「ふるさとづくり'88」掲載

自然を生かした新しい観光地化構想
長崎県田平町 郷土の自然を見直す会
 長崎県北松浦郡田平町、私たちの町はわが国の最西端に位置し、昔から交通の要衝に当たっており、北目は伊万里経由福岡へ、また南目は佐世保を経由して長崎へ通じ、海路も平戸、生月、大島をはじめ壱岐、対馬、五島等と連なり、そのためか石器時代をはじめ縄文、弥生時代の遺跡が多数発見されている。そして、古くから貿易港平戸の恩恵を受け、また現代は歴史の街、平戸島の観光にすがって生きてきた。


「おこぼれ」で生きてきた町

 とくにめぼしい産物もなく、観光資源といえるほどの物もなく、平戸の人口としての「おこぼれ」で生きてきた面を見逃すことはできない。大したおこぼれではないが、幸が不幸か自然に囲まれた半農半漁の環境は、ぜいたくをいわなければ何とか暮らしていけるし、一員おこぼれでよいということになってしまえば、自立の精神は湧いてこないものである。そして、おこぼれ人生には名前なんかどうでもよいのである。故郷の名前は田平でなく平戸口であり、玄関口の駅も「平戸口」わずかにある産物もザボンが「平戸文旦」和菓子が「平戸こいしや」となる。
 昭和52年4月平戸大橋が開通した。住民による一部の反対はあったが大半の人が大橋に期待をもった。本土と平戸を結ぶ大橋は便利で、平戸の観先客は大幅に増え景気もよくなると読んだ。平戸がよくなれば当然おこぼれも増えるはず、悪くなるわけがない、と考えたのはおこぼれ人生として当然の成行きであろう。しかし、観光客増加の期待はあっさり裏切られた。時代はどんどんスピードアップしている。便利になればその分だけ、多く見て回ろう、と思うのが人情である。船で渡るので1泊を覚悟した旅が2、3時間で通り抜けるスピードに変わったまでである。海が荒れているから、田平で1泊ということも全くなくなり、田平とともに平戸も、無情な素通りに泣かされるところが多いときく。平戸観光に頼りきっていた田平は交通体系の変化がいかに生活に響いてくるかを予測すべきであったが、おこぼれ人生に、そうした客観的視野を求めるのは無理であろう。
 いまは全国的に都市化の傾向が強い。道路も建物も、公園、排水路、どれひとつみても、どこでも必要以上に、都市化に向かっているように思えてならない。田平は伊万里、佐世保まで1時間、長崎、福岡まで3時間半という、2つの文化圏の狭間にあり、ベッドタウンにも向かず都市化もしにくい中途半端な土地柄である。だとすれば、あえて都市化を求めず、悪条件を逆用して積極的に自然を残し、それをセールスポイントにして「新しい観光地化」を目指してはどうだろう。田平町民の大半が、自分たちの回りの豊かな自然をあまり認識せず、なかには田舎っぽくて恥ずかしいととらえている人もいるようだ。多くの人がテレビによる、都全的文化に縛られているように思われてならない。庭には小鳥が遊んでいても、目は「タモリ」にとらえられ、外でホタルが飛びかっていても、つい「水戸黄門」の方を見てしまうのである。


