「ふるさとづくり'90」掲載 |
過疎化への小さな抵抗 |
長野県塩尻市 上小曽部地区ふるさとづくり推進会議 |
プロローグ 「山と川の自然以外何もない、空き家が増えてきたんです……」、そんなひと言がヒントになって始まった、山あいの集落の過疎化への小さな抵抗。 周囲から失なわれていく自然の中で、ただ単に小曽部に残っただけなのかも知れない自然。しかし、その自然環境の中に住み、その良さを体感する私たちは、さびれつつある集落をこのままにしてはおけない。この地に住むことに誇りを持ち、自信と活力を持って人間らしく息づいていきたい……。そんな思いを胸にささやかな抵抗を始めてようやく4年目を迎えている。 上小曽部のイメージ 山あいの集落上小曽部は、決っして過疎地ではない。にもかかわらず過疎地的な感覚で見る人も多く、そのせいか過跡というイメージが定着している集落である。 長野県塩尻市の中心部から南西に約10キロのところにある上小曽部は、山あいを流れる小曽部川沿いに約150戸が細長く点在する、人口600人の自然環境に恵まれた小さな集落である。市の中心部へは車で約15分。生活には特別不便さを感じさせない。 しかしながら、時代の変遷・人の意識の変化とともに、年々人口や戸数も減少傾向にあり、過疎的なイメージに拍車をかけているのが現状である。 集落内の産業は、そのほとんどが野菜中心の農業で、農家数も戸数の8割を超えるが、そのうち9割近くが兼業農家で、集落外へ勤めに出る住民がほとんどである。このため、若者の集落外への流出が目立ち、高齢化も進みがちなことから、集落自体の活気が失なわれがちである。 集まれば「なんとかならねえかい」 さびれつつあるふるさと上小曽部。人が集まれば「なんとかならねえかい」「なんとかしなきゃね」という言葉が交わされるが、その場限りで一向にらちがあかない。みんななんとかしたい気持ちはあるのだが、何もないことが目につくだけ。取り残されていくのではないかという漠然とした不安に取りつかれている。 ともあれ、集落をこのままさびれさせてしまってはいけない、なんとかしたいという気持ちだけは、住民の一人ひとりが持っていたのである。その意味では、何か動き出すきっかけが欲しかったともいえるだろう。 引き金は、新聞のちっちゃな記事 活動(小さな抵抗)は、昭和61年3月3日のとある新聞のちっちゃな記事から始まった。 上小曽部区の役員と市長の雑談の中で、区の役員が「上小曽都は空き家が増えてね……」と言ったひと言が、空き家を都会の人に開放してみたらどうかというアイデアになり、それが新聞に取り上げられたもの。 この記事の反響はすさまじく、あっという間に首都圏を中心に300件以上の問い合わせがあい次ぎ、すぐに利用してみたいという希望も11件にのぼった。 自然環境以外なにもない上小曽部に多くの目が集中したことで、“何かできる、どうにか現状を変えることができるかも知れない”という可能性が、ボンと集落の前に躍り出た瞬間であった。 集落の活気を取り戻す方法を住民が模索していたとはいえ、アイデアがそのまま記事になってしまったうえに、余りにも大きい反響だったことから、「もっと検討してからにすべきだった」とか「誰が空き家を開放すると言っただい」とか「いいチャンスだからやればいい」という様に、様々な意見が集落内に湧き起った。なんの対策もないまま、なんの用意もないままに“空き家を開放します”という記事が出てしまったのだから無理のないことではあった。 こうして、上小曽部の後には引けない試行錯誤の取り組みが始まったのである。 「やってみよう、やるしかない」を合言葉に 新聞の反響、行政の指導というある面では受動的な形ではあったが、きっかけを求めていた住民の“どろ縄的?”な、しかし、真剣でせっぱ詰まった取り組みが始まったのが、昭和61年春のことだった。 