「ふるさとづくり'90」掲載 |
世界一のみなとまちを目指して |
宮城県気仙沼市 気仙沼市民フォーラムを進める会 |
「海の道づくり」からの船出 宮城県気仙沼市は、県の北東端に位置している人口6万7000人弱の、県内では中規模の町です。古くから世界の四大漁場のひとつとされる三陸沖漁場を目の前にして、漁業を中心として生きてきた港町です。 しかし、近年の日本漁業は海域規制や空輸される輸入水産物の急増、漁場の劣化などによってその将来を脅かされており、当地域といえどもその例外ではありません。 単一の、しかも漁業という産業に市域経済の8割が依存しているまち、高速交通体系からははずれ、平坦地も工業集積も非常に少ないまち。 若者は自らの可能性を東京・仙台に求めて流出し、農業・林業のみならず、基幹産業である漁業にも後継者問題が暗い影を落とし始めています。 しかし、このまちでは多くのそして重層的なまちづくり運動が10年以上にも渡って根強く続けられ、その活動の歴史とポテンシャルは多くの方々から高い評価を受けています。中でも2年前から始まった「世界一のみなとまちをつくろう」という運動は、その出発点である「海の道づくり」、に行政当局がふるさと創生資金1億円を振り向けることを決定したことから、今後多岐に渡る動きに展開することが期待されています。 これまでの市民活動の歴史を俯瞰し、簡明に位置づけることで、これからの地域イメージを描き出してみたいと思います。 第T期(昭和53〜58年)市民フォーラムの草創まで (社)気仙沼青年会議所が、社会開発委員会を中心として地域の在り方を問い直し、萩原茂裕氏などを招いてマスタープランの作成を始めました。この計画自体は細部まで検討されたものではありませんでしたが、地元新聞紙上に発表されたことから、当時、市の若手職員有志20名程で開いていた勉強会会員の眼にとまるところとなり、相互の交流に発展しました。 JCと市職員の交流というと他にもありそうですが、法政大学教授の田村明氏によれば余り見当たらないケースといいます。この理由はいろいろ考えられますが、何といってもこの頃のまちにおける地域経済を取り巻く環境の激変、200海里規制、オイルショックによる灯油の高騰、そして魚価安という漁業の三重苦と、それによる倒産劇の続出が大きな要因だったといえます。 連日報道される漁業者、関連業者の倒産、これにより厳しさを増す経済活動、まちはこのままでいいのか、これから一体どうなるのか。企業経営者の2世、市の若手職員という立場の違いを越えて、広く多くの市民とともにまちの将来を考えようという広場「市民フォーラム」が求められ誕生したのは昭和58年暮れの12月10日のことでした。 第U期(昭和59〜60年)市民フォーラムから全国シンポジウムヘ フォーラムは1月から12月まで月1回のペースで、漁業関係者、商業者、主婦、教員、会社員など150余名の参加によって開かれました。 テーマも第1回は「行政改革」、第2回は「地域経済の現況」を取り上げ、3〜5回は「水産業(漁撈・流通・加工)、第6回は「商業」、第7回は「観光」、8回目は「農林業」というように、広く産業全般の在り方を見直しました。この後、法政大学の清成忠男氏を迎えての「気仙沼振興の方途」、同・田村明氏と隣接する5市町村の首長による「近隣市町村の現況と展望」、日本経済新聞社編集委員五十嵐冨英氏(故人)による「地方の時代この一年を振り返って」と回を重ね、地域の最も大きな課題は、水産業のリストラクチュアリング(再構築)と、それを観光業の発展そして生活文化の総合的な向上にどう結び付けていくかにあることが明らかになりました。 そしてこのフォーラムは、これまで同じまちに住みながら全く知らなかった人達が出会い、新たに交流を始めるきっかけとなり、企業者にとっては発想とビジネスチャンスを受け取る場ともなりました。 また、まちのことは行政に、経済のことは各業種団体に任せておけばいいというこれまでの意識を、住民は地域に対し何をなすべきかという問いに変える、大きな役割を果たしたのです。そして、こうして1年間続けられたフォーラムは、学者、マスコミ関係者、各地の運動者などとの幅広いネットワークと多くの知識をもたらしました。この蓄積のうえに構想されたのが「全国水産地域シンポジウム」でした。 フォーラムの第3〜5回、そして他の回にも水産、漁業の問題は論議されましたが、それで結論が出た訳ではありません。また、当地域のみならず、日本の各水産地域はどこも同じような状況にあるということも、河北新報社の特集「病める海」などにより明らかになっていました。