4機の取材ヘリコプターと併せて、万場っ子の目を輝かせました。 大空に泳ぎ出した鯉のぼりは、ゆうゆうと500数匹にのぼり、五月晴れの下、神流川川面に色とりどりの勇姿が全国に紹介されたとき、会員一同いままでの苦しさや疲れがいっぺんに大空に泳ぐ鯉のぼりのようなさわやかさに変わりました。この年より、万場町の鯉のぼり祭りは一躍有名になり、現在でも全国各地より鯉のぼりが送られて来ております。 鯉神社の建立 また、せっかく全国の方、からいただいた鯉のぼりに、「寄進者の皆様方に奉納証を差し上げよう」「奉納証の発行ならば、社をつくろうではないか」と次、と夢が芽生え、これも会員の手づくりで社を建立し、万場8幡宮司より「鯉神社」と命名され、奉納証が送られて寄進者より喜ばれております。 鯉のぼり祭りを、いかに町の方、に収益の方向で参加してもらおうかと考え、町内の方、の出店を依頼したり、商工会のバックアップでバザー店も年、増加しております。うるおい(収益)あればと、会員の利益をさしおいてのイベントですが、踊り子と木戸番との利益を一致させる方法がなくても、会員たちの心意気とアイデアで鯉イカダを流し、神社があれば神輿がつきものと「鯉神輿」をかつぎ出しております。この神輿もすべて会員の手づくりであり、ユニークなものであります。 昭和61年にはワイヤーロープを8本に増設し、会員が白地のミニ鯉のぼりを縫製して子供たちに思い思いの鯉を描かせて、手づくりのミニ鯉を泳がせました。この企画も大いに受けて各地の保育園や幼稚園からの注文がきました。 これらの活動が町当局を動かし、県に働きかけ、ワイヤーロープの止めてある山頂の木の根もとや対岸の止め具を立派なコンクリート造りにしていただき、安全性を確保できたことは、鯉のぼり祭りが定着したものと喜んでいます。 一人ひとりが主役 かたる会の目的に対して共通の認識をもつようにするため、徹底的に語り、脱線も収拾がつかないこともありますが、話し合うことで共通認識を高め、自分の役割を自覚し、個人個人が自分のドラマを演じていき、それがかたる会の団体行動となっていきます。かたる会では、一人ひとりが主役であり、また“あんたが主役”という謙譲の精神をそれぞれ持っており、これが常に語るという基本から出発しています。過疎化の波は、止まることの知らない水の流れのように、哀しいかな万場町を流れていきます。 会の設立時に記した30歳代くらいという面、はすでに50歳を越え、年少会員との年齢差は30余りになっています。職業の違い、ニーズや余暇の過ごし方の多様化、個性化のなかで、共通認識がつくりにくくなっている壁を「かたる」という基本の方法で乗りこえ、より高圧のエネルギーに創り出し、行動に結びつけています。 これも、根本に自分たちを育ててくれた両親や先祖からの「わがふるさと」を次代へ継続し、住みよい町に、という気がまえが土台となっているからだと確信しています。「わがふるさとは……」と大きな声で訪れる万場へと、われらかたる会の面、は胸の内に熱い情熱を活動にそそいでいます。 |