「ふるさとづくり'88」掲載 |
河川清掃でふるさとづくり |
埼玉県皆野町 三沢川をきれいにする会 |
染色した生糸を洗った川 今年もお盆の15日、わが皆野町あげての“秩父音頭祭り”が行われた。埼玉を代表する民謡、この秩父音頭の発祥の地である当地は、町村合併でこれまでの皆野町に、三沢村、金沢村、日野沢村、国神村の4村を吸収し、昭和32年3月いまの皆野町として誕生した。現在人口は13,000人、3,400世帯の過疎の町である。 私たちが行っている河川浄化活動の地域は、皆野町の東の一隅、関東の吉野山をめざす桜の名所“美の山”と、県営秩父高原牧場にはさまれた、人口1,800余人、戸数400余りの旧三沢村である。村の地形は、周囲を山で囲まれ、標高767メートルの大霧山を源に、荒川にそそぐ総延長約8キロメートルの1級河川“三沢川”が、村を東と西に分けている。村内は、上・中・下三沢の3地区に分かれ、上三沢が上流に位置し、人口、世帯数とも中・下三沢より多い。 新篇武蔵風土記によると、私たちの村は、〈…農閑には炭焼き薪採りを常とし、女は養蚕の外生絹、横麻、煙草等…〉とあり、当時の三沢の約300戸のほとんどが、こうした生産で生計をたてていたといわれる。染色した生糸を洗った川は、いつも赤や緑、黄色に染まっていた。 魚取りの思い出 私が子供のころから川に問題がなかったわけではないが、こうした川で、ウナギやハヤ、カジカなどを取り、いろりの火で焼いて割飯のおかずにしたものだった。 膝までつかる流量のなかを、ガラス箱とヤスで川底の石をはがし、カジカやドジョウを取り、夜はミカンの缶詰めの空きカンで石油ランプを作り、これを照らして、夜振りという方法でウナギを突き剌したこと。ウグイの釣り比べ、沢ガニ、川のり取りをしたこと。それに泳いだことや、ムギワラを束ねたイカダを浮かべた思い出が込み上げてくる。 このように、流量豊かで魚影の濃かった川は、昭和40年代後半から同52年までの数年間で、ジャングル化、ドブ化してしまった。それは、工場廃液などの有害物流失という水質そのものの問題ではなく、流量減少と川をゴミ捨て場とする住民意識の低下による破壊である。 細かく分析すると、スギやヒノキ、シイタケ栽培の原本となるナラやクヌギの伐採、それに対する植林の減少、大規模な牧場の造成などにより、山は山の持つ水資源涵養力を失い、さらに降雨量の減少も手伝って川は細っていったのである。加えて家庭ではき出すゴミや下水で、いつしかメタンガスや異臭がするようになり、まったく自浄作用のできない状態になったことである。 大川をきれいにする会を結成 上流の川がこのような状態では、下流ではもっと汚濁が進んでいることだろうと思っていたとき、かつて、魚取りや山へ薪拾いに行った幼友達と、ある晩酒を酌み交わした。話題はもっぱら、悪臭を放った三沢川のことだった。「川を何とかしなければ」「子供たちにも、われわれが育った頃と同様に、魚取りや川遊びをさせてやりたい」…。子供たちの心に残るふるさとづくりをめざして、村祭りの直会の席で“川をきれいにする会”の結成を呼びかけた。この呼びかけに、20代、30代の若者を中心に会席の老若全員が賛成。昭和52年6月に、上三沢地区209戸全会員による“大川をきれいにする会”を発足させたのである。 発会式は地区の公会堂で行い、役員、年間活動計画、予算などを万場一致で定めたのである。 会の活動目的は、@川の清掃を通して、子供たちの心に残るふるさとづくりをするとともに、活動に参画させ健全育成をはかり、情操教育に資するA日常会話をする機会の少ない村人たちの交流の機会とするB過疎化の進む村に活気をみなぎらせる―などにあった。 こうした目的のもとに、その年の7月、発足第1回目の河川清掃が行われた。そのときの活動内容は、@川面に生えているカヤや葦、流木の伐採Aゴミ捨て防止看板の設置B遊泳危険か所ヘの注意看板立て、ロープ張りなどであった。 しかし、会が発足したことや年間活動計画、会への積極参加を全戸に呼びかけた役員の努力もむなしく、この活動に参加したのは、上三沢209戸のうち、わずか42戸であった。役員一同ガックリしつつ、その夜反省会を開き、今後の方針を話し合った。その結論は、川を清掃するだけでなく、もっと村人に川への関心を持ってもらおうということだった。そのため、@啓蒙パンフレットの発行A魚のつかみ取り、つり大会の開催B魚の放流C川岸ヘゴミ焼却炉の設置などを活動計画に取り入れることとした。 少ない会費と全員有志のカンパで、8月には魚(ウナギ、コイ、キンギョ、ニジマス)のつかみ取り大会を実施してみた。何とこの催しには、家族ぐるみ650人もが参加し、幾分きれいになった川にわれ先に入り、コイやウナギの手づかみに喚声をあげたのである。 