「ふるさとづくり'88」掲載
奨励賞

自立性の高い地域社会をめざして
新潟県大和町 薮神地区を考える会
 これは、高度経済成長期から上越新幹線の開通に至るまでの約25年間、全盛をきわめた土本事業に、住民のほとんどが地域づくりをおろそかにしてしまい、土方稼業の現金収入に傾倒した結果、住民の自治意識や連帯の意欲の薄れはいうまでもなく、もっとも大切な生産活動や地域の教育的機能も崩壊させてしまった一農村を、意欲ある人たちが結集して生活会議の手法を取り入れて地域を活性化し、住民の自治意識を甦らせた新潟県大和町の「藪神地区を考える合」のリポートである。


藪神地区の概況

 大和町藪神地区は、東京・上野から上越新幹線で1時間30分の浦佐駅の南東部に位置する水田単作地帯の農村地区で、集落数11、戸数約800戸、人口約3,700人。ほとんどが兼業農家である。冬期には積雪が3メートルに達する豪雪地帯でもある。稲作1本では生計をたてられず、農家の主人たちは手っ取りばやい土方稼業の現金収入で家計を補ってきたが、公共土本事業の激減、相次ぐ減反対策、加えて近年の円高不況などで経済的にも大きな問題を抱えている。


生活会議と「藪神地区を考える会」の誕生

「藪神地区を考える会」が生まれたのは昭和59年である。当時すでに上越新幹線は完工、開通しており、土方稼ぎの場を失った人たちも多く、地域では物資・金銭優先の風潮のなかで、家族問題のトラブルや青少年の非行問題、近隣縁者の争議などの発生は、近郷の話題にものぼるような状況であり、どうしても目先の暮らし向きにばかり目が向きがちで、地域の連帯感や問題意識への関心は薄れていた。
 こうした状況のなかに立ち上がったのが井上重一であった。かつてPTA会長や町会議員を務めていた井上は、前年議員を辞めてから公民給地区分館長に就いており、社会教育を通して荒廃した地域をじっくりと考えてみたかったのである。
 いろいろと考えた末井上は、地区の青年有志、小学校PTA役員、婦人会の役員たちと相談して、あしたの新潟県を創る運動協会と提携し、生活会議活動を取り入れた新しいふるさとづくりの活動をはじめたのである。
 最初に取り組んだのは、地域の人が一番利用する国道のバス停の清掃であった。それは目新しい活動ではなかった。しかし、このことを誰のためでもなく、自分たちのこととして続けていけば、少しずつ何かが変わっていくだろう、と考えたのである。
 こうして毎月第2日曜日の朝6時、有志によるバス停の掃除がはじまったのであった。
藪神地区には国道沿いにバス停が8ケ所ほどある。婦人たちは窓を磨き、花を生けた。PTA役員は学校に画用紙を持参して子供たちから絵を描いてもらいバス停に掲げた。それを毎月繰り返した。青年たちはバス停のまわりの草を取り、ゴミを拾い、待ち合いの人のために椅子を丸太で作った。
 こうして2年目には、孫の絵を見におじいちゃんやおばあちゃんがバス停に来るようになった。また、近くの人が自発的に花壇を作って手入れをしたり、暑い夏の間、水をくれたりするようになった。
 これより少し遡って昭和59年11月、井上は公民館と相談して地域に潜在する問題点を掘り起こすためのアンケートを全地区で行うことにした。『誰もが住んでみたくなるような町づくりをめざして』が、アンケートのテーマであった。
 このアンケートは世帯主への個人宛ではなく、地区民の幅広い意識を知るために家庭用(じいちゃん、ばあちゃん、とうちゃん、かあちゃん、あんさ、あねさ、の3世代からそれぞれ答えてもらう)と、地域に密着した婦人会組織が健全なことから、60歳以下の主婦用の2本立で行うことにした。
 主婦用は対象者795名中回答者512人、回答率は64.4%と反応はよかった。また、世帯用では対象数739世帯(後山、辻又集落を除く)のうち回答は597世帯、回答率80.8%と予想以上に高い結果であった。
 このアンケートによって地域の持つ問題が見えてきた。殼初に取りあげたのは、冠婚葬祭の際の虚礼への疑問だった。
 井上は各集落の区長を訪れ、この問題を考えていくための会を設けようと働きかけたのである。こうして各集落区長・町会議員・老人クラブ代表・婦人会代表・青年有志・PTA代表・その他希望者で構成された「藪神地区を考える会」が発足し、地域の問題を考えていくことになったのである。