そして漁業、水産業の問題は、学会活動か業界による政治的な運動としてしか扱われておらず、地域の住民がそのことについて考え、発言し、行動するという場は全くありませんでした。 これらの状況を総合し、分析する中から全国各地の水産・沿岸地域とそこに住む住民が、互いの現状と課題を水産の在り方を話し、交換し、交流する場としての全国シンポを開けないだろうか、是非開いてみたいという想いがまとまり、この企画は練られました。 フォーラムに集まった人びとのみならず、業界・行政へと輪は拡がり、実行委員会を構成した団体は53、協賛団体は28にのぼりました。 開催まで開かれた会議は大小合わせて百数十回に及び、推進と協力に当たった人は400名を超えました。また、全国を7ブロックに分けてのキャラバン隊(PRと調査)の派遣「マリンスポーツフェスティバル」「海の歌謡祭」「映画祭」「クッキングセミナー」「写真展」各種講演会などのプレイベントなども十分に行われました。 昭和60年9月12〜13日に開かれた「全国水産地域シンポジウム」会場には、北は稚内市、南は沖縄県伊良部町までの、文字どおり全国からの参加者1000名と、市民700名(市民約100名にひとり)が集まり、水産業と地域再生のコンセプトをめぐって熱い報告と討論が繰り広げられました。この詳細は『21世紀へ向けて、海・魚・暮らし』(ぎょうせい刊)という報告書に譲りますが、先の五十嵐冨英氏からは、「地域が自らの苦境に屈することなく、その特性を深く掘り下げ、自らの力によって立ち上がった」ことが成功の理由だったという言葉、そして国土庁計画課長の糠谷真平氏からは「気仙沼のシンポジウム、その内容と住民の熱意から“定住”という四全総の基本テーマをつかんだ」という高い評価をいただきました。 第V期(昭和60年〜61年)シンポから気仙沼21ヘ シンポジウムは集まった人数、そして多様さ、会議の内容など数々の面で大成功に終わりました。そして、なによりも大きかったのは催しとしての成功よりも、「やったじゃないか、やればできる」という満足感と、シンポに集められた力と地域への想いを一過性のものにしてはならない、水産・漁業の問題のみならず、まちと地域全体をより良いものにするための新たな動きを作り出そうという声が生まれてきたことでした。何度も何度も会合がもたれました。そして明くる3月、シンポジウムの報告書がまとまったのと同時に「まちづくり市民集団気仙沼21」が設立されたのです。この21の呼び掛け文には以下のように書かれています。「今こそ私達この地に住む一人ひとりが、まちを愛し、まちを再生させるために立ち上がろうではありませんか。多くの人が集まり、その知恵と力を出し合い、つなぎ合わせて『住んでいることが誇りとなる気仙沼』をつくっていきたいと思います」。こうして昭和59年、JCと市の職員各々5名によって始まったフォーラムは全国シンポを経て、より広がりをもった運動に発展したのです。 21はいろいろな行動を試みました。まず最初に手掛けたのは「5・5あんばはん」というイベントでした。時代の中で埋もれつつあった春の野駆け行事を5月5日、子供の日とゴーゴーという言葉にかけあわせて、まちの守護山である安波山一帯で開催しました。大声大会、ビール早飲み大会、ふもとから山頂までの早駆け競走などを展開したのです。例年ですと100名位の登山者しかない山が当日5000人を超す人また人で埋まりました。「山が沈む」という冗談が飛び出した程でした。 次には、魚のまちとしての特性、そして魚に合まれるEPAやDHAの効用に着目し、「魚食健康都市宣言」を提案し、進んでいた魚離れに警鐘を鳴らすとともに、魚食文化を継承することの大切さを訴えました。また、市内のまちづくりに関係する13の団体に呼びかけて「まちづくり協議会」を結成し、相互の意見調整や海・風土(シーフード)フェスティバルを実施するなど幅広い活動を続けています。 第W期(昭和61年11月〜現在)世界一のみなとまちを目指して こうして各種のイベントや学習を通して裾野が広がってきたとき「石山修武という建築家が近く仙台を訪れる。会ってみたら」という連絡が入りました。昭和61年11月20日、石山氏はスライドを使ってこれまで関わってきた伊豆・松崎町のこと、全国でまちづくりがブームになり、まちづくり水戸黄門説ともいうマイナス面が表われてきていることを淡々と述べました。この人は面白いと直感し、酒を交わして話をしたところ「資料を送って下さい」とのこと。早速これまでの活動経過をおおきなダンボール箱に詰め込んで送りました。3日後、「熱心な活動の様子良く分かりました。僕にも何かできると感じました。私の役割をずばり教えて下さい」という力強い葉書が届き、石山氏の気仙沼通いが始まりました。 