「ふるさとづくり'89」掲載

火剣山が鯉のぼりで埋まったぞ
静岡県菊川町 火剣山開発委員会
もういちど帰りたくなるふる里づくり

 どこまでも続く緑、また緑の日本一の大茶園、越すに越されぬ大井川の清流を真下に見る牧ノ原台地の西のふもとに、深むしのお茶の里・菊川町がある。そのお茶の町の最北端に富田と呼ぶ農山村の集落がある。戸数260戸、人口1,020人の山間の細長い集落は、延長6キロにも及び、狭い道路は交通の便が悪く、つい最近までは子供たちの通学や主婦の買い物などに大変苦労していた。
 小学校までの距離も遠く、雨の日も風の日も、朝6時半には集合して元気に登校していく。夏の朝の6時半は気持ちの良いものだが、冬ともなるとまだ薄暗く、ザクザクと霜柱を踏んでの登校はとてもきつい。それでも富田っ子は文句一ついわず、むしろこの地に生まれたことに誇りを持って勉強に励んできた。
 住民はお茶の生産で暮らしをたてているのどかな山村だが、時代の波は容赦なく押し寄せてきた。若者達は都会に憧れ、農業をおいた両親に任せて他の産業に就職したくてもバスも通らぬ交通事情ではそれもままならず、一戸、また一戸と故郷を離れていく人たちが増えてきた。住み慣れたふる里を捨てて町に出たあとは、無人の住み家が荒れるに任せ、文字通り故郷の廃家となった。
 なにか若者達に希望の持てる集落、農業を離れてもここから通勤できる集落、たとえ富田を離れても懐かしいふる里、もう一度帰りたいふる里、そんな愛されるふる里づくりの話が持ち上がったのは、昭和40年代の終わりであった。


富田住民の守護神として

 なんとか広い道路が欲しい、道路整備を早くしたい。それは住民の切実な願いであった。今日も涙ぐみつつ車窓から手を振って別れを惜しむ一家を、集落総出で見送った帰り道、いつかは自分にもそんな日が来るのかと誰もの胸が痛んだ。せめて子供たちには夢を与えようではないか。ふる里の素晴らしい思い出を与えようではないか、なにか出来ないだろうか。
 静かな農山村のこと、取り上げるほどの行事、催しもなかったが、春真っ盛りの4月中旬、火剣山のわらび祭りだけが富田住民の唯一の楽しみであった。町最高峰の火剣山は標高282メートル、北に南アルプス、南に遠州灘を望み、富田住民の守護神として祀られている。
 わらび祭りの日には、住民はもちろん他村に嫁いだ人、仕事で遠くに出た人もみんなふる里に帰り、お山に登って祭神に手を合わせ、久しぶりの友人、知人との再会に山桜の下、酒を酌み交わしたものである。歴史もあり、眺望も素晴らしい火剣山は、久しく眠ったままであるが、このままにしておく手はない。この祭りを再現し、盛大にして、子供たちにも祭りの一端を担ってもらったら、良い思い出もできるのではないか。それから多くの人にもこの地に来ていただけるよう観光開発の面も考え、地区の活性化を図っていったらどうか。人の目が向けられれば、公共事業も促進されるのではないか・・・。いろんな会合の場や野良話でこんな話が出るようになった。そして正式に地域振興対策委員会が開催されることになったのである。


でっかい住民の連帯感が

 検討会の結論は、まず火剣山を始め富田の史跡や史話を調べ、研究し、富田住民に知ってもらうと同時に、後世に語り継いでいこうということになった。集落内の史跡調査委員会が発足した。そして30回以上の会合や各地の視察を重ね、目的の第一段階として富田のあらゆる史跡などの調査を終了することが出来、小冊子「富田の史跡と史話伝説」の刊行をみた。小冊子は集落全戸に配布され、人々の関心を集めた。
 続いて調査委員会は、第二段階として56年「火剣山開発委員会」と改称し、本格的に火剣山の整備に乗り出すことになった。今までほとんど人手の入っていない火剣山は、周囲の草刈り、道づくりから始まって、案内標識等も必要になり、間伐の丸太を運び出し製材所で角材や板材にしてもらい、自分たちでカンナをかけ、ペンキを塗り、文字を書くなど、幾日も奉仕作業が続いた。また子供たちも祭りに参加させようと、小学生を対象にした子供御輿づくりが、一方で始められていた。この子供達の若い親たち、いわゆる青年層にも協力を依頼し、快諾を得た。
 若い人たちも山に入り、檜を切り倒して担ぎ出す。一日の仕事が終わったあと、茶工場の一隅で夜の更けるまで工夫を凝らしていた。若い母親達の婦人部では、御輿の行列を少しでも華やかにしようと、鯉のぼりの吹き流しを利用して、色艶やかな幟をつくった。大うちわもこしらえた。今まで通り一遍の挨拶だけの人も一緒になって作業をした。友情が生まれ、御輿、幟以上のでっかい住民の連帯感が育っていった。


