「ふるさとづくり'90」掲載

朝地史談会の活動について
大分県朝地町 朝地史談会生活会議
朝地史談会の結成

 朝地町は、東洋のロダンといわれる彫刻家朝倉文夫先生生誕の地てあり、先生が亡くなられてはや30年の歳月が流れた。先生は非常に郷土を愛され、郷土の発展について色々と意を尽されており、自分の作品は郷土で保存したいとまでいっておられた。私たちは先生のすばらしさを知ると同時に、これを後世に語り継がねばならないと話し合い、昭和59年に「朝倉文夫先生を語る会」を作り、古老から思い出話を聞き、これを記録して後世に残していこうという活動をおこした。町内多数の方が集まってそれぞれ思い出話が出され、たいへん盛会であった。
 先生と特にじっ懇の間柄で先生の事について詳しく知っておられる方は既に亡くなり、この会が「もう10年も早ければもっと詳しい話を聞くことができたのに残念でならない」という意見が会のたびに述べられ、機を逸した感を強くした。丁度その頃、町内最大、300町歩を灌漑している若宮水路史を明らかにしようと、古老を尋ねて資料を集めていたが、この作業についてもあと10年早ければもっと水路史をいろどる生々しい話が聞かれたのにと残念でならなかった。そこで皆さんと話し合って、今書きとどめておかないと消滅してしまう「記録つくり」をしていこうということになり、これが基礎になって昭和60年史談会結成の運びとなった。会員数は40名程で発足したが現在62名となっている。


史談会のねらい

 史談会発足が「今のうちに記録を残しておこう」ということを根底において、朝倉文夫先生や若宮井路をはじめ、先人達が苦労して村の基礎を作り、高い文化を作り上げたことを明確にし語り継いでいくことが、この世に生を受けている私たちの義務であるという基本に立って、会の規約を作り上げた。
 文面では郷土の歴史、文化、民俗、植生等を調査研究していくことと、この研究が町民に語り継がれていくようにまた、町民に利用活用されていくことを最大のねらいとした。記録を残しその成果を町民にかえす方法として『あさじ史談』を発行して、町内150程ある連絡班に会誌を回覧していき、会員だけでなく広く町民の意見や原稿も集録できる町民の為の会誌にして、2ヵ月に1回発行していくようにした。会員や希望者には会誌を配布し、記録保存につとめともらうようにした。
 その外、講演会、講習会、見学会を開き、会員だけてなく一般町民にもよびかけ、参加を促し、郷土の先達が残してくれた遺産に接する機会を多くしようとつとめた。また、「鳥屋城を見て歩く会」「朝倉文夫先生を語る会」「参勤交代道を歩く会」「遺跡人掘見学会」「各種学術調査」に参加するようにつとめた。


史談会活動の成果

@町民の反応
 2ヵ月に1回会誌の発行回覧をしているが、意外に読者が多く多方面から意見が寄せられている。中でも、埋れた文化財を連絡してくれた為調査に行ってみると貴重な石鐘であったり、台帳にない文化財も次々に発見できた。新たに判明した古墳、城砦、石塔を『史談』を通して発表することができた。地区によっては、倒壊し埋もれた庚申塔や石塔を掘り出し復元配列し保存活動がおこっている。
 普光寺では美化保存に努めたり仏傷破損が進行している為、「磨崖仏護持会」が結成され、修理保存の為の署名活動をよびかけ町や議会に請願するなど、地域に村の文化遺産を大切にしようとする気風がもり上がってきた。
 町では早速この問題をとり上げ、県とも相談をして全国レベルの学者からなる修理委員会を発足し、会合が持たれるようになった。会誌が回覧されると、一晩だけは必ず自分の家に留めて読むとか、次号が配布されてくるのを待ちわびているとか等々の声がきこえるようになった。

