「ふるさとづくり'89」掲載

地域の快適環境(アメニティ)創造
北海道帯広市 国土と建築を考える会
「晩成社」の開拓が光の初め

 明治4年、日本政府は、「北海道開拓10年計画」を策定し、国策としての北海道開拓に着手した。これは、富国強兵、殖産興業、そして、露帝国をはじめとする列強に対する、北方警備の意味をもった屯田兵の制度を軸として、北海道開拓は、展開されていった。
 しかし、十勝地域内陸の開拓は、その地理的条件を主な要因として、外された。明治16年、伊豆の豪族による、依田勉三を中心とする「晩成社」による開拓まで、文明の光のささない未開の地として、その出番を待っていた。
 帯広市はその後、幾多の試練を経て、十勝地域(青森県の面積に相当)37万人の母都市として発展し、現在は人口約16.7万人を擁し、地方中核都市として、位置づけられているまちである。


チーム・グローバル・アーバン

 帯広市の全体像については、前節で述べたところであるが、戦後、我がまちも、安定した成長とともに、100年が経過し、この土地生まれの世代が「土着」という指向性をもって、様々な分野で活動を展開するようになってきた。
 昭和48年、チーム・グローバル・アーバンが創られた。発足時のメンバーは、風建考の代表幹事の山田哲、山田英和等5人の集まりで、この時期は内部的な意識の調整であり知識を蓄積する時代であった。主たる活動は、メンバーの勉強会であり、各種講演会、討論会、住宅コンペなどの積極的参加であった。


帯広の森市民協議会

 そのころ前帯広市長であった吉村博氏が、ウィーンの森に触発されて、帯広市の外緑に、幅500メートルのグリーンベルトをつくり、当時のまちづくりのスローガンであった、田園都市構想の実現を計り、都市化によるスプロール化現象に歯止めをかけるべく「帯広の森」が昭和46年に策定され、帯広市第2期総合計画の柱に据えられた。
 市民が参加する植樹祭が開かれた。昭和48年に、帯広の森市民協議会が設立され、その事務局スタッフに、チーム・グローバル・アーバンのメンバーが、積極的に参画していった。
 昭和50年より以後、本年で、第14回目の市民植樹祭を行い、今では7000人の市民が参加する春の一大イベントとして定着してきた。なお、第5回目の市民植樹祭でのシンポジウムを契機として100年の森づくりをアピールすべく、100分の14という言い方をするようになってきた。


北方都市問題研究会

 勉強会から行動へと展開していったが、続く世代への新しいメンバーの勉強会的意味あいもこめて、北方都市問題研究会が、つくられた。この勉強会は、昭和56年頃より、昭和60年まで、断続的に行われ、今は、次世代(30歳前後)メンバーに引き継がれている。
 このメンバーの中から、帯広市議会史上、最年少の市議会議員を輩出したことは、特筆すべきことである。
風建考創設考
 帯広で生まれ、育った帯広の第3世代が、大学での遊学を終え個々の事情はあるにせよ、ふるさとに回帰し始めて、社会での中核となってきた頃、たくさんの集団、または仲よしグループが至る所に散見され、ふるさとづくりに取り組んでいたが、私達のグループも、その流れを構成するひとつである。
 昭和48年、チーム・グローバル・アーバンを結成して以来、ふるさとづくり−−まちづくりの流れの中で、ある時はゆっくりと流れ、澱み、あるいは急流となって、時は経過してきたが、昭和60年になって、地域性を生かして独自の建物づくりに取り組む設計集団、「TEAM ZOO」との出合いが、新たなるインパクトを我々に与えた。
 それまでは、十勝平野の中の一拠点である帯広の市街地についてのまちづくりを模索し、行動してきたが、十勝の大地に抱かれた帯広市を今1度、私達の意識の中心に据えるという新しい視点から、まちづくりを考え直すことをせまられてきた。
 以後、様々なチャンスを捉えて、私達の追求するテーマを探求し、考えたものを形にして提案、または、提言してきた。主なるものを列記してみると
 活字マスコミを通しての提言
 北っ子オビヒロ展への出展
 建築学会(創立100年記念、現代地域論)の帯広分科会主催
等を行ってきた。


風建考活動記録広小路商店街

 帯広市は、行政区域としては約618平方キロメートルの広さをもつが、市街地(約50平方キロメートル)は東・北の端に片寄っている。
 まちの特性として、ほぼ平らな地形であり、車の保有台数は、1台当たり約1.1世帯と、かなりの保有台数が高いまちであるために、昭和50年代に入ってから、まちの人口の重心は、世帯数の増とも相まって、西・南へと拡がっている。当然、消費者の購買動向もシステムで売る全国的な店舗展開を行っている大型店とか、広い駐車スペースをもっている郊外店へと移っていき、都心部中心商店街は、だんだんと地盤沈下をきたしている。
 帯広商工会議所では、その現状に何らかの施策を講ずるべく、帯広魅力づくり会議を外部の有識者(約20名)を招いて、設立(昭和61年2月)した。その第1歩として、市内14商店街のうちの広小路商店街をモデルとして活性化プランを諮問した。
 その経過の中で、協議会に参加している私達のメンバーより、風建考で独自の活性化プランを提案した方が論議が進むとして報告を受け、おせっかいであることを承知しながら、昭和61年5月に「シャリバリ」(フランス語でどんちゃんさわぎの意味)を提案した。帯広魅力づくり会議は「シャリバリ」を呑みこむ形で、報告書を提出し、その任務を終えた。その後、帯広商工会議所、帯広市で協議が重ねられ昭和62年度に商店街の活性化を実施することが決定した。
 それを受けて、実施へ向けての基本計画の委託を「風建考」に依頼した。私達は、メンバーで論議を重ね、商店街、市、商工会議所と実施に向けた協議を続けた。1番の強みである、帯広のまちに土着していることを最大の武器としてワークショップを展開し、昭和61年10月に活性化事業計画検討報告書を広小路商店街に提案した。
 なお、実施設計は専門のコンサルタントに発注させた。