センター建設の話

 昭和59年秋の丁度そのころ、旧藪神村役場の建物を改造し使っていた公民館の藪神分館(地区コミュニティセンターが、老巧化したことでもあり上地と一緒に処分をして、敷地も狭いので別の場所に新しいセンターを建てよう、という話が役場と地元議員の間に起きていた。しかも、地元議員によって用地の確保が進められていたのである。この話をきいた地区の青年たちは疑問を持った。
〔確かに藪神には立派なセンターはない。でも、ほかとの地区バランスとか、政治関係だけで、そんな施設を造っていいのだろうか?〕と。客観的にみても、大和町にはすでに箱物としての公共的施設はかなり設置されていたのである。
〔役場庁舎、B&G体育館とプール、公民館本館、さわらび、大崎農業会館、東開発センター、働く婦人の家、それに中学校が1校、小学校が6校、それぞれに体育館がついている。さらに幼稚園が2つ、保育園が7つある。集落の施設にしたって、藪神地区には中心的な一村尾の担い手センターをはじめ全集落に集会所があって、普段の会議はそこで済ませているじゃないか。もちろん設置の目的はそれぞれに違うけれども、いろんな会議なんかには融通しあえれば結構使えるし、第一維持費なんかでもばかにならないぞ。〕
 こんなふうに考えた「考える会」の青年たちは暮れのある晩、町会議員の家に押しかけて、このうえ本当に地区センターが必要なのか、と疑問をぶつけたのである。これが藪神地区に起きた自立への模索の小さな一歩だった。
 これをきっかけにして地区の農業青年、農協職員、役場職員、分館協力員など13名ほどが集まってセンター建設を考える懇談会が2回ほどもたれたのである。
 もちろん青年たちだけで結論の出せることではなかったが、その動きが「藪神地区を考える会」にテーマとして待ち込まれることになった。
 こうしてアンケート結果の検討と一緒に地区センターの建設問題が地区全体の大きな課題へとふくらんでいったのであった。
 ところで、すでにこの時点ではセンターの建設そのものは行政のベースでは動いていたが、「考える会」では場合によっては建設を止めても構わない、との覚悟でさまざまに意見をたたかわせたのである。その結論として、町の全体から見れば確かに施設は充分にある。しかし、藪神の地区民が地域活動をしていく拠点の必要性を考えたならば、地区センターは絶対に必要だろう。という方向でまとまり、「考える会」としても結局建設を前提とした検討を重ねていくことになったのである。


地区の目標ができた

 こうして井上重一を中心にした「藪神地区を考える会」は、会のなかに、“地区センター建設検討委員会”を発足させて、センター建設の問題を具体的に検討していったのである。
 委員の構成は区長代表・町会議員・老人クラブ・農業青年・PTA・婦人会・分館協力員(青年層)・役場職員・その他の25名であった。はじめはこの委員会でも繰り返しのごとく、さまざまな意見がでた。
「町の中心まで車で15分足らずで行ける。小さな会議は部落の施設を、大きな行事は学校とか、『さわらび』などを使えばいい。」
「センターより野球場やグラウンドが欲しい。」
「どうせ遣るのなら、代わり映えのしないものでなく、特色あるものにしたい。」
「お金を払っても使いたくなるものがいい。運営費が浮く。」
「いろいろなグループや会の人たちが活動でき、地区のまとまりを高められる施設が欲しい。」
 委員会では、あるときはこの問題を部落ごとに話し合ってもらった。あるときは資料を全戸に配布もした。
 こうやって会を重ねていく間に、委員会はだんだんと盛り上がりをみせていった。考えてみれば、まったく自分たちの問題を話し合っているわけであるから、熱のこもらないはずがなかった。
 とかく今までは行政とか一部の人たちの手で計画が練られ、手続きとしての承認だけに馴れていた人たちであった。
 それが自分かちのことを自分かちで考えて作り上げていく面白さに気がついたといえよう。ささやかに自立への輪が広がっていった。
 こうして、若い人たちの自由な意見と真剣な婦人たちの発言に、次第に町会議員もお年寄りも引き込まれて理解と共感が生まれていった。
 この年、昭和60年には「薮神地区を考える会」全体会議5回、「地区センター建設検討委員会」を4回、上越市、頸城村への視察を1回重ね、結論として地区の“要望書”というかたちにまとめたセンター建設に関する意見を12月3日、町長宛に提出したのである。町の12月議会定例会の直前であった。


