「ふるさとづくり'90」掲載

鯛のまちの新しい光
千葉県天津小湊町 天津町街路灯協会
集団、芽ばえる

 東京から特急電車で2時間、房総半島の東南端にある小さな観光と漁業の町、天津小湊。過疎に悩む人口9000人弱の町である。
 日蓮聖人生誕の地、鯛の浦、誕生寺、清澄寺等の豊富な観光資源、たちならぶホテル、民宿群、更に3ヵ所の漁港。小規模な水産加工場。海岸沿いを走る国道を中心に商店、住宅がある。
 人口は、昭和32年の1万3000人余りをピークに年々漸減傾向にある。その後の4000人余りの人口減少は、おのずから地場産業の後継者問題や地域経済活動の低迷等と、影響は様々な形で現れ、町全体の活気は年を増すごとに湿りがちになっていた。
〈暗雲〉
「このままで良いのか」「何かが足りない」「若者を都会から戻そうではないか」「現代にマッチした観光地なのだろうか」等々、あちらこちらの街角で聞かれた。つまり、町の人達の心の支えや、誇りとする大きなトータルなものに欠けている様に思われたのである。「点」的な資源は豊富であっても、それらを結ぶ「線」がない。まちなみに一体性がないため、町民の心はバラつき、当然、心からの一体性のある「誇り」が持てていなかった。
〈雲間から〉
 こうした折、町内の小さな酒場の片すみで30から40代の約11人の男達が、何やら語り合っていた。昭和61年夏の夜だ。古くなった街路灯を建て替え、まちなみを一新し、子供たちが誇りにできるまちづくりの第一歩にしようという話であった。「目的は…」「資金は…」「方法は…」等々意見が交わされた。
 「将来のまちづくり」「誇りづくり」、それはかつてない方法で建設しなければならない。そのためには住民の大きな理解が必要。住民の理解を求めるには、リーダー自らに自信と勇気をもたせ、パワーを結集することが必要だ!」どうやら一応の結論がでたようである。夜もすっかり更けた頃、11名は酒場から散っていった。自営業の社員数名を含む町内の様々な職種のボランティアの人達であった。
〈朝日の前〉
「大がかりな講演会があるらしい」「街路灯を造るらしい」の声が、数か月後にあちらこちらから聞こえる様になってさた。
 この頃は、以前の酒場で“11人”の姿は見ることはできなかった。なぜならば、彼らは既に分散して、準備におおわらわだったからである。街路灯の完成を目的とし、その前段に、かつてない方法での講演会を実施し、住民意識の高揚を図り、同時にボランティアの結集を図るという二段戦術を敷き、1年後に講演会、2年後に街路灯への展開をみせることとなるのであった。


住民パワーの結集に向けて

 昭和62年9月29日。午前4時。心配された天候も澄みきった空に星座の輝きを見ることができた。町内のとある大きな倉庫の前に約20名余りの人達が集まってきた。
 この中には“11人”が居た。発泡スチロールを貼り合わせた高さ約4メートル、直径約6メートルの、手作りで白い巨大なドーム状の「エスキモーハウス」2棟が倉庫から出され、2台のトラックに慎重に積込まれた。
 午前5時、朝もやの道路をトラックは会場の天津小学校に向けて移動を始めた。
 午前8時、学校校庭では約100名の人達が準備に奔走していた。漁師、主婦、サラリーマン、大工さん等々。時間の経過と共に、入念に用意された資材が続々校庭に運び込まれ、手際よく組み立てられ、配置されていった。
 午前11時、それまでの単なる校庭は一変して見事な北極の風景に様変わりしてしまった。高さ3メートル、長さ30メートルの北極大壁画の前には、高さ1.5メートルの氷柱100本が並び、犬ぞり、エスキモーハウスが並んだ。最後に、校門に「北極点にチャレンジの和泉雅子講演会場」の看板が立てられた。
 一方、体育館内では音と光を駆使した北極の再現。ステージ周辺はこれまた氷柱でうずめられた。つめかけた約2000人余りの大人や子供達は大はしゃぎであった。
 「そんは無理だ」「やってみよう」等の声が飛びかって約半年、無理と思われたことも成し遂げてしまった「住民パワー」は、お金集めから始まった手作りの北極を完成させ、かつてない大きな自信と力をつけた。
「私は全国各地で講演をしましたがこんな体験は初めてです。これだけの演出、設備が全て町の人達の手で作られたということ、これからの私の心の大きな糧となりました。」と和泉さんは結んだ。
 この時11名は、無言のまま互いにVサインを出しあっていた。