電信通商店街

 帯広市内に14ある商店街の内、戦後最も繁栄し、帯広のみならず、十勝の小売業の集積地として、君臨していた広小路商店街が昭和62年に、活性化を実施したことによって、地盤沈下を一定程度押さえ、さらに上昇気運に転じている傾向が出てくると、他の商店街も、活性化を真剣に検討するようになってきた。
 その様な状況の中で、帯広発祥(明治20年代)の地とも言える、電信通商店街新興組合から、活性化の計画を委託された。
 この商店街の名前の由来は、帯広で最初に電信柱が建てられたところから来ている。当時、この商店街を形成していた、進取の気概をもった店主達であった。
 しかし、帯広の市街地が、国鉄の開通(明治34年)をバネとして、だんだん、南へと移動していくと共に、この地の商店街も、その活況をなくしていった。
 今は、この住区に住む、古くからの人達が日常生活用品を購買する程度である。私達は、この現実に即した活性化プランの模索をした。その結果「レトロ5」をキャッチフレーズとした、活性化プランを提示した。ちなみに、「レトロ」は懐古調を意味し、「5」は帯広市の住居表示に基づく、南5丁目線よりつけた。
 昭和64年度に活性化プランを実施すべく、電信通商店街新興組合の商店主の方々は、着々とその準備を進めている最中である。


西帯広商店街

 当地区は、十勝内陸の開拓が始まり(明治20年代)、行政区分が施行された時は、伏古村として、独立したまちであったが、大正4年の併合により、帯広市に最初に編入された村である。しばらくの間は、帯広市と連続した市街地とはなっていなかったが、昭和40年代に策定された、緑の工業団地地域により、一連の市街地を構成するようになり、さらに昭和50年代に入ってからのニュータウンの造成に伴って、一体化したまちとなった。今、伏古村を覚えている人は、市民の間にも少なくなってきている。
 本来なら、副都心として位置づけられる、歴史的要因をもっているが、交通網の整備、そして、モーターリゼーションの波は、当地区を、おいてけぼりにした。この状況の中から、西帯広商工振興会より、活性化プランの提言を要請され、電信通商店街のプランと、同時並行の作業となった。
 昭和62年7月より、本年3月までの時間を頂いたとはいえ、同じようなプランを提示することは、当然、絶対避けなければならない、苦しい作業の連続であった。電信通商店街は、昔に戻るという発想でせめていったが、西帯広地区は逆に、これからの時代の感覚を、先取りするプランの方向性へともっていった。
 それは都市に住む住民にとって、今、最も求められているのはヘルシー感覚であり、それを日常的に提供できるのは、緑であるということに、私達のターゲットをしぼっていった。さらに、国際化、JRの民営化に伴う駅舎の再利用を盛りこんで提案した。
 なお、当地区への活性化計画は、当面、構想段階である。


風建考の目指すところ

 私達の帯広での活動経過を、1、2、3章で述べたところであるが、北海道に、開拓の鍬がおろされて、まだ115年しかたっていない風土の中で、道民第3世代ともいうべき私達の世代に課せられる課題は、大きいものと思う。
 ちなみに、道民第1世代は、明治・大正期に入植した人々であり、第2世代は、本州生まれでありながら、北海道で育った世代であり、第3世代は、この地に生まれ育った人々を概括的に指す。
 世界史的にみても、短期間でこれだけの発展をとげた地域はない。合理と不合理、文明と文化の相対的矛盾を、常にはらんでいる。
 今、問われていることは、心のふるさとづくりであり、形に表されるふるさとづくりが、十勝の風土の中に求められている。

 まちづくりは、ひとりの技術者によって造られるものではない。たくさんの、色々な考えをもった人が集まって、造られるものである。
 帯広というまちの中にも、公的・私的なものを含め、たくさんの個人があり集団がある。私達もその集団の中のひとつである。風建考の日常的な活動は、特に規則はなく、あくまでも自分達の商売優先であり個の主体意志の集合体の場としての「風建考」である。
 メンバーの都合のつく日に集まり、集合時間も、早くて夜8時であり、全員が揃うのは10時、11時ということも、度々ある。その心根は、この地に土着する意志をもち、自分のふるさとのアメニティづくりに参画したいと考えるからである。
 私達は、組織にこだわる活動はしたくないと考える。組織が限界に来れば、解散すれば良いし、インパクトを与えられて、別の新しい集団が出来ることは、大いに歓迎するところである。
 大事なのは、この地で一生懸命に生きることである。
 そのためには、やらなければならないことはやる。やれることは、やる。という自律した市民としての担い手を、自らにも、他にも、常に働きかけていくことである。
 終わりに、私達の勉強、行動、運動の連環のひとつの証として公職につくメンバーが、少しずつ増えてきたことは、発言の機会を与えられると同時に、公的な責任もかかってきていることを自覚しさらに新しい知識・意識を深化させることを、自らの課題としなければならない。