センターがみえた

 要望書の骨子は4項目で、具体的なものであった。
 @敷地の有効利用のため、地区センターに幼児遊園と駐車場(40台収容)と緑地を設けること。
 A建物は鉄骨二階建てとし、述べ面積はおよそ1,000平方メートルほしい。(敬老会、婦人会などのキャパシティを計算した。)雪国であるので、冬場を考えて一部ピロティづくりとすること。外観は地区のシンボルとしての特徴的なデザインとして欲しい。
 B大会議室は敬老会が開催できるスペースを確保して欲しい。高齢者を中心にした生き甲斐、生産行為への参加のため工芸室を設けて欲しい。
 C雪処理を考慮した屋根構造とすること。(耐雪または消雪構造)(この他に地区で考えた建物の設計図が付けられており、基本的にはそれが以後まで生かされた。)
町長は延べ面積を約800平方メートルに落とすよう注文を付けたほかは、要望を汲んだ。もちろん地区議員の後押しもあったが、地区住民の盛り土がりが町長を動かしたのである。役場は早速12月議会で予算補正をし、設計業者のコンペが発注された。部内に関係課でプロジエクト会議をスタートさせ、随時地元と連絡を取りながら仕事を進める体制も作った。
 昭和61年が明けた頃、地元では早期着工を強く要望していた。大和町の冬は長く、建設工事には雪消え直後の4〜5月の好天時期を外せない。秋は冬が早く、12月の声をきくと雪が降るので早期着工、早期竣工でなければだめなのである。
 いろいろの点で役場はよく応えてくれた。コンペの図面が出揃ったとき、地元にも審査をさせたのである。婦人会役員や分館長が設計競争の審査に加わることは今まで考えられないことだった。しかも幸いにして地元で希望した業者の図面が採用されたのである。
 この間にも「考える会」は会合を重ねていた。老人たちの要望で冬場にゲートボールができるよう、大会議室に人工芝を敷くことにした。これにはゲートボールは年寄りをだめにする、という異論もあったが、運動の機会に乏しい冬場だけ、ということで落ち着いた。人工芝を選ぶときは、実際に老人たちがボールを打って決めた。
 工芸家には格別思いを込めた。雰囲気としては地域の昔からの農家の居間というイメージで作った。作業しやすいように板の間とし、片隅に畳を敷いて囲炉裏を切った。藁細工や陶芸のかたわら寛げるようにしたのである。創造の場、ふれあいの場、憩いの場でもあるこの工芸室は出来上がったあと一番人気のある部屋である。
 こうして雪消えを待って4月25日入札。5日後町議会で契約議決。この時点で工期が11月末と決まった。「考える会」でもこれを受けて、地元独白の竣工式“こけらおとし”を11月30日に行うことを決めた。