受け入れの確認を隣り組単位で検討し集約する中で、一般の空き家は持ち主との十分な協議が必要であることから更に研究することとし、当面、比較的開放しやすい住民が第2集会施設的に利用している「柏茂会館」を開放していくことで決定をみた。 具体的な運営や取り組みについては、「空き家対策委員会」を設置し、開放に伴う会館施設・備品の整備や方法、開放の時期、更には貸館料金の設定等についての検討を重ねていった。初めてのことであり、反響どおりの成果が期待できるのか、また、集落の活性化につながるのか皆目見当がつかない状態、半信半疑の状態の中で“やってみよう、やるしかない”が合言葉の毎日であった。 その結果、昭和61年7月、1泊1人1500円の自炊施設として柏茂会館を開放していくことになった。また、企画運営については区の組織と分離させた専門的な組織として「柏茂会館実行委員会」を設置、区役員を含む約20名の委員も決まった。6月頃のことだった。 施設開放に向けての準備は困難を極めた。というのも柏茂会館は、地元出身で東京に住在していた「故、南山柏茂」氏が一般住居用に建築、その後上小曽部区に寄付されたもので、宿泊専用の施設ではなかったからである。このため、実行委員が中心となり区や婦人会に呼び掛け、連日施設の補修をしたり、戸外の炊事場、トイレづくりをしたりと黙々と汁を流した。一方、住民からは毛布や布団が寄付されるなど、正に集落一丸となっての取り組みの中でオープンにこぎつけたのが開放の数日前だった。 こうして、とにもかくにも木造かわらぶき2階建て、延べ266平方メートル、部屋数13室、浴室も備えた柏茂会館が手づくりの整備を完了しオープンした。結果は、反響どおり予約もあい次ぎ、さい先のよいスタートとなった。 この柏茂会館の施設開放は、管理人や住民の人情的な取り組みもあって好評で、本年までにすでに1500人以上の宿泊客があり、毎年訪れる常連客もついて黒字状態となっている。 施設開放をバネに様々な取り組みが 施設開放が軌道にのってくるにしたがい、実行委員会を中心にあれをしたら、あそこをこうしたらどうだろうかという様々なアイデアも生まれるようになり、そのいくつかが実現してきている。このことは、施設開放で住民が新しく持ち得た自信であり、住民が確かな手ごたえを感じとったからに他ならない。 一方、こうした取り組みが順調に進んできたのは、ふるさとづくりを市政の基調に据えた塩尻市のバックアップも見逃すことはできないだろう。タイミングよく援護射撃的に導入されたいくつかの事業は、上小曽部のイメージアップにもつながると共に、住民に力を与えてくれるもので、正に地域と行政の力がほどよくミックスした結果だと言えるのではないであろうか。 ここにその取り組みのいくつかを紹介してみたい。 〈遊歩道づくり〉 昭和62年4月、集落内の見晴らしのよい山頂まで手造りの遊歩道を作った。 この遊歩道は、小曽部を訪れる人に小曽部の自然をもっと満喫してもらおうという声があり、それに基づいて作ったもの、山頂まての山道約2キロメートルを、実行委員や区役員が一日がかりの手作業で切り開いて整備した。ふもとから順に作業を進め、山頂まで整備が終了したのは、大部日が西に傾いたころだったが、作業に当たった人びとの顔は、またひとつ事を成し遂げた喜びと充実感で輝いていた。 〈炭焼き釜の復活〉 昔、集落内の山林で数多く見られた炭焼き釜が復活した。昭和62年12月のことである。小曽部の名物として、また、地域の子供たちの社会勉強の一助になってくれればと、実行委員会のメンバーが、経験者の協力を得て、約1ヵ月かかって築き上げた。 現在、釜の管理は集落内の経験者にまかせているが、釜から立ち上る紫色の煙りは、訪れる人の関心の的になる一方、地元住民の郷愁を誘っている。焼かれた炭は、訪れた人びとの焼き肉用などに有効に利用されて喜ばれている。 