「ふるさとづくり'89」掲載

都市に本物の水辺再生を求めて!
神奈川県川崎市 二ヶ領用水の再生を考える市民の会
本当の水辺の時代を

 現在は“水辺の時代”である。全国各地の自治体では、いままでフタをしたり埋めたりして“邪魔物”扱いにしてきた水路や河川を、水辺再生事業の一環として“親水性”のある空間に整備することがひとつのブームになっている。これらの動きは、前年全国各地で水辺再生に取り組んできた市民、住民団体の営々たる努力によることが大きいのであるが、各自治体の工事のなかには、必ずしもそれらの市民、住民の声を十分に反映していない“親水”工事も多いのが実態である。水環境や生態系の理解や、これまでのコンクリート優先の施策への反省もなく、ブームの後追い的設計・工事ではますます水辺環境を悪化させるものとなってしまう。地域の快適環境(アメニティ)の軸ともなる水辺の再生はいかにあるべきか。そして市民はどのような役割を果たしていく必要があるのか等の問題が提起されているといえる。
 川崎では、現在の川崎をつくった大農業用水=二ヶ領用水の再生をめざして、3年前から市民の取り組みが開始されている。この活動について紹介してみたい。


二ヶ領用水は良米を産出

 まず、活動の対象となっている二ヶ領用水が川崎にとっていかなるものであるかを簡単に紹介し、論をすすめる前提としたい。
 二ヶ領用水は、今から390年前徳川家康が江戸に移った頃(慶長2年・1597年)に小泉次大夫によって開削着手された大農業用水である。二ヶ領用水は、現川崎市域が近世稲毛領と川崎領からなっており、この二つの領域を流れたことにより称された。多摩川を挟んで、東京側には同様に世田谷区と大田区を流れた六郷用水というものがあった(現在はわずかにその痕跡を残すのみ)。二ヶ領用水は、工事奉行の名にちなみ、また“次大夫堀”とも呼ばれる。
 工事は14年の歳月が費やされ、完成後は“稲毛・川崎二ヶ領用水組合”によって管理されてきた。この用水の完成により、多摩川の荒地であった稲毛、川崎は「稲毛米」とよばれる良米を産出する豊かな地帯となった。
 そして、時代が明治になると「工場招致を100年の町是とする」とした工都・川崎の建設にも、大小の工場で働く労働者の飲料水となり、また工業用水ともなって大きな役割をはたした。川崎が現在の多摩川に沿った細長い特異な市域になっているのも、二ヶ領用水に結ばれた水利組合の力が働いたことは、二ヶ領用水の流域と川崎市の市域が重なっていることからも分かる。
 しかし、拡大する工業と都市化によって農地面積は激減し、水利組合はその維持管理費の負担に苦しめられるようになった。そして昭和16年に、水利組合は川崎市に水利権と財産を譲り、昭和19年に解散してしまった。一方、川崎市は余剰水を工業用水に振り向けてきたが、家庭雑排水などの流入などにより水質が悪化し、昭和49年平間浄水場での取水は休止となった。


住民参加のマスタープランづくりは行政が拒否

 昭和57年灌漑面積減少を理由に農業用水が毎秒7.00トンが半分の3.50トン(これに工業用水分2.35トンを加えて合計5.85トン)に削減された水利権の再度の見直しが昭和60年に行われようとしてきた。水の流れない用水はもはや死を意味し、下水路となるしかない。しかも、溝漑面積はさらに減少していると思われ、二ヶ領用水を生かすには二ヶ領用水に新しい価値を生み出していくしかないと思われた。
 そこで、自分たちでやれることから二ヶ領用水を守り再生していこうと結成されたのが「二ヶ領用水の再生を考える市民の会」である。「市民の会」では、その組織原則として「行政に文句をいうだけでなく、自分たちでできることは自主的に実行していく」「他人に活動を強制せず、やるべきと思われることややりたいことは企画した人が責任を持って行う」「来るものは拒まず、去るものは追わず、楽しくやろう」等を掲げた。そして、川崎の市民の約80%以上の人々は他都市・地域から移り住んできた市民であることから、まず二ヶ領用水の存在と歴史またその価値を連続してPRしていくこと、目の前に迫っている二ヶ領用水の水利権見直しの時期にあたり、二ヶ領用水再生の前提に水量を守る運動を強力にすすめていくことにした。
 そして、二ヶ領用水の水利権をめぐる建設省との交渉において、水量確保に腐心する市当局を支援するために、(1)多摩川の清流化、(2)二ヶ領用水を再生していくため現行水利権を確保する、(3)二ヶ領用水の再生マスター・プランを市民と市当局が協力してつくる、の3点を求める議会講願を25,000名の署名をつけて行った。市民・市議会・市当局が一体となって、川崎の歴史的遺産である二ヶ領用水を守り、今日に生かしていこうというものである。
 この請願は、市議会の全会一致で採択され水利権確保への大きなカギになった(水利権問題は現在継続交渉中)。だが、この請願の委員会審議のなかで、さまざまな問題点が明らかにされ、市民参加による二ヶ領用水再生マスター・プランつくりは「行政で行う」として市当局によって拒否されてしまった。


