「ふるさとづくり'88」掲載 |
奨励賞 |
人と人の交流によるむらおこし |
鹿児島県鶴田町 グループ2000 |
わが町鶴田町は、県都鹿児島市から北へ56キロメートル、東、北、西の三方を紫尾の連山に囲まれた一山村である。一方の南は、川内川に面し、その流域は小平野を形成し、本町の主産物である米の供給地になっている。「ダムと温泉」をキャッチフレーズに観光の町をめざすわが町は、西日本一の重力式コンクリートダムの鶴田ダムが、雄大な威容を誇り、温泉がさつま温泉郷として清閑さ泉質のよさで観光に光をそえている。 国の経済の高度成長は、地方から都市への人口集中に拍車をかけ、都市に過密、地方に過疎の弊害をもたらした。その過疎の波は、わが町にも例外なくおし寄せ、昭和40年代には9,000人を越えていた町の人口も、50年代になると、5,000人台に減っていった。さらに近年50歳以上が町民の約半数を占め、若者の流出が進むなか、高齢化社会への道を着実に歩んでいることも否めない事実である。ややもすると、若さと活力を失いがちである鶴田町を、活力ある息づく町にできないものかということは、町民共通の願いであった。 このような山村の過疎の町に清涼剤のごとくさわやかに新しいふるさとづくりに取り組んでいるグループがある。そのグループこそ「人間は最高の資源である」をモットーにして、一人ひとりの個性を大切にし、それぞれが自我にめざめ行動し、ふるさとの活性化を目的として、昭和59年9月に結成された若者たちによる「グループ2000」である。国際感覚の向上や青少年 の健全育成、そして地域の活性化を願う21世紀前半の担い手たちにとって「グループ2000」は、まったくハイカラで的を射た名といえよう。彼らは、過疎の町の村おこしの第一義に、人間を最高の資源とし、交流をとおしてふるさとの活性化を図ろうとしたのである。 町社会教育課主催の青年教室における一連の「国際化時代に向けて」の学習を土台に、青年たちの思いは、「コップから東南アジアヘ」と高まっていった。「井の中の蛙」から脱却を図ろうというのが願いであった。 なぜ「東南アジア」なのか。鹿児島県は、わが国本土の南の玄関にあたる。しかも日本列島から中国、東南アジアを含む圈域の中心に位置する。さらに、経費的にも時間的にも、いつか行ける位置にあると思ったからである。おりしも鹿児島県における国際交流の推進の方向が、わが国の南の起点づくり、国際性豊かな地域づくりを目指していたことも、少なからず影響あったといえよう。 パスポート‘85 国際感覚を養うという青年教育を飛び出た若者たちは、学級長の久留須俊彦をリーダーに「グループ2000」を結成した。そしてまず香港を訪ねることを決意したのである。それも単なる観光旅行でなく、観光化されていない生の香港を見たい、現地人とふれ合いたいと願った。旅行業者を通すことをせず、白分たちの手で社内を練りあげていったのもそのためであった。 仕事をもった若者たちゆえに参加には限りがあったが、結局六人が旅立つことになる。香港でも現地人に案内を依頼し、なかなか経験できないという中国との国境や、どろぼう市という観光化されていないところの見学ができたこと、現地人との人的交流もなされたことは有意義であった。言葉もはっきり通じない現地人との交流は、心と心、肌と肌のふれあいであったようである。そのことは、その後も文通が続いていることや、彼らが日本旅行の析、その家族をともなって鶴田を訪れたことからもわかる。 1985年の春、6人の香港視察交流を名づけて「パスポート‘85」という。6人が、限られた4日という日数のなかで得た言葉なき心の国際交流の体験は、それからのグループ2000活動の礎になったということは言うまでもない。 からいも交流 青年教室で呼んだ講師加藤憲一氏は、「からいも交流」を主宰する南方圈交流センターの代表である。氏の説く「汗と土と潮のふれあい在日留学生を通して、町や村を世界に開く」という試みに賛同し、鶴田町でも、第4回からいも交流に参加することになった。主催はいうまでもなくグループ2000であった。 国際交流というと晴れがましいが、閉鎖的な山村に2週間も言葉のちがう外国人を受け入れてくれる家庭を見つけるのは、容易なことではなかった。創造する難しさを個々味合いながらも、若さと情熱と行動力をもっていくつかの障害を突破していった。「人材は最高の資源である」「見つけよう君の世界を」の合言葉のもとに。 