『まほろば』とは

 地域の人に見守られながら地区センターの工事は進んでいった。そして「考える会」も一挙にメンバーを63名に拡げていった。
 それは工事の過程で起きる新しい問題を考えたり、秋の“こけらおとし”に向けて地区全体の盛り上がりを引き出すためでもあった。新しいメンバーは各集落から30歳ぐらいの若い人を3人ずつ推薦してもらった。
 こうして6月に入り「考える会」はまた3つの小委員会を設けた。それは愛称選定委員会・カリヨン選曲委員会・こけらおとし実行委員会である。そしてそれぞれがどこかの委員会に入ることにした。 こうなると、町会議員も郵便局長も自営業も勤め人もなくなってくる。一住民として参加することが面白くなって真剣になってくるのである。
 まず『愛称選定委員会』18人、委員長小幡哲嗣・建設会社勤務。この会では、地区センターに親しみやすい名前を付けることを検討した。借物の横文字や、役所の付けた名称ではどうもしっくりしない。自分の子供に借物の名前を付ける親はいない、ということで、公募することにした。
7回ほど会を重ね、9月半ばには68点の応募があった。委員会で議論したが、いろんな意見が出てしぼり切れず、最終的に残った5作のなかで投票によって決めた。そのときどうしても、“藪神”の文字をいれて欲しいという希望が強く、最後は合成して『藪神ホールまほろば』となったのであった。
『まほろば』とは、万葉集にもでてくる古語で、美しく優れたよい場所という意味である。藪神の地に相応しい名前だと好評で、今では小さな子供からお年寄りにまで馴染まれている。
 次に『カリヨン選曲委員会』18人、委員長山口松枝・農家の主婦、コーラスのメンバーでもある。この会では、地区のシンボルとして『まほろば』の屋上に作られた塔に取り付けるカリヨンの演奏曲を選定するのが役目であった。音による環境整備を目標に、カリヨンが地域の人たちの心のなかにいつまでも鳴り響いて欲しい、との願いを込めて相談をした。カリヨンの鐘は標準が12個であったが、藪神の集落数11にこだわって、鐘11個の特別注文とした。
 演奏曲はアンケートを行い、“峠の我が家”“ラバーズ・コンチェルト”など、みんなが知っている曲8曲と、戦後藪神で盛んになった青年団の歌声運動のなかから生まれた創作曲“出稼ぎの歌”“青年歌”など4曲、併せて12曲を春夏秋冬、朝昼晩と鳴らすことにしたのである。
 カリヨンは決して安いものではなかった。これを設けることには財政的にもいろいろ批判もあったのだが、地区のシンボルとして絶対に譲れない、ということで頑張って出来上がったものであった。
 そして『こけらおとし実行委員会』30人、委員長行方武司・一尾村集落区長。この会は11月30日のこけらおとしの計画と、当日までのスケジュールを作らなくてはならない。
 この会で決めたことは、こけらおとしの経費は寄付や役場に頼らずに自前の精神でやろう、ということだった。当日の催物も手作りでやることに決めた。竣工式典もアトラクションも作品展示会もすべての運営を自分たちで分担してやることにしたのである。
 経費の方も工夫した。竣工を記念して全戸に染めぬきの手拭を作って配りたい。式典も立派にやりたい。備品も揃えたい。あれやこれやで少なくても40〜50万円の費用がいる。これは物資優完の生活への反省にもなった。それでも当日の競売では、格安にしたので全部売り切れた。バザーも酒・ビール・豚汁・ジュース・お菓子など盛り沢山となった。結果的には予想以上の収益があり、経費を埋めて余ったお金で備品の中古ピアノを買う足しに出来たのである。


昭和61年11月30日・こけらおとし

 11月30日、こけらおとしの当日は前夜ちらついた初雪が嘘のように晴れ上がった。10時からの式典は小春日和に恵まれて地区民総出で祝った。地区の習慣に従ってお祝いの紅白のモチが撤かれた。そのお米は「考える会」のメンバーが5合ずつ持ち寄ったものであった。
 来賓の森巌夫氏は「まほろばは、地域の人が知恵と力と心を出し合って作った日本でも数少ない施設だ。まごころとほこりとろまんを持つ人が使うばしょが『まほろば』だ」と祝辞を述べた。
 アトラクションは、藪神の全集落からの出し物と、歌声運動当時の人たちによるカリヨンの元歌披露、保育所園児と小学生の発表、ピアノ開きをかねてのコーラスグループの発表、浪曲、寸劇、飛び入りなど5時間に及ぶ盛大なものとなった。しかし、子供からお年寄りまでギッシリ詰めかけた地区民はフィナーレの盆踊りまで、熱心に舞台へ拍手を送ってくれたのである。
 こうして一年近く経た今でも話題にのぼるほど、こけらおとしは大成功に終わった。


地域の自立とは

『まほろば』建設への取り組みの過程で心をあわせて課題に立ち向かうことの喜びが地域に甦ったかに見える。確かに藪神にはあちこちの集落で活気が見られるようになってきた。しかしこれで終わりということでは決してない。地域の営みとは本来終わりのないものである。
 さまざまな人々が生活していて、その人々が愛し住みつづけたいと思うよい地区とはどのようなところか。「藪神地区を考える会」にとってもそれは最終的なテーマでもあるが、それはそこに住む人々が他に依存していては実現しないだろう。
 地域に住む人それぞれが社会的な使命や役割を分担しつつ、個人の自由や尊厳を認め合う自立性の高い地域社会でなければ、よい地域とはいえないだろう。そして、地域社会が自立性を高めるということは必然的になるわけでは決してない。
 それは地域に住む個人個人が自立への努力をしなくては実現しないことである。行政や政治家に依存することに馴れてしまってはいけない。自分たちで築いて行くしか方法はないのである。