「野外生物センター」の構想

 自然科学写真研究所を主宰する写真家の栗林慧さんと、スタッフの大谷剛さんが野外生物センターの構想を提言されてから5年余りが経過した。昭和50年に廃止され、放置されて荒れ放題になっている長崎県柑橘指導園の跡地を再利用しようという計画である。私たちが、同志数名とともに『郷土の自然を見直す会』を結成したのは、昭和59年の4月であった。町内の大樹を測定表示したり、山菜パーティーを開いたり、あるいは「おもしろ生物ランド」を開いたり、自然との交流を呼びかけているが、そのなかでもっとも大きな運動目標のひとつが、このセンターである。全国的に「自然史博物館」「青少年センター」「水族館」などが造られつつあるなかで、昆虫を主体とした小動物が、自由に生息できるような「自然昆虫園」または「野外生物園」という施設はそれなりの存在価値があると考えられる。では、このセンターにどのような役割があるか、いくつか具体例をあげて考えてみよう。
1、町民の憩いの場としての役割
 植物園、薬草園、山草園、花木園など自然を見直すための資料を1ケ所に集めることにより「いこいの場」として機能が生まれ、町民が染まることによって情報交換の機能も働いてくる。一部に町民の森を併設、団地住まいなど土地を持たない人たちに卒業や就職、結婚などの記念樹の植え場所を提供したり、病害虫駆除の実験場など、アイデアには限りがなく、新しく発展できる開かれた場として、大きな役割を持たせることができる。
2、子供たちに自由研究の場や自然環境認識の場を与えることができる。
 現在の子供たちは、自然のなかで遊ぶことが少なく、知識だけが先行するようになり、生物を知るのも図鑑や教科書が先である。このような状況のなかでは、実際の自然に触れさせる理科教育がとくに必要だと思うが、現実には、それにふさわしい場所と時間的な余裕がなく、またそれに伴う的確な助言、指導者が見つからないというのが、問題点のようである。このようにみてくると「子供たちに本物をみせてやるためのセンター」が理科教育にとってなくてはならないもののひとつと考えてよいようだ。もちろん自然科学関係の先帝図書のメッカにすることなども考えられる。
3、理科教育の研究の場としての役割
 戦後、知識だけの理科教育を受けた子供たちは、すでに教育をする立場にまで成長している。実際の物を知らない先生が教えるとなると、誤りや思い違いなどにも気づけなくなり、正しい知識を伝えることさえ、怪しくなってしまうのではなかろうか。教育現場の方々も、研究、観察のための施設が整った場所を、とくに希望しておられるようである。教育現場だけでなく、より基礎的な研究をしている人々にも、研究の場として解放し独自の研究をしてもらえば、その知識の一部は確実にセンターに残るはずである。
4、その他の文教センターとしての役割
最近では、多くの人々が趣味でカメラを持ち、自然に親しむという考えが増えてきているようである。その理由はカメラ機器のレベルアップだけでなく、殺伐とした都会生活から逃れて、いこいの場を求めるという傾向も、関連していると思われる。こうしたなかで「自然写真教室」「ネイチャー・フォト・コンテスト」などの活動が考えられるが、もし栗林会員の協力が得られれば、視聴覚関係にとってよりよい効果的なソフトウェアも確実に得られるはずである。


わが町のアメニティづくりに向けて

 郷土の自然を見直す会では「帰りたくなるふるさと」「ぜひ住んでみたいふるさと」を呼びかけたい。ふるさとは帰ってきた人の心と体に、美しい自然のエネルギーを注ぎ込んでくれる。ふるさとは帰ってくる所であり、住まう所である。都会生活に疲れた人に、擬似都会、ミニ都会では意味がない。
 ところでこの考えを一歩前進させてみよう。北海道など雪国の人は雪のない九州の話をすると無性に羨ましがるそうで、これは年をとった人ほどひどいそうである。雪との闘いは、歳とともに身にこたえるようだ。雪のない土地に住んでみたい……雪国の老人の夢を、かなえてあげてはどうだろうか。しかし保養だけでは生き甲斐につながらない。そこでこの方々には、町内にある精薄施設や特老でのボランティアをお願いしたい。これがまた相乗効果で施設の発展にも繋がるはずである。
 もう一歩進めてみよう。「文化人招待保養地」のアイデアを提言したい。これもまた同じふるさと活用のひとつで、都会でさまざまな文化活動をしている人に、ペンション風の住居を無償で提供しその代わりに滞在中に必ず、無償の講演をしてもらうというものである。この考えは雪国老人の場合にも通用できる。永住でなく、冬場だけの別荘として考えてもよいわけである。
 最西端の町・田平町にいつまで自然が残るのかは予断できない。ひとつの状態を保っていくには大変なエネルギーが要ることを認識しないと、いつの間にか都会風のものに蚕食されていくのは必然である。一般にいって行政は、道路や建物など目に見える物には金を出しやすいが、教育や文化活動には出しにくいのが普通である。しかし、こうした目に見えないものに力を注いでいると、何年かあとには、さまざまな力となって帰ってくるものである。
「草深い田平に都会の文化が溢れている」と近隣の市町村の人びとを呼び集めることもできようし、そうした集結エネルギーは商店街の活性化、農漁業の生産にもよい影響を与えるはずである。人がそれぞれ身につけた文化は、町政をはじめとするいろいろな町づくりのエネルギーとなり、アイデアとなって必ず生きてくるものである。この意味では現在の人材活用センターも、もう少し積極的な活動を期待したい。
 久山町の健康管理、大山町の一打一品、松戸市のすぐやる課、などのユニークな企画は、いずれもその土地のさまざまな条件にみあった独自の方法、アイデアによって成功しているようだ。物真似でない、地域に根ざしたアイデアと努力は、必ずむくわれるはずである。田平町はわが町だけに許される「最西端の町」という最大の特徴を生かして「帰りたい町、住みたい町」の環境づくりに努力してほしい。そして独立した田平観光を創造してほしいものである。