こうした経緯の後、9月に実施した清掃(葦やカヤの伐採、ゴミ・空きカン拾い)には一世帯で2人も参加する光景がみられるほどで、合計350人もの協力を得たのである。10月、翌3月も多くの人たちの参加を得て、理解は次第に深まっていった。川事体も次第に自浄作用を取り戻してきた。 「若い連中の遊びごと」「川なんか清掃したって」…とみていたお年寄りも、いつしか「川にゴミを捨てると、若い者に怒られる」などというようになり川をゴミ捨て場とする姿も、次第に影をひそめていった。 活動は県民の注目を浴びる 行政当局による押し付けではなく、住民の底辺から盛り上ってきた当会の活動は、秩父郡市の住民をはじめ、県内各地、行政当局から深い関心を寄せられた。 昭和53年6月には、県発行の広報紙県民だよりで、また、新聞、テレビで大きく報道された。翌54年1月には、川越市の「霞川をきれいにする会」が視察にこられ、意見交換を行う。 同年6月には、知事を囲む「河川浄化住民運動経験交流会」が浦和市で開催され、知事の前で活動の状況を説明するとともに、他のグループとの意見交換を行い、大きな成果をあげた。さらに、55年5月の環境週間には、小学校児童に呼びかけてつくらせた標語が、県知事賞、県教育長賞など上位入賞を独占し、子供ぐるみの河川浄化活動のすばらしさを高く評価された。また、同年7月には、組織を中・下三沢にも拡大し、名称を「三沢川をきれいにする会」に改めた。この 組織拡大で三沢全地で全戸の430戸の会員を得たのである。 こうして、組織拡大されたあとも毎年6月、7月、8月、10月、3月には河川清掃と県道の空きカン・ゴミ拾いを、8月15日には、ふるさとへ帰る人たちにも参加をいただき魚のつかみ取り大会を開いている。 最近では、ゴミ捨て防止の看板(畳一枚大)を県道や川岸に設置しているほか、本格的な啓蒙紙の発行、ホタルの養殖などに取り組んでいる。 なお、これまでの活動記録は次のとおりである。 昭和52年6月 大川をきれいにする会発足。 昭和53年6月 県民だよりで紹介される。 昭和54年1月 川越市の霞川をきれいにする会視察・交流する。 昭和54年6月 知事を囲む河川浄化住民運動経験交流会に参加。 昭和55年5月 環境週間標語に三沢小児童が上位入賞独占。 昭和55年7月 組織を中・下三沢に拡大、名称を「三沢川をきれいにする会」に改称。 昭和56年4月 護岸工事による泥土流出しで放流魚死滅。対策を秩父土木事務所に陳情。 昭和56年5月 環境週間標語に三沢小児童が上位入賞。清掃に町長・町幹部参加。 昭和56年7月 県発行河川浄化パンフレット表紙に魚のつかみ取り風景が掲載される。 昭和56年10月 県主催秩父地方各界代表懇話会に会代表が出席、知事の前で会の活動状況を発表。 昭和56年12月 県主催秩父地方公聴集会に会長出席、魚の放流等を呼びかける。 昭和57年12月 環境庁提供のフジテレビ番組「志賀ちゃんの環境ルポ」に河川浄化活動風景取材放映される。 昭和58年11月 県シラコバト賞を知事より受賞。 昭和58年〜61年 美化啓蒙大型看板10基を村内に設置、ゴミ捨て防止を訴える。 昭和61年6月 昭和61年度県環境保全功労者賞受賞。 昭和61年8月 県民だよりに会の活動が再度掲載される。 昭和61年10月 ホタルを放流する。 昭和61年11月 秩父郡市社公教育功労賃受賞。美化啓蒙広報詰発行。 昭和62年6月 ホタルの養殖を開始する。 昭和62年9月 (財)あしたの日本を創る協会、都道府県新生活運動協議会、読売新聞社 主催の「ふるさとづくり賞」に応募。 活動11年の成果 こうした10余年にわたる活動の成果として@川をきれいにする会が母体となり、若者たちが休日返上で地区民の健康増進のための運動場(3,000平方メートル)を3年がかりで造成できたことA村人同志の会話・交流が深まってきたことB河川浄化活動の波及効果が、町内をはじめ県内各地に広まってきたことC新しく会を結成したいという地域から、相談を受けるまでになってきたことDゴミを捨てる者が少なくなったことE子供たちへの情操教育、ふるさとづくりに大きく役立ったことなどがあげられる。 三沢川は、ここに生まれ育った多くの人たちが一度は足を踏み入れたことのある、思い出の川である。今後も三沢地区の住民が総力をあげて、美しい川を維持していかなければならない。ただ単に、川をきれいにするだけに止まらず、生活環境の整備、向上をめざし、個性的で創造性豊かな地域社会を築き、過疎化に歯止めをかけていくことも忘れないように……。 三沢川は、荒川へ注ぎやがては東京湾へ流れ込む。下流の人たちに訴えたい――川の上流は緑が豊かで水がきれいであることが、余りにもあたりまえだと思われがちだ。しかし私たちのように、水源に住み、水の恵みを誰よりも先に受けながらも、ホタルが飛び交い、魚が群泳ぐきれいな川づくり、自然を保持していることを! |