「ふるさとづくり'88」掲載

若者の燃える村づくり
高知県十和村 十和村連合青年団
「君、火を灯せ 我、炎とならん」

 私たちの住む十和村は高知県の西南部、日本最後の清流とうたわれた“四万十川”の中流にあり、四国山脈に抱かれた縁豊かな山村である。昭和32年に、2つの村が合併し、現在の十和村が誕生した当時、7,400余人であった人口も過疎の波に洗われて、現在は4,400人余り、アユとキノコの里をキャッチフレーズに21世紀に向けて、懸命に村おこしに取り組んでいる。
 そんな山村のなかにあって、私たち十和村連合青年団は、私たちがこれから生活していかなければならないこの村を、自信と誇りを持って語れる村、紹介できる村にしようと頑張っている。
「君、火を灯せ 我、炎とならん」……この言葉は私たちの先輩が残してくれたものだが、 この言葉は私たちの活動の柱であり、青年活動の歴史を語る言葉でもある。
 私たちの心のなかのふるさと、それは「四万十川」であるが、この清流「四万十」を高らかに歌い上げる「四万十川まつり」が誕生したのが昭和48年であった。


四万十川まつり

 当時、四万十川の上流にダムを建設する計画が浮上しており、また水不足に悩む愛媛県南予地方に、四万十川の水を分水してくれるようにという愛媛県からの強い要望が出ていた時期で、ダムができれば川は死ぬ、川が死ねばふるさとが死ぬ、ということで、当時の青年たちが川を守り、ふるさとを守るためには陳情や座り込みよりも、清流「四万十川」をふるさとを愛するすべての人びとの心のなかに位置づけることが大切だということで、それをアピールするために取り組まれたのが「四万十川まつり」であった。
 大がかりな設備と資金を必要とするために「小さな村のなかでは…」と成功を危ぶむ声も聞かれたのだが、ひとりの発想が3人の考えとなり、10人を動かして、数十人の若者たちが汗を流して、雨にたたられて一度延期にはしたものの、当日は村の人口の2倍もの人びとが四万十川の河原に集まり、郷愁に酔ったのでした。
 以来「四万十川まつり」は北幡地方を代表する川まつりとして定着し、祭りを終えた会場の水上ステージの上では若者が夜を徹して酒をくみ交し、ふるさとについて語り合うのである。
 ひとりの若者の熱意が数十人の汗をよぶ、そういう仲間がいる限り、できないことはないのだ……。そんな自信みたいなものが伝統となり、初夏の風物詩として取り上げられる「こいのぼりの川渡し」などのユニークな催しものも生まれてきた。
 昭和55年2月には、予土線の廃止反対を叫んで立ち上がった。昭和49年に北幡の夜明けとうたわれて開通した国鉄予土線が赤字ローカル線というだけで、地域の実情も考慮されずに廃止されようとしている。再び北幡を陸の孤島に戻すなを合言葉に、連合青年団が中心となって、村商工会青年部や体育会等の協力を得て、県庁まで街頭パレードを行い、村民の北幡の人びとの気持ちをアピールした。
 そんな私たちの願いが通じたのか、四万十川のさわやかな風をうけて今年の夏も多勢の人びとを乗せた“トロッコ列車”が走りぬけ、私たちの行動も無だではなかったと思うのである。


四万十川があるから帰ってきた

 高校などを卒業して、何年間か都会に出かけ、再びふるさとに帰ってくる、そんな若者が連合青年団のなかにも多くいる。ふるさとに帰ってくる若者のなかには、夢に破れ、仕方なくふるさとに帰ってくる若者もいると思うが、どんな動機にせよ、帰郷すると決意したとき、そこに“四万十川”が浮かんでくる、とよくきく。一日中川で泳いだ想い出、エビやゴリを追いかけた想い出、溺れかけた想い出、それらは一生消えることなく私たちの心のなかにあり、私たちの子供たちが、私たちと同じような想い出を持つ、そんなふるさとで永遠にあってほしいと思うし、そして、その想い出の残る“ふるさと”を守り、作っていくのは外ならぬ私たちだ。私たち青年の義務だと思う。
「四万十川まつり」や「こいのぼりの川渡し」などの大きなイベントのほかに、地域に残る郷土芸能の担い手として活躍する青年も多く、十和村の新しい郷土芸能として、青年団の手によって作られた「十和太鼓」は、十和の青年の心意気を示す響きとして、10名の青年の手により引き継がれている。