ついに6人の在日留学生を受け入れることになる。それから3年。8カ国15人の留学生を受け入れ、家族活動はもとより、学校交流、団体交流、地区民との交歓、などの地域活動をとおして、児童、生徒の国際感覚の向上、町民の国際理解ひいては、その話題性から地域の活性化につながるなど多大な成果をもたらした。 コグマからいも交流 古来、鹿児島と朝鮮半島はさまざまな交流の歴史があり、現在でも「薩摩焼き」や「高麗菓子」など、わたしたちの生活の一部になっているものもたくさんある。このような歴史的、文化的つながりがあったにもかかわらず、韓国は近くて遠い国であった。 この身近であるべき韓国との交流が実現したのが昭和61年の夏、コグマからいも交流であった。コグマとは、韓国語でからいものことである。いままでの在日留学生でなく海外からの直接受け入れということで心配もあったが、からいも交流で培われた国際交流の人気が当初の不安を吹き飛ばし、新しい日韓交流の出発への対話ができ、しかも近くて遠い国の意識も強めたようである。2年にわたって7人の学生を難なく受け入れることができた。 韓国大学生の引率の韓国中央大学教授の鄭致薫先生を知り得たことも大きな幸せであった。先生は、日本の国学院大学の国文科を卒業され、日本語、日本文学、文化に造詣の深いものをもっておられた。そして、鶴田と韓国との交流の労をとることを約束してくださったのである。 たけんこ交流 近年、地方の時代といわれ、日本各地に村おこしグループや国際交流をすすめる団体が誕生し、その地域で花を咲かせている。 佐賀県にも「地球市民の会」という、「村おこし」と「国際交流」に接点を求めたグループがある。その会の事務局長古賀武夫氏とグループ2000代表久留須俊彦との人的交流でもちあがったのが、たけんこ交流である。四全総の中間報告書で「地方の個性ある発展をめざすべきだ」として「都市と農村との交流など広域的交流」を進めるよう提唱している。 そんな析、葉隠の里佐賀市とたけんこの里鶴田町とに“まちむら交流”の話がもちあがった。汗と土と心のふれあいをとおして、その地域の活性化交流を図ろうとするものである。 62年3月、佐賀市から、幼児より高校生まで45名が来町、2泊3日のホームステイを行った。集団行動では、牛と遊んだり、たけんこがりをしたり、竹細工などをしたりした。チビッコ親善使節団を24の家庭が受け入れ、楽しい家庭活動を行った。 8月には、鶴田町から、幼児より中学生まで44名佐賀に派遣、NHKテレビ局や新聞社見学、佐賀市一番の夏祭りに参加した。国際交流に目が向く昨今、国内に目を向けた交流は実に有意義であった。 「佐賀市に家族づきあいのできる友だちがいる」ことは大きな喜びであった。また、自分たちの村と違った生活を肌で感じた子どもたちは、自分たちの村と違った生活を肌で感じた子供たちは、自分たちの村のよさを新ためて感じるとともに今後の村の方向を探ったようである。 代表の久留須は、「明治維新の主役薩摩と肥前の交流が復活した。それぞれの地域活性化のバネになれば」といっている。 ふるさと基金 鶴田町では、各種の交流をとおして国際化時代に対応できる青少年の育成、新たな地域づくりに取り組み一応の成果を上げている。 さらに、交流が青少年に大きな影響を与える点に着目して、単に受け入れ側に終始するのでなく、もっと積極的に青少年を海外に派遣しようではないか、という声がおこってきた。青少年が海外でのホームステイを通じて、自分の目で見、耳で聞き、体で感じる経験が、必ずや、これからの人生に生かされ自立自興のできる人間に育ってくれると確信し、心ある人に協力を願い、それぞれのできる範囲で財ある人は財を、知恵ある人は知恵を、力ある人は力を出し合って「ちびっこ大使派遣ふるさと基金」の運動をはじめることにした。 基金目標額を200万円、募金活動期間を昭和63年6月までとし、ただいま実施中である。第1回目を昭和63年8月に派遣することとし、鄭先生を仲介に韓国に2週間7名を予定している。募金も限られた人のみで終わることのないように、次郎物語の映画会の開催やマラソンソフトボール大会の開催をとおして、多くの方々の参加を得ながら、浄財の協力をいただくことにした。 グループ2000の会員数は現在15名、賛助会員120名である。「人間は最高の資源である」をモットーに、鶴田町のむらおこしに、地域の活性化を人と人との交流に求めつづけて今日も模索している。 |