この外にも、公園の整備、集落内への花木の植樹、レンタルサイクルの設置などが、柏茂会館実行委員会を中心に取り組まれてきたが、いずれも柏茂会館の開放と関連づけながら展開されてきたものである。 〈農村地域トータルライフ向上対策事業の導入〉 昭和63年、農水省の事業であるトータルライフ事業が導入された。 この事業では、ポケットパークの整備、集落案内校の設置、ビデオの作成、集会施設の建築などが行われたが、住民総参加の事業実施となった。中でも、ポケットパークや案内板は、住民の創意工夫による手づくりのものとなり、訪れる人や集落の人びとの憩いの場になっている。 〈観光資源の掘り起こし=心のふるさと道祖神めぐり=〉 小曽部の自然環境と、路傍にひっそりとたたずむ数体の道祖神は正に観光資源だと着目。道祖神を物語り風にアレンジ、市と集落とて積極的なPRを行ったもの。 パンフレットなどによりPRしたところ、いくつかのマスコミに紹介されたり、テレビドラマのロケが催されたりで、集落のイメージアップにつながると共に、施設開放とあいまって訪れる人が多くなってきている。 変わってきた上小曽部 昭和61年から始まった集落小曽部の、過疎化への小さな抵抗もすでに4年目。無我夢中、よろよろ歩きの中で、住民は多くのことを学び体験してきた。 昭和62年夏、障害者フェスティバル「百万人の広場」が上小曽部で開催された。100人を超える参加者だったため柏茂会館には収容しきれず、元小曽部分校跡地に残っている体育館を宿泊施設として提供しての受け入れだった。明かあかと燃えるキャンプファイヤーのもと、障害を持つ人と集落住民との心のふれあいが生まれた。 また、本年は、柏茂会館開放以来毎年訪れている八王子の子ども会の親子70名が訪れ、子供たちが集落内の家々にホームステイし、交流を深めるまでになっている。「この次は八王子で交流を」という話もあり、正に、人と人との交流、心のふれあいが形となって現われてきている。 当初研究課題だった一般の空き家開放はというと、移り住む人が出てきたり、永住を希望する問い合わせも舞い込んだりするようになってきた。 今小曽部は、徐々にではあるが変わりつつある。以前より集落がにぎやかになってきた。小曽部の歴史や風俗、自然を収録して写真集を発刊しようというグループが生まれた。テニスコートを造成、管理はボランティアでやりましょうと婦人会のOBが名のりを上げた。かじかの養殖研究をやってみようという話も聞かれ始めた。山小屋を建てて憩いの場にしようというグループの話もある。 施設開放に端を発した“小さな抵抗”は、集落住民に様々な好影響を与えながら徐々に実を結びつつあるといえ、集落により活気が出てくるのもそう遠くないかも知れない。 都市と農村との交流とも言える施設開放。それをベースに様々な事業を進めてきたこの4年間は、正に集落づくりの基盤固めといえるのではないだろうか。 さて、今後は 都市の人びととの交流も深まってきており、それによる活気が確かに生きてきたり、集落の良さを再認識するきっかけになったりなど、4年間の活動の中で得たものは大きい。そして、何よりもふるさとづくりの手法を、住民が活動の中で身につけてきたことは、最大の成果と考えられる。 しかしながら、経済的な効果はまだまだの状態であるし、イメージアップ作戦も一層の継続が必要で、課題が山積しているのも事実である。 過疎的であっても過疎地ではない、中途半端な山あいの集落には、ぎりぎりの厳しさがないのがかえってマイナスなのかも知れない。しかし、集落づくり=ふるさとづくりは、誰がやるのでもない、そこに住む我われがやらなければならないことを自覚し、4年の布石をバネにより一層の飛躍を期していきたい。 田舎らしく、ナチュラルなメッセージを人間に向けて発信しつづけることが、最大の武器であることを確信して進んでいきたい。一歩一歩、人の心に問いかけながら……。 |