A著書や新発見が出始めた
 会員の地道な研究が実り、会誌に連載されていたものを1冊の本にしてまとめたり、小地域のまとまりのある近代史として小冊子にするなどの動きが出始めた。『朝地町土地改良区史』が、B5版450頁としてまとめられたり、戸崎地区が、県道ぞいに現在の集落までに発展する過程を、古老の話を中心にしてまとめあげていったり、価値ある小冊子ができあがった。
 また、史談会員の多数いる池田地区、志賀地区老人クラブでは、その地区に伝わるいい伝えや、神楽や白熊等の研究を行い印刷製本し発刊。子孫に伝えなければならないことが沢山集録された。この研究録は老人クラブ員の活力がみなぎり、自信に満ちた出版物となった。
 また、大分合同新聞に「あさじ地名考」として10ヵ月間連載してもらっていた記事が、昨年1冊の本としてまとめられ約4000冊を販売することができた。町内植物探訪を担当して『史談』に連続掲載していた会員が、神角寺渓谷で「フジキ」を発見、学術調査を開催するようになり、九州では初めての発見であるという結論が出され、その労をねぎらった。
 また、朝地町は前述の通り朝倉文夫先生の生誕地であり、先生の遺言にしたがいこの地に先生の記念館ならびに記念公園を作るようになった。建築家清家清先生の設計により、現在は殆ど素立ちが終わった段階であり、完成の暁には10町歩の庭園を含め芸術の殿堂として注目を浴びることになる。その一端を担って『朝倉文夫伝』上巻きが会員の手により完成した。上巻に続いて下巻が近く完成する予定となっている。これができ上がると、町当局は町内各戸に配り読んでもらおうと計画している。朝倉文夫先生を語る会で出されていた話題、「世代が大きく替り今の子供は朝倉先生の事は何も伝えられていない」というなげきが解消するのではないかと楽しみにしている。朝倉文夫先生を顕彰しようとする町政の中で、ソフト部門の担い手として活動できることに大きな期待がかけられている。

Bやすらぎと芸術の里づくり
 本町では町づくりの基本構想が立てられているが、中でも本町の美しい自然と豊富な史跡文化財、朝倉文夫記念公園を主軸にした農業と観光振興に力を入れており「やすらぎと芸術の里づくり」をキャッチフレーズに町の活性化に大きく一歩踏み出した。その具体的な推進計画は省略するが、この計画の中で史談会の果たす役割は非常に大きなものがある。町づくりに関係する諸団体で結成されている推進委員会の委員長に、史談会会長が推挙されている。毎月の計画にしたがい推進委員会が開催され、町執行部から出される諸問題に対し各種団体の取り組む活動との横の連結また、基本線にそった話し合いがなされている。
 史談会には、朝倉文夫先生の出版物、観光地の史実の掘り下げ、ガイドブック、ガイドマップ等への支援等の外、史跡や文化財の保存と活用の面で大きな期待が寄せられている。
 最近は、急に県内や県外からの視察や観光の申し込みが多くなった。国指定の本堂と仁王のあるシャクナゲ名所の神角寺、日本最大の磨崖仏を持つ紫陽花の名所普光寺、紅葉の庭園を持つ家老屋敷用作公園、それに朝倉文夫記念公園等、どこに出しても恥かしくない四つの観光地を持っているため、奥豊後の旅行者は必ず立ち寄られる。これら案内等についても活動領域を広げねばならないと考えている。

Cその他の成果
◎町公民館に資料室があるが、この展示には史読会が大きな力を入れている。現在は、朝倉文夫先生の遺作や関連資料集め、手紙の蒐集、書画等の寄託を受けている。外にも町の歴史が展望できる史料をかなり集めることができた。中でも、仁王像躰間銘や岡藩史料は価値の高いものがある。
◎民俗資料は、無人化された朝地駅舎を借り受け展示場としている。農・工・商に使われた道具や資料を展示し乗降客に見てもらっており、「民俗駅」と名づけ好評を得ている。
◎文化財愛護少年団の指導については、3校の小学校を中心に少年団を結成し、町内の史跡を知ることから始め、文化財愛護の活動を展開している。本年は、綿田小学校が県より特別賞を受賞する程活動を展開している。
◎朝地町の成人式は夏に行われるが、この成人者の多くは郷里を出て就職する。他の町村と同じよう過疎化現象が激しいが、せめて朝地町の歴史と先人達の作った文化を知ってもらいたいと、「ふるさとの夜明け」というスライドを作成して上映している。郷里を忘れないでほしいという反面、高い文化を築いた先人を、町の誇りとして巣立ってほしいと願っている。
◎町内各種団体、特に老人クラブや婦人会には先のスライド制作や史跡めぐりの事業の中で案内役として町の理解を深めてもらっている。
◎大学や学術調査等には積極的な参加を呼びかけ新しい学問の見方について研修を重ねている。学生の合宿調査等には会員が案内役をつとめ研究結果について報告書をいただき、重要なものは会誌に記録し保存につとめている。