一線の建築家としてアジア、アメリカ、ヨーロッパと忙しく飛び回る中、毎月必ず1〜3日の時間を創りだして、それは続きました。そして半年、石山氏は三つのことを発見しました。 ひとつ目は、これまでのフォーラムやシンポジウムの蓄積、そして行政や業界の各種計画がたくさんあるのに、何ひとつとして具体的な形になったものがない。遠大なプランを100作るよりも今日からすぐに取りかかれるものが必要だということ。 ふたつ目はまちに顔がない、人は魅力的なのにまちは雑然としている。これまでの市民のつながりをもっと生かして具体的なまちづくりができないだろうかということ。 三つ目は気仙沼は確かに田舎だ、そして漁業全般の状況は厳しい。しかし鮪漁業については世界一といわれる船団150隻と、5000人の優秀な漁船員、生産設備と関連技術を有している。そしてパリやニューヨークという大都市ではなく、人びとが本当に生きている世界のみなとまち60ヵ所と日常的につながっている、いわば田舎の国際性に富んだまちだということでした。 こうして月1度の訪問、そして多くの市民と会い、地域全体をくまなく回ることからまとめられたのが、「海のみちづくり、世界一のみなとまちをつくろう」という、昭和62年10月30日の提案でした。 内容は、まず気仙沼の象徴であり誇りでもある漁船団、これらが出漁する岸壁800メートル一帯に緑を植え、周辺を整備して「気仙沼の顔」、漁船員家族、市民、観光客も憩える空間をつくる。植樹は市民総出で行い「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」というかつての共同体意識、まちづくりの気持ちを掘り起こし高める。これを初発点として、この後背地に水産と観光を一体化するための、屋台仕様のワールドシーフードエリアや、景観とマッチしたホテル群を整備する。地域の随所にお金のかからない、しかし特色のある施設を配し、まち全体を5年間で「周遊型海の博物館」にしてはどうだろうというものてした。 提案は熱い共感と多くの支持を呼びました。市民が長い間、強く求めていた市街地の再整備、そして水産と観光の一体化、地域全体を包括した振興策が明確に、かつ手の届くものとして示されていたからです。そしてどちらかといえば生産=経済一辺倒だったさかなのまちを生活と文化、そしてデザインの視点から見直した提案だったからです。 年が明けて2月、この「海の道」を具体化するための第一歩として、市民の貯金(募金とか寄付ではなく)箱をつくろうという案がまとまりました。全長4.3メートルの大鮪のうえに恵比寿様が乗っているという、みなとまちにぴったりのデザインが考えられ、世界一大きい貯金箱として、“第3回5・5あんばはんの日”に1000人のひとが集まり、お披露目式が挙行されました。 また、この4月母校の早大教授となった石山氏は、建築学科の学生200名に「海の道」の製作課題を出し、この内優れた50点の展覧会が8月に開かれ、12月には石山氏本人によるより精緻な計画も提示されました。 こうした市民の大きな動きは、今年4月に入ってのふるさと創生資金の活用を話し合う住民懇談会にも反映され、ふるさと創生事業には「海の道づくり」が決定されたのです。先に設置された「世界一の貯金箱」も、今年の5月5日間腹式が行われ、紙弊、硬貨が2万枚、金額にして50万円に達しており、全額市に寄付されました。市民の熱い想いは貯金箱に伝わり、耳を近づけると「ドクン、ドクン」とまちづくりの心臓としての鼓動をたてているようです。 カギを握る市民の選択 しかし、石山氏が気仙沼に通い始めて早3年、第1回の提案からも2年弱を経ています。また、当然のことですが行政との摩擦やあつれきが生まれたこともありました。ローカルガバメントとして地域経営に携わる行政には、住民のプランと声はプライドを傷つけるものとして映りもしたでしょうし、国・県との狭間で苦慮した部分も多かったであろうと思われます。しかし、この行政との摩擦の期間はこれからの運動を進めるうえで不可欠の時間だったといえます。なぜなら、この時間は行政のスタイルと在り方を市民が学ぶ大きな機会であり、これまで相互に遠ざけあってきた悪弊を変え、信頼に発展させるための舞台でもあったからです。 まだまだいろいろな困難は待ちうけていることでしょう。しかし、住民の地域を思う気持ちと声の拡がり、そしてそれを十全に受けとめる行政、この両者が一体となって進めれば、「海の道づくり」から始まり、より大きな目標、田舎の国際性を発揮しての世界一のみなとまち、大都市では不可能な住民一人ひとりの声が生かされるまち、生産と生活、そして自然の共存する素晴らしいまちをつくり出せるものと思っています。 |