「ふるさとづくり'90」掲載
入賞

“生きがいとやすらぎの里”ふるさとづくりの記録
福井県上中町 上中町大鳥羽地区
5年後の現実をにらんで

「昨夜はおそくまで会館に灯がついていたのう」「ああ、毎日夜あかしじゃ」「ご苦労やなあ」ムラの人たちは、顔をあわせる度にこれが挨拶がわりになる。
 大鳥羽は今、区の第5次振興5ヵ年計画の策定にとりくんでいる。これは5年毎に訪れてくるムラをあげての大事業である。
 とくに、今回は来るべき21世紀へのステップでもあるだけに、その策定には過去10年間の歩みを再検討し、洞察力と創造力を結集する必要がある。

1.21世紀には大鳥羽の老令化率は15パーセント近くなる。それに対して20歳代は比較的少ない。この人口の波のうねりの上に“安心して老いを迎えることの出来るやすらぎの里大鳥羽”をどう創り出していくか。
2.若狭地方は歴史、文化、生活様式すべてが京都風であり、教育、就職、婚姻等も近畿圏中心に行われる。農村も大きく変貌し、若者の心も都会へとゆれ動く。今、県が上中町に造成中の若狭工業団地は平成4年度から稼動する。これが、若者がふるさとに定着し大鳥羽の活力となり得るか。
3.大鳥羽は若狭地方のほぼ中央にあり、JR小浜線大鳥羽駅がある。82世帯、人口317人、中に町営住宅、国立少年自然の家の寄宿舎もある。これまでの基幹産業は農業であるが、第1次圃場整備によって完成した水田の大半は、他集落の担い手農家に委託し、残りの約15ヘクタールを大鳥羽の兼業農家30戸で耕作している。現在圃場再警備事業を実施中であるが、これが区民の生活基盤にどのように連動していくか。
4.都市化、混在化、そして技術革新によって大鳥羽の生活環境も徐々に変化していく。鳥羽富士を背に、鳥羽川の流れを前にしたふるさと大鳥羽の美しい風景は、我々の祖先が守り育ててきた大切な財産である。この景観をより美しいものにして次の世代に伝えていく、そのためのゆるやかな住民協定的なものを考えていく必要がある。


ニューリーダーのよびかけ

 ふりかえってみると、わが大鳥羽の村づくりの歴史は昭和30年代にさかのぼる。終戦後の農村生活の大きな変化に伴って、古い地域共同体である集落のあり方についても民主化の動きが現れてきた。
 昭和38年、上中町は公明選挙運動のモデル地区としての指定を受けた。次代を担う中堅青年層を対象に、自治大学が開設され当時の国家公安委員の坂西志保氏、アメリカ大使館ファーズム公使等多くの中央講師から、個人の尊厳、住民自治等民主社会の基本理念について実に240時間の教育を受けた。大きな感銘を受けたニューリーダー達は、日常生活の場である集落において、これを実現していく先頭に立たねばと決意を新たにしたのである。
 しかし、わがムラ大鳥羽をみる時、理想と現実のへだたりはあまりに大きい。問題を的確に捉えるために実態調査を行ったが、その結果、次のような問題が表面化してきた。

1.新しい時代にふさわしい集落のビジョンが確立されていない。
2.古い階級支配が形を変えながら温存されている。
3.個人の尊重よりも全体優位の意識が強い。
4.区民一人ひとりの意志表示の機会が少なく、そのために集落運営への関心が薄い。
5.集落の経費が無計画に使われている。

 これらの問題をどう解決していくか。自分たちの努力はもとより、外部からの指導力も導入しなければと、先ず市政会館に新生活運動協会を尋ね、今後の指導を依頼する。これが新生活運動とのかかわりのはじまりである。
 また、県の貯蓄推進運動のモデル地区の指定も受けた。この貯蓄運動が目指すわが家の長期生活設計の樹立――それはまた集落のビジョンづくりとも共通するものがあり、ムラの人たちの意識改革にも役立ったと考える。
 当時は地域社会の崩壊、社会秩序の混乱等から青少年問題が大きな社会問題になり、文部省は家庭教育学級の開設を奨励する。これを受けて、上中町は各集落へ開設希望をよびかけ、これ幸いと真先に申し出た。
 けれど、家庭教育学級なんて堅苦しいことはごめんだなあ…という声が出てきた。そこで、家庭教育のねらいを“子どもも大人ものびのび、すくすく育つ村にしよう”「みんなで楽しむ・みんなであそぶ・みんなで話す・みんなで考える・みんなで力を出す」とした。
 およそ文部省の家庭教育学級開設の趣旨からは想像も及ばないかけはなれたものであるが、こうした多くの動きが渾然一体となって大鳥羽区が動き出す要因になったと思う。


