「ふるさとづくり'89」掲載 |
SENDAI光のページェント |
宮城県仙台市 SENDAI光のページェント実行委員会 |
殺風景な冬のケヤキ並木 杜の都と呼ばれる仙台、市内の中心部を東西に走る「青葉通り」と「定禅寺通り」のケヤキ並木は、その名を象徴するかのように「春の新緑」「夏の緑陰」「秋の紅葉」と四季を通じて、仙台市民はもちろん多くの観光客の眼を楽しませ、親しまれている。 しかし、そのケヤキ並木も冬には落葉し、仙台の街並みも殺風景になる。さらに仙台には「春の青葉まつり」「夏の七夕まつり」と全国的にも有名なイベントがあるが、それとは対照的に、長い冬を彩るイベントがないのも仙台のまちを寂しくしている原因である。 この冬枯れの街並みをぼんやり眺めながら、「ケヤキの木にイルミネーションをつけたら、クリスマスツリーみたいできれいだろうね」という単純な発想から“SENDAI光のページェント”が生まれた。 市民の小さな夢から 「冬の仙台を素敵な街にしたい」〜市民の小さな夢から始まった“SENDAI光のページェント”は、口コミで人を集め、会社員や主婦、そして商店主など、年齢や職業を超えた仙台市民の有志約30人が集まり、実行委員会が結成された。 しかし、全てに間して素人の集団。週1回のペースで開かれる委員会では、難問、奇問が続出した。「どんなイルミネーションを付ければいいのか」「どこから買えばいいのか」「許可関係は、どのようにすればいいのか」に始まって、最終的に「必要な資金はどうするのか」という、一番大事な問題にぶつかった。“SENDAI光のページェント”のスタンスとして、商業ベースにのせず、あくまでも「市民参茄のイベント」を基本に置いているため、資金集めに関しては、予想以上に難航した。実行委員会としては、市民や企業からの「募金」をアピールしたが、実際には、企業からの大口の「寄付」に頼らざるをえなかった。さらに、企業側は「資金を出せば、看板など、何かの形でPRできないか」と考える所が多く、実行委員会側の考えをなかなか理解してもらえないという苦しみがあった。 しかし、その様な状況とは裏腹に、実行委員会のなかでは、「定禅寺通りのケヤキにイルミネーションを付けたい」というアイディアが、いつの間にか「青葉通りにもイルミネーションを」と広がり、必然的に、予算も1,000万円から3,000万円に膨らんでいった。 9月も下句になり、いよいよ資金集めが深刻になってきた。企業はあいかわらず、協賛することによるメリット=広告効果を求めてくる。企業に対しては、「協賛するメリットよりも、協賛しないデメリットを考えてもらおう」を説得材料にアプローチを続ける毎日であった。実行委員会にとっても、「広告効果を出さずに協賛金をもらう」という方法は、大きなカケであり、仙台市民の体質を問うものであった。また、企業側にとっても、「本当に実現できるイベントなのか」「実行委員会といっても、得体の知れない市民の有志の団体。それを信用してもいいのか」といった疑問点を抱え、企業側にとっても、ひとつのカケであったに達いないと思う。 このような状況の中で、仙台市から補助金1,000万円という大きなプレゼントが贈られた。「仙台を素敵な街にするのだから、行政側からの援助があって然るべきだ」という意見もあったが、如何せん、“SENDAI光のページェント”の企画自体、進行が遅く、アプローチが十分出来ない状態であった。その中で、行政側が臨時予算を組んでまで協力してくれたことは、資金集めに四苦八苦している実行委員にとって大きな励みとなった。 相次いだ市民からの寄付 11月上旬、資金難という状況の中で30万個のイルミネーションの発注、電気の供給の打ち合わせなど、点灯に向けて着々と進められた。11月下旬からは、電線を引き込むための仮設電柱の設置や漏電事故防止のための配電工事が行われ、12月1日の深夜からはイルミネーションの取り付け工事が閲始された。木の枝1本1本に電線を手で巻き付けるという手作業のうえ、厳寒の中の深夜の作業ということも重なり、工事を担当した東北電気工事関係者にとっては、苦労の連続であったようだ。 工事が順調に進み、正確な見積が出来上がるにしたがい、予算は3,000万円から5,000万円にまで膨らんだ。 