毎年300本の桜を植える

 祭りは成功した。笛を吹き、太鼓を鳴らし、幟を担いだ子供たち、これを見守る大人たち。みんな大喜びだった。制作に、企画に苦労した人たちの満足げな顔が印象的だった。しかし、我々の力で出来る作業には限界がある。そこで、火剣山整備について町に再三の陳情の結果、住民の熱意が当局に伝わり、町でも積極的に火剣山の観光開発に乗り出すこととなった。
 町、そして県の暖かい援助のなかで、開発は急速に進んでいった。駐車場、参道の舗装、山頂の休憩舎、尾根伝いの遊歩道、さらにキャンプなどの多目的広場の大駐車場の増設と、瞬く間に火剣山は変身していった。
 開発委員会では、富田を桜の名所にもしようと、昭和54年から県さくらの会「新名所づくり」に採択していただき、毎年300本の苗木を火剣山を始め、集落内に植え続けてきた。夏草を刈り、喚起には水やりを欠かさず育てた桜が今、春ともなれば見事な花を咲かせ、訪れる人々を楽しませてくれる。


「鯉でてこい、来い」

 次に開発委員会の決定的な目玉事業となったのが、「鯉のぼり」である。昭和59年の秋のことである。町には全戸加入の婦人たちで組織された消費者協会があり、その会合で鯉のぼりの話題が持ち上がった。節句のお祝いにもらったが、もう子供も大きくなったし、あげる場所もない。こんな話を耳にした開発委員会では、そんなに眠っている鯉のぼりがあるなら、火剣山のてっぺんから山裾まで、鯉のぼりで埋め尽くそうと、とてつもなくでっかい構想が持ち上がり、協会役員に相談した結果、喜んで集め役を引き受けてくれた。早速町内全戸に寄贈を呼びかけたところ、昔懐かしい紙製のものや木綿のもの、全くの新品など、何と1,500匹余りの鯉のぼりが集まった。軽トラックに何度となく運ばれる鯉のぼり。委員会のメンバーは一瞬唖然としてしまったが、もうどうしても成功させなくてはならない。幾夜となく会合を重ね、揚げる方法、場所の選定、資材の検討、そして後片付けなど相談し、昭和60年3月、青年層を中心とした100人余りの住民の手によって、鯉のぼりは火剣山の空高く、春風をいっぱいに吸い込んで、勇壮に泳ぎ始めた。初めてみる、余りにも見事な鯉の群舞を、住民は今までの苦労も忘れて、家路につくのも忘れ、いつまでも見上げていたものである。
 この「鯉でてこい、来い!」の誘客作戦は大成功、早々と訪れる人々の度肝を抜いた。連日、新聞社やテレビ局の取材が続いた。その記事、ニュースを知って、近隣から遠方から訪れる人々は、一挙に膨れ上がった。そして4月の祭りの本番には、予想もしなかった3,000人を越える人たちで山頂は終日賑わった。満開の桜の下、前日から準備したわらび、ぜんまい、竹の子、しいたけ、ふき、うど等の山菜料理の振る舞いサービスも大忙しで、うれしい悲鳴を上げていた。鯉のぼりの乱舞を眺めつつ、子供御輿を応援しながら一献は格別であった。この鯉のぼりによって観光火剣山は定着した。鯉のぼりの火剣山のイメージは、みんなの心に焼き付いた。毎年祭りの前には町内はむろん、他町からも鯉のぼりが運び込まれている。これまで祭典の日にしか人の訪れがなかったが、初日の出を初っぱなに最近では四季を通じて麓まで車が上ってくる。農作業をしながら「ほい、また来たよ。きょうはお天気が良いもんで、大勢来るずらよ」と、語りながら車を迎える住民の顔は、我がことのように嬉しそうだ。富田の空はどこまでも澄んでいる。