新しい村づくりをめどして

 地域が前進しはじめた中で、新しい村づくりの指標、県体的な実践計画を成文化していくのである。
〈新しい村づくり指標〉
1.自治意識の高揚に努め、地域発展のためにビジョンを確立する。
2.個人の意志の尊重と集落自治の民主化と近代化を図る。
3.快適な生活環境を整備する。
〈指標実現のための具体的計画〉
1.大鳥羽区のビジョンを制定し、区の未来像を明確にして10ヵ年の構想を描きながら5ヵ年毎の振興計画を策定する、
2.集落自治組織の改革――区民の集落自治への関心を高め、実権者意識を創り出すために集落の組織を機能的に分散して新しい組織をつくる。
3.グループ活動を育成――住民の意見をどうして汲み上げて集落運営に反映させていくか。住民の間には、話し合いや自分の意見を自由に発言する姿勢が育っていないため、個人の意志表示の機会をつくり、それぞれの智恵、エネルギーを地域へ住ぎこむことが出来るように、集落を横割にしたグループを編成する。

 こうした基本的な構えが承認され第1次の振興計画に着手するまで5ヵ年の歳月が必要だった。とかく地域は事なかれ主義的で現状維持の一面が強い。個人が対立し感情問題になる。会議は何回も何回も物別れになった。議論が沸騰し、とうとう夜が明けてしまったこともある。
 それを乗り切れたのは、これをやりとげねばムラの人びとの幸せも、地域の発展もないとの信念と、決意に燃えたリーダー達の堅い団結の上に、早く実現せねばと願いながらも一人ひとりの合意が得られるまで充分時間をかけたこと。
 また、グループづくりは、親たちの最も関心の強い子供を中心に、夫婦で参加するグループにした。幼児・小学生をもつ親たち…「松葉グループ」、中・高学生の親たち…「桜グループ」、青年をもつ親たち…「共笑いグループ」、青年たちの「ファイトグループ」、老人層の「これから会」…このグループのつながりは強い。話しあいも活発であり、さらに子供の幸せは地域のあり方に関連が深いことから、次第に新しい村づくりの実現に積極的姿勢をとったことも大きな推進力であった。
 このグループは、学習の場、地域づくりの場として定着していき、自主学級前には家庭教育学級と20数年間連動しながら今日に至っている。


村づくりはタブーを破ることから始まった

 第1次の区振興計画の中に、「神社境内中央の舞堂を移転し、子供の広場を造成し、新しく拝殿の改築」をあげた。それは、大人も子どもも一緒になって集落の運動会をやろうじゃないかという話が出てきたからである。けれど広場がない、神社の境内でどうかと考えたが、中央にある舞堂がじゃまになる、舞堂は老朽化しており移転して改築したらという意見が出たが老人たちが承知しない。舞堂を動かしたら神罰があたる、雷が落ちて火事になるといって一歩も譲らない。青年や子供の親たちが、移転してより立派な舞堂を建てればいいのではとすすめても頑としてきかない。何回もの提案・話しあいを積み重ねて、ようやく振興計画にのせることが出来た。整備されて広くなった境内での運動会で、球運びで1等賞をもらったお婆さんが大喜びして、いつか神罰説も吹きとんでしまった。その運動会も今年で20回を数える。
 第2次区振興計画を策定するのと同時に、上中町は第1次総合振興計画――みどりとゆとりの創造を――策定しはじめたので、これとの調整をはかりながら計画を立てた。この中での大きな事業は、墓地公園造成事業を昭和60年度と定め、造成資金の積立、これに関連して埋葬制を廃止するために、葬祭近代化特別委員会を設置することであった。
 大鳥羽区は死者を埋葬にする。葬儀のある度に墓地への埋葬が問題になる。とくに同じ家で引き続いて死者が出た場合、狭い埋葬地では困り果てる。なんとかしなければと誰もが考えながらムラの協議議題には上らない。
 言い出した者にはたたりがある、1年以内に家族の誰かが死亡する等といわれ、誰もがしりごみする。委員など絶対に引き受けるなと家族が牽制する。
 けれど、切実な問題であり、いつの日か勇気を出して解決に向かって行動を起こさねばと、第2次振興計画でとりあげた。
 人びとの信仰に深く結びついた宗教的慣習であるために、一人ひとりが心から納得し迷うことなく実施出来るようにと、充分時間をとり、昭和60年度をメドに葬祭近代化委員会を設置した。


第3次・第4次振興5ヵ年計画

 集落機能の活性化を図りつつ、村づくりを推進してきたが、生活の質の向上を図るために“ゆとりと生きがいの里づくり”を指標に第3次振興5ヵ年計画を立てる。
@大鳥羽会館(鳥羽地区児童館)の建設
 集落コミュニティの場としての会館の建設を望む声が高まり、計画に組み入れたところ、上中町が鳥羽地区住民会議にはかって大鳥羽に児童館を建設することになった。
 そこで、協議に協議を重ねて会館は児童館に併設することにし、昭和57年6月、建設準備委員会を設置。用地の確保、建物の規模、財源の調達方法等について検討する。翌年6月、町の予算が決定したので、早速建設委員会を結成。総工費6800万円をかけて、昭和58年12月完成した。わが家にいる時間と会館にいる時間とどちらが長いかな等と笑い話になるほど、いこいの場、話しあいの場、学習の場として人びとに親しまれる会館が完成したのであ
る。
A墓地公園の建設
 昭和60年度には墓地公園を完成しようと造成目標をたてたが、実現は容易ではない。そこで葬祭近代化特別委員会を一歩前進させて墓地公園造成準備委員会にきりかえる。
 大鳥羽区のこれまでの振興計画をふまえながら、物中心の時代から心の時代への転換を目指して「快適環境の創出−心安らぐ里づくり」をテーマに、第4次振興5ヵ年計画を策定する。

