「ふるさとづくり'89」掲載

桐工場建設によるふるさと振興をめざして
福島県柳津町 両沼西部森林組合
 “会津地方”と呼ばれる地域はおよそ3,300平方キロメートル、その中央部に位置し、「自虎隊」で馴染みの会津若松市より西へ約25キロメートル程にわが両沼西部森林組合があります。柳津町・三島町・金山町・昭和村を管内とするこれらの地域は、典型的な山村であり、過疎に悩み豪雪と闘う人々の暮らしがあります。3町1村併せて771.51平方キロメートルの広大な面積に、人口わずか16,000人程。その老齢化率は25%以上です。30年程前には35,000という人口を数えたことを思うと、なんとしてもこれ以上の過疎は食い止めたいとする願いは増すばかりです。
 昭和43年、50年と、2度の合併を経て現在に至る当組合にとって、その歩みと共に常に課題としてきたことは、地場産業の振興です。農林業の哀退の中で、労働力を受け入れる器を持たなければ、町村の零落はとどまることを知らず進行してしまいます。弱電あるいは縫製などの小規模工場の進出はあっても、低賃金であり、女子労働力の需要のみに限られるため、地域の特性を生かした産業おこしがなんとしても必要なわけです。


桐工場が始動

 そこで注目されたのが、“会津桐”です。その品質の良さは全国に知られ、首都圏、関西方面、新潟地方からの買付けに応じて、桐屋が農家から買った立木を伐採して丸太にして売るというルートで全国に出回っていた桐です。本来ならばこの桐を生かし、桐製品を作る工場群が出来ていてしかるべきところですが、残念ながら原材料を出荷するにとどまっていたことは、かえすがえすも残念なことでした。しかし、あきらめてはいられません。会津桐の中でも、特に品質の良い桐を生産するのが、当組合管内と隣接する西会津・山都なのです。しかし、昭和49年のオイルショック以降、桐材の価格は暴落、米国からの輸入による桐の大経本に押され、桐生産者はすっかり生気を失ってしまっていました。その現状を見るにつけ、再生への道は、地元で生産された桐を、より付加価値の高い製品として市場へ送り込むために、桐工場を建設するしかないとの思いを強くしたのです。
 桐工場を建設して地場産業を振興し、ふるさとに活気を取り戻すという決議を、昭和50年第2次合併の際、当組合の目標として歩み始めました。
1.桐生産農家が生産意欲を持てるよう、桐材料を少しでも高く買い上げること。
2.市場調査をして、付加価値の高い製品に的をしぼること。
3.ふるさと再生のため、できるだけ若者を採用し、地元に定着させること。
4.女子労働力の需要を増し、若者に結婚のチャンスを与えること。
5.老人が参加できる場を設けること。
以上の5点が計画のポイントです。計画は立てられたものの、工場立地、資金など、山積する諸問題の前に、組合のみの力では実現は程遠く、何とかして行政のカを借りることはできないものかと、たゆまぬ努力が続けられました。
 柳津町で林業構造改善事業があった際は、その事業として工場建設を取上げてもらえるよう働きかけましたが、柳津町は、前述の桐屋と呼ばれる桐丸太売買者が多い地域とあって業界の反対で挫析してしまいました。
 昭和55年、今度は三島町が山村林業構造改善事業の指定を受けた際、その事業の中で桐加工施設の設置を決定していただくことができました。もちろん、この決定を得るまでには、紆余曲折があったわけで、町議会との懇談会は10回以上を数えました。しかし、悲願とも言うべき我々の計画は、遂に行政の後押しを得るに至ったのです。
 その後、各方面の懇談会・審議会・視察等を積み重ねた結果、敷地・建物の規模・設備・機械など、工場の全容が決定されました。それによると、販売展示施設を含めて、24,000万円の投資で、当組合が事業主体となるには4,000万円余りのの自己負担金が必要となり、その他の運転資金として6,000万円が必要という結論が出ました。当時、当組合の出資金は2,600万円であり、とても事業主体にはなり得ず三島町長の特別の計らいにより、事業主体は三島町・経営は組合と決定され、昭和57年から2ヵ年計画で工場建設となりました。予算の都合から59年9月に遂に完成、同年10月より試作品作りとなりました。
 時宜を得たと申しましょうか、時あたかも福島県では「ふる里産業おこし運動」が開始され、わが桐工場はその第1号指定工場となったのです。指定を愛けた工場として、その創業のテープカットを県知事にお願いした折、知事から何か困り事はないかとのご質問があり、「工場は完成し、人材も確保しましたが、資金が乏しいのです」とおこたえ致しましたところ、ふる里林業振興資金として、1事業体5,000万円以内、1年据置き4年間均等返済、利率4.5%という願ってもない資金を作っていただくことが出来ました。さっそく5,000万円を借入れ、三島町より無利子の300万円と自己資金1,000万円を投入、創業することができました。
 いよいよ生産の段階に入り、次の課題は、最も付加価値の高い製品は何かでした。琴はどうだろうという提案には、その音色の難しさ、選木の難しさ故に、不可能という答えが出ました。次は箪笥です。昔から、会津地方には、娘が生まれたなら桐の苗木を3本植えよという言い伝えがあります。その1本で箪笥を作り、その1本で箪笥の中に入れる着物を買い、残りの1本で婚礼の費用を作れというのです。桐箪笥は嫁入り道具として、その価値は昔も今も変りありません。よし、箪笥を作り、残りの端材で小箱や工芸品を作ろうということになりました。
 次に技術著の問題です。人伝てに桐箪笥作りを修業した職人を見つけることもでき、若い頃箪笥作りを修業したという地元の大工も採用、箪笥作りの先進地新潟県加茂市から技術者2名、製材技術者1名、女子職員2名を採用、いよいよ操業開始です。若者の採用については町役場の協力を得て、毎年1,2名を採用し、職業訓練校木工科における2年間の研修を済ませてから工場に入り、先輩技術者による指導をさらに2,3年必要としての実践力とすることになりました。現代のような短絡的な考えがもてはやされる風潮の中でも、こうした長い修業期間を要する職人希望の若者が思いの外多いことには驚かされました。64年度からは、学芸品製作部門を新しく設置しようと計画中ですが、ここにはぜひ女子労働力を導入したいと考えています。