結集された住民パワーで目標へ

「道路を明るくし、車両や歩行者の安全を確保すると共に、青少年の非行化と犯罪の発生防止を図り、併せて町の活性化と優美で安全なにぎわいのあるまち」を旗じるしにした街路灯建設が開始された。計画は、二灯式街路灯を350基設置し、その建設費7000万円は、町・県そして住民が負担し、維持管理は住民が協会を組織してその任に当たる。以上のことを基本にした集団は、休む間もなく、先の講演会による住民のパワーの結集と波紋の拡がりをきらさぬよう、第2段階に向けて本格的な準備に入ることになった。
1.昭和61年秋、理解協力者の開拓。
1.昭和62年1月、建設準備会発足。(同年9月和泉雅子講演会)
1.昭和63年3月6日、協会設立。
この間、至難といわれた協力会員約300名の獲得が進められた。
〈歩け、歩こう、それでも歩く〉
 従来の商店会による商店会のための街路灯発想を転換し、「町の人による町のための街路灯にしよう」との「合い言葉」をもとに、広く協力者を求めることにした。つまり、「まちづくりは人づくり、人づくりは参加意識の高揚である」との信念に基づいたためであった。誰もが無理と思われることでも、みんなの英知で解決しようとする場を設けた。さきの講演会も、ここに本来の目的を有していたためである。
「電灯をつけて何が町の活性化になる」
「もっと他にやることがいっぱいある」
「うちは関係ないから早く帰ってくれ」
「御苦労様です。ガンバッテください」
励ましの声や、罵声が入り交じる日が続いた。「腹をたてずガンバロー、今にわかってくれる時がくる…」
 手弁当のボランティアの人達はお互いに慰め合い、励ましあった。
 「和泉雅子講演会の実現」で力を養った人達は、「地道に、忍耐強く、前向きに目標に向かおう」のあい言葉で前進を続けた。
〈峠〉
 昭和63年3月6日、協会の設立にこぎつけた。会員数278名、年会費1口1万2000円が342口の加入があった。商店もひと口、漁師もひと口。主婦も、サラリーマンも、大工さんも、酒屋さんもひと口だ。設立総今では計画どおり無事承認された。気のせいか、“11人衆”の目がしらはあついように感じられた。ひとつの峠を越したのだった。


ついに本番

 「ここに建てないでくれ」「会員をやめさせてくれ」。「会費が思うように集まらない。資金繰りが立たない」。約半年余りこの連続であった。“11人衆”はいつもの酒場にいた。盃が重いようであった。でも続いた。でも盃は疲労に満ちていた。
 時、昭和63年9月、遂に「天津街路灯」は完成をみた。二灯式350基、建設費7000万円(町1000万円、県1000万円、町財産区補助金3750万円、会員拠出金1250万円)
◎国・県道主体の等間隔設置。
◎全灯に町の歓迎板(鯛マーク)設置。
◎あらゆる業種の人達による管理方式。
◎デザイン、設計管理、運営は町民。
◎拠点的設置でなく広範囲な全域設置。
 こうして、かつて例のない数々の画期的なことがとり入れられた、この街路灯は単に街路灯建設ではなく、まさしく「町の人達による、まちづくりのための新しい光」の建設に他ならないのであった。
 既に完成していた町内小湊地区を併せると計500基で、ついに千葉県内最大規模の街路灯となり、かつての「点」的資源は街路灯の新しい光のベルトで結ばれた。


完成1年後

 「まちなみが優美になった」「空からの天津小湊町の街路灯ベルトが美しい」と若者の声。「観光客に誇れる」とタクシー運転手。
 平成元年1月全国町村会長表彰、同2月干葉県知事表彰受賞。
 それまで建設に異論を唱えていたある人は、隣の町で「うちの町の街路灯と同じものを作りなさい。町内や、観光客にも大変評判がいいぞ」と自慢気に語っていた。これぞまさしく新しい光の第一歩と言えるだろう。


そして今、集団は

 夏の夜、新しい光に照らされながら“11人”はまた小さな酒場へ入っていった。
 光は新しいパワーを日々養い、今日も「町の誇り」となるべく照らし続けている。
 その後「小さな町の大きな住民パワー」は全国でも珍しい米国、ソ運、ブルガリアの宇宙飛行士を招いて、特別なイベントを実施し、大反響を町内外に招くこととなった。
 11人の集団は街路灯に照らされ、次の「新しい光」に向かっているのだろう。元気よく小さな酒場に入っていった。空には暗雲はなく、月が輝いていた。