@光法山公園の造成
 共同埋葬墓地を改装して美しい公園にしようと、葬祭近代化委員会を設置したのは昭和49年であった。先祖代々の霊が眠る埋葬地を新しくつくりかえていくことには、誰もがその必要性は痛感しながらも心理的にはおそれがあり、迷いがあった。話しあいを積み重ね、各地の墓地の見学、合同法要等も施行し、慎重に慎重を期した。そして、昭和60年、年の瀬もおしせまった12月、ようやく完成をみたのである。
 総工事費2700万円、敷地面積4250平方メートル。個人墓地70基、霊園塚五輪塔、石灯龍、水子地蔵、六地蔵、これに隣接してゲートボールコート、児童の遊具を備えたいこいの場を併設した。
 かつての竹薮の陰の暗い雑然とした墓地からは想像も及ばない整然とした明るい公園となった。新しく整備された道路の両側には上中町の町花あじさいと、大鳥羽区のシンボルとして杏の木を植えた。美しいピンクの花が咲くころ、黄色い実が熟れるころには、蝶が舞い小鳥がとんでくることであろう。思えば11年の長い間ひたすらこの日を待ち望んでいたムラの人達である。
 昭和60年11月30日。雲低くたれこめた初冬の空の下、光法山公園、大鳥羽霊園の記念碑除幕式に参列した区民は、先祖の霊よ安らかにと感激の熱い涙にむせんだのである。
A弥生文化の里−伝承行事の記録
 大鳥羽の里の歴史は古く弥生時代に招かれた埋蔵文化財や遺跡が多い。また、伝承行事も多いが、時の流れと共に少しづつ変形していき、時には消滅のおそれもある。これらの遺産を後世に伝えていくことは現代に生きる私たちの務めであり誇りでもある。
 そこで、第4次振興計画において集録することとし、昭和62年1月「弥生文化の里」を完成することが出来た。
 古老をはじめ有識者等、多く人びとの協力によって記録することが出来たがまだまだ不充分である。今後、伝承行事を行う度毎に修正を加え、将来大鳥羽区のふるさと誌を編集する際の資料としたい。
B無人駅をサービスセンターに
 昭和47年、旧国鉄の合理化によって大鳥羽駅が無人化されることになった。大鳥羽では区民集会を開き、町とも緊密な連絡をとりながら、大鳥羽駅を守る会を結成した。
 そして、国鉄とも精力的に話しあって住民の利便と安全を確保する。駅舎及び施設を地域の人たちに無償で開放する等、7項目の要望や条件を出して無人化を受諾した。鳥羽各の各地区から運営費を拠出して駅舎をサービスセンターとして文化活動の拠点とした。
 駅の機能の他に、ふれあいの場、趣味活動の場として、さらに文化団体の事務所として活用され多くの住民から親しまれた。
 けれど、大正7年に建てられた駅舎は老朽が激しくなった。そこで、町とも協議の末、農村環境センターとして改築。近代化されたこの施設が、地区の人びとをつなぐ絆となり文化活動の新しい拠点となることを期待したい。


あとがき

 20数年間、ふるさと大鳥羽の明日に夢と期待をかけて進めてきた構想の、ほとんどは実現することが出来た。思えば長い長いみちのりであったが、今、ふりかえってみるとそれを可能にしたいくつかの要因があげられる。

1.住民自治、主権在民の新しい地域創り運動の、基本的な理念に徹した優れたリーダー達がいたこと。そして、運動を進めていくプロセスで次々と新しいリーダーが育っていった。
2.多彩なグループがあり、一人ひとりの英知がふるさと創り運動に充分反映されるしくみをつくったこと。事業の執行には合意を得るための時間を惜しみなくとった。
3.自主学級の継続開設、昭和40年代のはじめに開設した家庭教育学級を自主学級として予算化し、今日まで学習の場ふるさとづくり研究の場として位置づけている。
4.事業の推進の場合は必ず委員会を構成し、適材適所、より多くの区民が役割分担をするよう位置づけてきた。
5.大鳥羽は伝承行事が非常に多い。それを継承する主役は子供であり、青年である。壮年層は資金及び施設づくり、そして指導役は老入居が引き受ける。囃子方、舞方、それをきびしくみつめる指導方。そして、限りない声援をおくるムラビトたち…この一体感の中から集落の新しい連帯感が生まれてくる。
 古きものの伝承、新しい明日への雄飛。この二つを支えにして、わがふるさと大鳥羽は21世紀にむけてたくましく歩みつづけていくのである。