桐の花が咲く会津の里に活力が

 次の課題は製品の販売です。工場経営の収支については59年度に約400万・60年度に約600万、計1,000万円の赤字を計上しましたが、61年度からは若干の黒字となり、年々好転しており、当初の計画よりやや早いテンポで業績を伸ばしています。何分にも桐材はタンニンが多いため渋抜き、乾燥を充分にしなければ光沢のある桐材にはなりません。そのためには伐採は桐の成長期を避けて10月から5月までとし、伐採した丸太はそのままで1年、さらに製材して1年、戸外に立掛けて風雪にさらさなければなりません。最低3年、願わくば4,5年の期間をもってやっと使用できるのです。実に資金回転の遅い事業なのです。やっと製品化した商品は、展示館や展示会により宣伝に力を入れ、より多くの販売実績を上げつつあります。また、束京などの家具屋とのルートを開けつつあります。
 最後に、地場産業振興の大きなポイントである、原材料である桐生産についてもう一度触れてみたいと思います。前記の理由から生産意欲を失った各農家に、再び意欲をもって生産に取組んでもらえるよう、当組合では、県の林業試験場の指導のもと、育種にも努め栽培技術の研究にも着手しています。62年から始めた苗木生産は好評であり、既に多くの成果が得られています。量だけでなく、質の面から桐材の生育を心がけています。
 先ほども述べましたように、桐工場で働こうという若者が予想以上に存在するという事実から、安定した、働き甲斐のある職場さえあれば、若者も地元に残ろうとするし、親も子を残したいとすることがはっきりわかります。こうした若者をさらに定着させるためには職場を工夫して、男女共に工場で働くことにより、若者が交流を深め、嫁不足の解消へと結びつけることが必要となってきます。まさに、「花嫁に来たくなる町」「花嫁と共に生きる町」を目指さねばなりません。
 同時に、老齢化の進んだ地域にとってもう一つの重要な問題としての、老人の生き甲斐づくりを考えねばなりません。清浄な空気と雄大な自然に恵まれた当地の老人は健康で労働意欲も盛んです。桐の手入れや物作りといった作業の場を生み出し、老人による地域の活性化も実現していかねばなりません。
 長い年月と労苦の末に建設されたわが桐木工場、行く手にはまだまだ課題があります。しかし、私たちは、その出荷額を来年には1億3年後には3億にしようと、たゆみない努力を重ねています。幸いなことに、ふる里運動発祥の地、三島町には生活工芸館があり、スタッフに恵まれ、商品開発の研究が進んでいます。福島県のふる里産業おこし運動の第1号指定工場としての責任を果たしていくためにも、今後ますます精進せねばとの思いを深くしています。
 春には美しい桐の花が咲く会津の里が、桐箪笥の産地として全国にその名が広まる頃には、わがふる里は活力に満ちあふれるにちがいありません。