「ふるさとづくり'92」掲載 |
<集団の部> |
自然を活かした豊かなむらづくりをみんなの手で |
山形県大江町 大江町山村研究会 |
地域の概況 大江町は山形県のほぼ中央に位置し、人口1万1千人、面積153平方キロメートルで大部分は山林にかこまれた町である。 果樹、水稲を主幹作物とする農業が基幹産業であり、工業ではニット産業が主で、「フルーツとニットのまち」である。文化的には世界三大舟唄のひとつである最上川舟唄の発祥地でもある。 当山村研究会のある七軒地域は、町の中心から西南約15キロメートル地点を中心に位置する旧七軒村で、集落は月布川本・支流に沿い枝葉状に11の集落が点在し、標高240〜550メートルと山間僻地で積雪も2メートルを超える。総面積9,461ヘクタールのうち耕地面積92.5ヘクタールでほとんど山林である。 総戸数263戸、うち農家戸数178戸、人口1,035人である。 むらづくりの動機 昭和30年代半ばを境に、これまで栄えた養蚕、製炭、木材業が急速に衰退しはじめ逐年、過疎化が進み、人口は3分の1以下に減少し、集落は19から11に半減し、むら機能は低下し、維持も困難となり、一層挙家離村が進み、一時的には廃村の噂さえ流れ、明日は我が身かと、途方にくれ、夢も希望もなく、不安と危機感にさいなまれた。 このような状態のなかで地域振興のための諸事業の導入などに取り組む意欲も極度に減退し、青年団活動も不活発で改善対策の話し合いの場もなかった。当時必要な課題は、冬季間の除雪対策、診療所廃止後の対応、幼稚園の設置、中学校統廃合後の跡地を過疎対策に利用されないかなど種々の問題が山積されていた。 しかし、この地域に生れ育った若者が自らの手でこの難局を打開しようと立ち上り、昭和50年6月に同志を募り、20数名で「みんなで語り、みんなでつくろうわれらがむらを」を合言葉に、農林業、会社員、大工、商業者など幅広い職種の人により、過疎化に伴う生活機能や住民意識の崩壊をここでくいとめるために山村研究会を結成したのがむらづくりの始まりであった。 まず、過疎問題調査会で作成した「過疎への挑戦」の映写会を行ないながら各集落をまわり、座談会を開催し、住民との膝を交え意志を確認しながら合意形成のため、10日間にわたり全集落を会員が手わけして実施し、地域振興座標である「ふる方と村構想」を練り上げ、これを基本としてむらづくりをスタートさせた。 (1)中学校跡地利用について このことについて協議会を結成、本会が事務局を担当し、(財)ハーモニーセンターが実施する雪のふるさと学校に対し、誘致と協力に活動した。また、旧中学校の寄宿舎・渓親祭を都市との交流をはがるため、生活クラブ、生活協同組合へ提供すべく運勤し、実現した。これにより都市生活者が訪れ(年間延250名)農作業の体験、伝統行事への参加など会員が協力して交流し、農村の文化と生活を通じ相互理解につとめ、人の交流から物の交流へと進展させ、本町農協の取り扱い額約2億円を越えて14年間も続いている。 (2)ふるさとづくりの拠点づくり 昭和54年の町議会改選に、会員3名を「若者が定住する魅力あるむらづくり」を掲げて全員上位当選させ、行政への要望、陳情、請願などを容易にし、当時地域にあった役場支所さえ廃止されようとしたので国・県・町へ陳情、請願運動を繰り返し、地域づくりの拠点である克雪センターを設置することに成功した。この施設を拠点として活発な活動を始めた。また、一方、冬期間の除雪作業がスムーズとなり、交通確保がなされ住民から喜ばれた。 (3)山村問題に係る調査研究活動 新しい山村開発の方向をさぐり「ふるさと村構想」実現へ向けてのふるさと村研究大会や、ふるさと村構想研究大会などを主催し、町内外より講師を招き調査研究したり、先進地の視察研修を重ねて、その成果を町総合開発計画及び過疎対策計画に対して要望書を提出し、その実現にむけて必死の活動を行った。 (4)ふるさと山菜まつりの開催 豊かな自然環境を生して県内外から客を集め、本会が主催し各種団体の協力を得て盛大に行った。山菜、民具・民芸品、山菜加工品を直売したり、ふるさと広場での山菜料理、山菜供養祭、ふるさと伝統芸能を会員自ら演ずるなど、逐年盛況となり、むらにも活気がみられた。現在まで毎年実施している。 (5)自然を生した産業の振興 本会の会員のうち林業と農業を兼業している人が専門的に振興を図るため光林会を組織し、地域振興作物の研究を始め、西山杉の高品質化をはかると共に更に付加価値を高めるためこれを材料として健康下駄を開発し、商品化し、全国に販売している会員もある。また、転作や林床を利用し、山菜(わらび、ぜんまい、もみじがさ、あかこごみなど)ときのこ(なめこ、ひらたけ、まいたけなど)を特産品化している。特にまいたけは、研究会独自で厚木まいたけ栽培技術体系を確立し、自然物に近い高品質なものを生産、販売し、好評である。また、杉村の品質向上のため、積雪に強い「ど根性杉」の品種育成に成功し西山杉の市場銘柄を確立、市場評価を高め林業経営の改善をはかっている。 (6)手づくりで展望台の建設(昭和60年) 地域開発と活性化を常に求めてやまない本会は、朝日連峰、月山、蔵王山が一望出来る大頭森の山頂に会員が自ら資金を集め、独自で建設した。標高993メートルに7メートルの展望台をつくり標高1,000メートルとした。この建設作業を聞き住民はもとより、他町村からも助人が多数集まりうれしい悲鳴であった。また、これを記念し展望台まつりとふるさと山菜まつりを併せて開催し、観光と地域の活性化につなぎ観光の名所となったので行政でも駐車場、便所などを整備した。 (7)スポーツを通したむらづくり 会員のなかに建設業者も含まれているのでこれを利用して貫見では野球場を平づくりでつくり、親善野球を通してスポーツの振興をはかったり、旧盆の帰省客をまきこんだソフトボール大会を開いて交流したり、また、黒森では若い会員が平づくりのスキー場をつくり、中古トラクターを利用したユニークなロープトーなどや間伐材を利用した手づくりのログハウスをつくり、スキー場まつりを開き、町内外からスキーヤーを集めて寒い長い冬を克雪、利雪、親雪で吹き飛ばしている。 (8)山里留学生の受け入れ 本会の会員で山里留学協力会を組織し、相模原市の市民グループと連携し、小学校5、6年生を本会役員が受け入れ、里親となって地元の小学校に通学させ、自然を媒体として、人間性を養わせ、21世紀を担う人間の育成と交流による相互理解をはかるものである。特に地元の子供達には競争心が芽ばえ、互いに切磋琢磨する態度が醸成され、今後成長したあかつきに期待している。なお、昭和62年度の山里留学生か約束した再会を冒険の旅で相模原市から、自転車で600キロメートルを走破し七軒西小学校の子供達と再会し友情の絆を深めた事例もあり、このことが地域の活性化につないでいる。 (9)村づくり推進協議会との連携 むらづくり活動を効率的に推進するには地域全体を網羅した組織が必要となってきたので、昭和59年に七軒地域村づくり推進協議会結成に参画し、本会役員はその委員も兼ね機能分担しながら事業推進を積極的に協力しその成果を納めている。特に、各種イベントにはりリーダー的活動を実践している。 (10)ミニリゾートヘのスタート 挙家離村し廃村となった十郎畑地区内の沼を地権者より会の予算で借り受け、フナ、鯉を放流し続け、今は禁漁としているが、今後魚の生長をみて釣堀として開放し、周辺の自然を活したミニリゾートとして開発する計画で準備をすすめている。特に町出身で、ヘラアカデミー会員、日研本部常任理事、渡辺紀行氏の指導を得て継続事業として取りくんでいる。 (11)まとめ 廃村状態から山村研究会を中心に立ちあがり、住民との合意形成をはかりながら、「ふるさと村構想」を基にその具現化をはがるため調査研究を重ね、昭和59年から総合的な推進体制である村づくり推進協議会とタイアップしながら効率的むらづくりにつとめ、機能分担しながら独自の事業も推進し、ふるさと村構想の約80パーセントを実現した。経済的合理性のみでなく心の豊かさがわかり過疎化が緩慢となり、若者が定着しつつある。わずかではあるが都市からのUターン者もあり、明るい兆しが見えてきた。今後は新しい目標を立て、更に飛躍するためには、行政に対し観光レクリエーション施設の整備を要請しているが、そのエリアを明確にし、むらづくりの理念を侵すことなく、創意と工夫により観光と農林業の振興を両立させ、その相乗効果により本地域が活性化し、住み良い、豊かなむらがつくられるよう本研究会のなお一層の調査研究とその成果を実践する活動が望まれる。 |