トリ・ムシ・サカナのすめる水環境

 二ヶ領用水の水利権を守り、その再生を求める市議会請願は全会一致で採択された。しかし、その内容は、実質的には市民参加による二ヶ領用水再生マスター・プランつくりを否定するものであり、従来の河川の管理者の“治水第一”の枠を出ないものであった。ここで、私たちは市当局のいう“再生”と“市民参加”とのズレを自覚せざるを得なかった。“再生”の具体的中身、“市民参加”のあり方などについて、私たち自身の考えを持つ必要に迫られた。二ヶ領用水の再生をめざす請願が全会一致で採択されたことは、少なくとも総論における二ヶ領用水再生の必要性・重要性を市議会という正式な場で公に再確認することになったと思う。そこで次の問題は、その再生の中身=なにが二ヶ領用水の再生なのか、そしてそれはいかにして実現され、維持されていくのかということになった。私たち市民の会では、これまで単純に二ヶ領用水に水が流れみどりがあるというイメージを浮かべ、それは市民全般の人々が望んでいるものだと考えてきたが、あらためて再生の具体的イメージ(プランをつくる)を実現する方法、維持管理はだれがどうするのかなどの解答と、その内容を市民に伝え実現していく運動論が必要となってきた。
 そこで、2年計画で再生マスター・プラン学習会を連続して開催し、「本物の水辺再生3要件」をまとめた。その第1は、トリ・ムシ・サカナのすめる水質・水量・環境があること、第2は歴史を尊重し、周辺のまちづくりの軸になっていること、第3は環境を守る市民の自主的な活動が活発に行われていることである。そして、特に市民の自主的な水辺再生活動の取り組みが全ての前提であることを確認し合ってきた。


1年問に13のイベント

 この様な中で、昨年が二ヶ領用水開削に小泉次太夫が着手してちょうど390周年目にあたることから、1年をとおして二ヶ領用水の各地域でイベントを開催し、地域の市民にもっと二ヶ領用水に関心をもってもらい、再生へのステップにしていく目的をもって「二ヶ領用水開削390周年祭」を実行してきた。その内容は「歩く会」や「桃まつり」「桜まつり」「ホタルの会」「魚取り大会」「灯ろう流し」「映画会」など多種にわたったが、1年間に13のイベントを行い、最後に「水辺再生全国集会」でまとめることが出来た。この連続的なイベントを二ヶ領用水の沿線各地で開催したことによって、より多くの市民が二ヶ領用水を見学してくれる機会となった。そのことにより、18キロになる二ヶ領用水の沿線に、二ヶ領用水再生に取り組む市民が次々に出てくるようになってきた。


「専門家」「行政部門」主導でなく市民参加の「お祭り」

 私たち“市民の会”の二ヶ領用水再生の取り組みも、まだ3年にしかならない。この間にもいろいろと学ぶことや反省することが多くあった。だが、これまでの取り組みによって再生への気運つくりの「場」の形成と、水辺再生3要件の学習を行ってきた。これからは、これらを各地域で実践し定着させていくことが重要になってきている。
 そのためには、私たちがもっと二ヶ領用水の実態と歴史を知っていくことが必要である。市民の会では、二ヶ領用水の水質・水量調査をパック・テストなどを使って開始している。また、環境カルテつくりを行い、二ヶ領用水周辺の街づくりを考えていこうとしている。
 水辺再生への市民の自由で自主的なねばり強い取り組みは、市民自身が主体的に自分たちの街つくりを行うものとして実行されなければならないだろう。そのためには、この活動が有意義であるだけでなく、とても楽しくておもしろいものでなければならないと思う。二ヶ領用水の再生が一部の「専門家」「行政部門」によって作成・設計されるのでなく、多くの市民がワイワイと楽しみながら参加する「お祭り」として、市民が自らつくったものとしての誇りと思い出をつくる過程としていきたいものである。
 今、市民の会は地域に密着した組織作り(地域支部作り)と二ヶ領の調査、そして二ヶ領を活用したイベントの定着・発展をめざして第2期目の活動を行っている。