緑の少年団も誕生

 この活動を初めて10年近く経過したが、振り返ってみて大変大きな成果をあげることが出来たと思っている。第1に青年層が立ち上がってくれたことだ。若い人たちは、火剣山の次は秋祭りもと、自分たちの手で屋台を作り上げ、子供たちにまた1つ夢を与えた。若い父兄たちは、青少年健全育成が叫ばれるなかで、子供たちの活動の場をつくるべきだという話が出て、火剣山の豊かな自然を生かしての緑の少年団が誕生した。この少年団は、集落の小・中学生を対象に緑と親しみ、緑を愛し、緑を守る少年を育てる目的で、昭和61年に結成された。団服もりりしい少年少女たちは、火剣山を中心に樹木の名札付け、小鳥の巣箱づくり、野鳥の観察、花壇の管理と、野外学習に励んでいる。
 山男は力持ち。富田の若者も力持ちばかり。綱引きに精を出し、59年から毎年綱引きの県大会に出場している。秋には当町の体育大会があるが、50年頃まではいつもしんがりで、「びりっけつの富田」と言われダメ「富田」であった。しかし、青年層の団結で盛り返し、58年からは堂々の総合6連覇だ。以前は選手だけがプログラムに会わせて会場に駆けつける状態だったが、委員会が活動を始めてからは、大会を前に練習をするまでになった。パン食いやボール蹴り競争の練習など考えられなかったことであるが、今ではこの練習も楽しいと、みんな言っている。
 世はまさに音楽の時代。火剣山を歌でアピールしようとの考えで、火剣慕情、火剣小唄のご当地ソングが委員会から発表された。なかでも火剣慕情は大ヒットしてテレビ、ラジオで全国放送され、今でも地元の有線放送から各家庭に流されている。


快適な環境づくりを集落一体となり

 遅れていた公共事業も、最近は驚くほどの促進をみるに至った。春の鯉のぼりでは、思いもかけぬ人出、車出で地元の警察署より規制を受けるほど大混雑した富田本線は、現状をつぶさにみた関係者の方々の努力により、幅員7メートル、歩道付の工事が着々と進んでいる。そして思いがけないご褒美を62年にいただいた。富田地区の中央に建設された農村公園である。良い子たちの夢一杯のブランコ、シーソー、すべり台が並び、隣のコートでは老人たちが元気にスティックを振り、明るい笑い声が絶えない。子供が遊び、老人が憩う富田農村公園は、本当の夢の広場である。
 これらの事業とあいまって、農業の基盤整備も順調に進んだ。特産のお茶を中心に団体営開拓パイロット事業、県営事業等と取り組み、70ヘクタール茶園造成、3つの茶農協の設立により生産、加工、流通の一体化と農業経営の安定が図られた。さらに、うまいお茶は土づくりからと地区の畜産農家と提携して、堆肥生産組合を設立、家畜排泄物を良質有機肥料に変えて土壌に還元し、地力を増強する反面、畜産公害を押さえ、快適な環境づくりを集落一体となって推進している。


心の底から「ありがとう」

 火剣山開発委員会のこれからの活動は、「四季の花咲くふる里づくり」をめざし、町民が豊かな自然と親しみながら心身を鍛え、楽しめる場にしていきたいと計画している。また住民の奉仕に対する収入源として、わらび、ぜんまい等の豊富な山菜、山芋、こんにゃく、そば等の当地ならではの特産品の開発も急務だ。そして健全な宿泊施設等もできないものかと検討している。
 農村公園のベンチでゲートボールを一休みの老婦が言った。「わしがまだ娘のときだ。富田に嫁入りすると決まったらな、みんなが言うんじゃ。お前、富田って知ってるか、富田というところはな、火吹き竹の穴で覗くほどしか空が見えないとこじゃ。そう言って山ん中じゃと馬鹿にされたもんだ。でも変わったな、今日も観光バスが並んで入ってきたヨ・・・」。こんな話をするおばあさんの顔は、誇らしげに輝いていた。
 とかくせちがらい今日この頃、公園の病害虫の防除等、黙々と奉仕活動を続ける住民に、心の底で「ありがとう」と叫ぶとともに、長い間の町、県などあらゆる関係機関の温かいご指導、ご援助に心より感謝している。