そのような状況の中で、12月3日、数本のケヤキの木を使って試験点灯が行われた。試験点灯の模様は、その日の夜のニュースと翌日の朝刊に取り上げられた。もちろん、資金不足に関しても、市民への協力を呼び掛けた。 この報道により、事務局には、「いくら是りないのか」「どこに振り込めばいいのか」といったうれしい電話が相次いだ。さらに、通帳には、100円、1,000円とけっして大きな金額ではないが着実に市民からの振り込みが増え出した。 そして、12月12日の点灯式。連日のマスコミ報道のため、市民の関心も大きくなり、タ方を迎えた定禅寺通りは、点灯を待つ市民であふれた。石井仙台市長、実行委員長などの挨拶の後、午後5時の時報とともに、定禅寺通りの44本、青葉通り70本のケヤキ並木は、光のトンネルに変わった。 この瞬間、一瞬の沈黙、大きなどよめき、そして、大きな拍手が起こった。点灯、そして、市民からの拍手は悪戦苦闘してきた実行委員にとって、一生忘れることのできない瞬間となった。連日、点灯時間の午後5時にはイルミネーションのつく瞬間を待つ人たちであふれ、市内の中心部の道路は、予想もしなかった交通渋滞に見舞われた。センセーショナルな話題といくつかの問題点を残し、“86年SENDAI光のページェント”は無事に終了した 人出は七タなみの120万人 “87年SENDAI光のページェント”は、前年の問題点をひとつひとつ解決することから始めなければならなかった。しかし、実行委員のメンバー達にあるのは、1回だけの経験と若干のノウハウだけだった。 交通渋滞に関して言えば、警察側も、ページェントの成功そのものよりも、交通渋滞という問題を重視して、ページェントというお祭りに対しては手厳しかった。 交通渋滞の対策として、市内中心部の主要な道路に迂回看板を設置、交差点への警備員の配置、実行委員による巡回警備など、できる範囲で対処策をほどこした。また。交通指導隊や警察の協力、マスコミからの公共交通機関利用の呼び掛け、点灯時間の考慮を行い、前年の大きな問題であった交通渋滞は回避できた。 一方、資金面に関しては、前年を上回る資金不足に悩まされた。定禅寺通りの晩翠通りから西公園前まで、青葉通りの仙台駅前と距離を延長、さらに、「帰省客にも見せたい」どいう市民の声に応え、大みそかの12月31日まで延ばして点灯するなど、前年を上回る5,700万円の費用が必要であった。 しかし、企業に対する協賛金集めは前年を上回る難行を示した。「昨年は、協賛しなかったので今年はぜひ協力したい」という企業もあれば、協賛金ゼロや減少という所も少なくなかった。 そのような状況の中、実行委員は休みを返上して、毎週日曜日の朝11時から市内2ヵ所の大型デパート店の前で街頭募金を行った。寒さの中、6時間以上の街頭募金は確かに重労働ではあったが、100円玉を握り締めて駆け寄って来る子供達や「ガンバッテ下さいね。楽しみにしています」の市民の声に励まされ、たくさんの募金を集めることができた。金額としては、総資金額の約1割弱と予想をはるかに上回る市民の方々の協力を得ることができたことは、実行委員にとって大きな励みとなった。企業回り、街頭募金、開催期間中のパトロール、毎朝の清掃など、本職をなげうっての奮闘のかいがあってか開催期間中の総人出は120万人と七夕なみを記録した。 1年に1回夢を 小さな光を見て素直に美しいと感動したい。そんな願いを、仙台で生まれ、育ったみんなで・・・。小さな光、それは、人間が明日、そして、未来にたくさんの“希望という光”、その光が、いくつもいくつも集まり、美しいと感動したとき、私たち大人は、素直に笑顔を作りたいと思います。その笑顔が、私たちの子供たち、仙台の子供たち、そして、日本中、いや世界中の子供達への最高のプレゼントなのではないのでしょうか。 私たちは、そのプレゼントを、こう呼びたいのです。「スターライト・ファンタジー」「SENDAI光のページェント」1年に1回、夢を見させて下さい。私達と私違の子供たちのために・・・。 行政側との連携、事務局の設置、の協賛金集めなど、“88年SENDAI光のページェント”もいくつかの問題を抱えている。 7月下句、“88年SENDAI光のページェント実行委員会”が結成された。 |