村おこしグループ「やる気会」も発足

 また大正時代から受け観がれてきた「北幡青年大会」も、弁論、陸上、相撲と2日間にわたって、北幡の三ケ町村の若者が郷土のために練習に練習を重ねた成果をぶつけ合うが、「昔の青年大会はにぎやかじゃった。前の晩から弁当を持ってぞろぞろ応援に行った」という古老の声をきくたびに、この大会をなくしてはいけない、伝統を棄てては新しい発展もないのだと頑張っており、全国的にも、この種の大会では珍しい56回目を迎えた。
 私たち青年団には技術も経験も資金もない。あるものといえば世間知らずな行動力と馬車馬のような一途さだけだが、私たちが行動を起こせば、良いにしろ、悪いにしろ、なにか結果は出る。それに地域の人びとが肉づけをしてくれたら、村おこしのひとつにもなると思う。
児童生徒数の減少、農家所得の低迷、減りつづける人口、どれをとっても山村の生活は、依然として厳しく、しかたなく村を離れる若者も少なくない。いくらきれいごとをいっても生活できなければ村にはいられない。十和の新しい特産品を、十和にしかできない何かをいま、若者の手でというなかから生まれた「やる気会」は、現役の青年団員やOBたちの、農家の担い手たちによって組織された村おこしのためのひとつのグループで活発な行動を続けている。
 なぜ十和村で生きていくのか、どうやって十和村で生きていくのか……この問いかけは私たち青年に投げかけられた大きなテーマであり、これに答えを出すことが村おこしである、と思う。


地域にとけこんだ活動を

 戦前の青年団は、地域の行事ではいつも中心的存在であったといわれるし、昭和30年代の青年団は、政治問題を堂々と論じたと先輩たちから聞かされる。まさに地域起こしの原動力だったわけだが、青年団活動も変遷をたどり、一時は壊滅状態にまで落ち込んだ時期もあった。物事を頼んでもアテにならない代表として、青年団の名が挙がった時期もあるときく。現に、私たち十和村の青年団も地域ごとの団体はなくなってしまった。
 しかし、十和村連合青年団という一本の組織にしろ、100名近い団員数のなかで実際、積極的に活動する青年が40名という現実のなかでも、地域のために、ふるさとを離れながらふるさとを愛しつづけている人々のために、何かをやらなければ……。何かができるのだ……。という気持ちがあるかぎり、活動を続けていかなければならない、と思う。
 春には「こいのぼりの川渡し」を見つめる子供たちの輝く瞳に出逢い、夏には「四万十川まつり」でふるさとを愛する人々の交わし合う言葉に酔い、秋には神祭で郷土の芸能を一生懸命伝えようとする古老たちの熱意に酔う。山村の生活は娯楽や芸術・文化の面で都会との格差がさらに深まりつつある。私たちの村には、ボーリング場も映画館も、ブティックもディスコも、原宿のような若者の集まる場所もない。
 しかし、外から与えられたもののなかで、自分の欲求を満足させていく、果たしてそれだけが分化でしょうか。文化がなければ自分たちで新しい文化を作り上げていく。何もない山村の僻地だからこそ、私たち青年の手でふるさとの文化とふるさとにしかない魅力を作り上げるのだ。
 そして、過疎のこの村のなかで、決してくじけることなく、多勢の仲間とともに手を取り合って21世紀を迎えるために戦っていくのだ。ふるさとの清らかな川を守り、ふるさとの豊かな緑を守り、ふるさとを愛するすべての人々の心を守りながら、私たち十和村の青年たちは生きていかなければ……と思うのである。
「こいのぼりの川渡しの村」「アユとキノコの里」「Uターン青年が多くいる村」という、ふるさとを表わし、ふるさとをたたえる数々の言葉のなかに「若者が燃える村」「青年のエネルギーが爆発する村」という、新しい言葉を加えるために、私たちの活動は続いていくのである。
「あいつらは何をしでかすか分からん、けんど何かやるとなったら後押しはせんといくまい」と思ってくれる人々がいるかぎり、そして四万十川と、ふるさとを愛する人々がいるかぎり……。