「ふるさとづくり'92」掲載
<集団の部>

まちに「ニューヨーク」がやってきた
広島県千代田町 千代田町「ちきゅうの会」
「ちきゅうの会」が息づくまち

 10年前に開通した中国縦貫自動車道に「千代田IC」がある。中国自動車道を走られた方なら、私達のまち千代田町はご存じであろう。間もなく、広島市と浜田市を結ぶ中国横断自動車道が開通し、文字どおり中国地方の縦横の高速道路が交差するまちとなる。
 広島県山県郡千代田町。人口ー万人余りの私達のまちは、古い歴史を持ち、特に「田楽(でんがく)」(国指定文化財)や「神楽(かぐら)」など農村文化を郷土芸能として今に伝え、文化財の宝庫として知られている。高速道の開通により、企業進出が相次いでいるが、もとは広島県北西部の農業地帯。こんな田舎まちでの“国際交流物語”である。


「ちきゅうの会」をつくろう!

 国際交流とはまったく縁がなかったまちで、80年代から、政府招聘事業(東南アジア青年の船、22世紀友情計画等)によって、来広するアジアの青年達のホームステイ受け入れをしていた仲良しグループ10家族が、「民間レベルでの国際交流を、町民あげて進めよう」と、中央公民館サークルとして発足。1987年9月「ちきゅうの会」が生まれた。
 現在、町外の人も含めて42家族約100人が会員である。地球上のあらゆる人と交流しようと「ちきゅうの会」と名付けたが、「スケールの大きい名ですね。」と言われることもしばしば。「ちーと、小じんまりした名にすりゃーよかったのー」と、由来を説明する度に笑ってしまうことがある。
 年数回だが、会員拡大のため、民泊引受家庭探しがおおごと。アジアをはじめ世界各国からやってくる外国の人達を、2〜3泊とはいえ家に泊めてもらおうというのである。“言葉が通じないから”とか“水洗トイレがないから”と断られるが、なんとか無理を言って引き受けてもらい、民泊が終わって別れの時は家族の目に大つぶの涙。「本当に良い経験でした」と感激される家族は、そのまま会員になってもらうのである。それらの家の子供達は、大学で外国語を専攻したり、外国でのホームステイを体験したりで、知らず知らず国際交流の精神を受け継いでくれ、卒業後千代田町へ帰り、「ちきゅう会」の活動を積極的に手伝ってくれている。


真の交流「ウィークエンドホームステイ」

 素晴らしい交流とはいえ、「さよなら」で終わってしまう単発の民泊交流に限界を感じ始めた頃、「ウィークエンドホームステイ」を思いついた。広島市内在住の留学生と会員とが縁組を結び、“週末”や祭りの日に千代田町へと招くなど、年間を通じて交流しようというアイディアである。「ウィークエンドホームステイ」の言葉自体、会の発案で、1989年8月、アジア各国の留学生7人がこのアイディアに乗ってくれ、交流は今も続いている。留学生が会員の家に来る時は、「こんにちは」ではなく「ただいま」。会員は、彼らが帰国する時の淋しさを心配しながらも、新しい大きな息子や娘が自慢である。


「ニューヨーク」との出会い

1990年4月、私達のまちに「CUNY(キューニー)」が開校した。「CUNY(CITY UNIVERSITY OF NEW YORK)リーマン広島校」、アメリカ合衆国の大学である。「この田舎に大学が、それもアメリカの大学が来るげなぁー」町民の驚きはまさに「黒船」並であった。開校により、約30人の米国教授陣が来町。「ちきゅうの会」にとって、またとないチャンスであった。交流の相手を国や広島市に求めずとも、私達のまちに「ニューヨーク」がやって来たのである。
 まず、「WELCOME CUNY NIGHT」と銘打って歓迎会を開催。同時に21組の先生全員と会員家族とが「友好縁組(フレンドリーマッチ)」を結んだ。食事に招待したり、町内を案内する。ある組は、先生が会員の子供のバスケットボールのコーチを引き受ける。秋祭りの夜は、郷土芸能の神楽を一緒に見にいく…。こうした光景がまちのあちこちに見られるようになった。「言葉」の問題は、幸いにもCUNYの日本人学生が縁組に加わってくれ、先生、家族、学生との「トライアングルマッチ」で交流をスムーズに行っている。
 合衆国の祭日等には、家族全員が招かれることもしばしば。事前に「イースター」や「ハロウィン」などの意義を調べ、「アメリカ文化はおまかせ」の会員もいるほどだ。


農村文化の継承に一役

「“花田植”の早乙女を、先生にたのんでみてはどーかのー」。CUNYが開校して間もなくの話である。米の農作を願い、着飾った“はやし方”と“早乙女”が田植えをする町の伝統的な祭、「田楽」である。千代田町では、その美しさから「花田植」として親しまれ、毎年6月、町内外から多くの観光客が集まってくる。実際に、この祭りに参加する「ちきゅうの会」会員が交渉し、先生4人と、「ウイークエンドホームステイ」の中国人留学生が“早乙女”にOK。特訓に次ぐ特訓に何とか“しぐさ”も着物姿も板に付いた。
 さて本番。応援にかけつけた先生のため、初めて英語説明も付けられた。もちろん会員
(「英語ぺらぺら」の部)の仕事である。「外国の女性に、泥田ン中、最後まで植えさせるのは無理でー。なれん事で、腰も痛うなるけえのー」と親切のつもりで、田楽の最中、途中で田から上がってもらったが、これに彼女らはプンプン。「最後まで植えたかった」との抗議である。「“早乙女”をお願いしたからには、日本人の早乙女と同じように」こんな初歩的な国際交流のルールが、会員の間で実感できたのも、大きな収穫であった。しかし、抗議もそこまで。田植の後の田楽団員との打ち上げ会では、彼女らのお国自慢も飛び出し、ちょっとした国際文化交流となったことは、言うまでもない。


ニューヨークの香り、ピアノコンサート

 1990年5月、CUNY学長から「ちきゅうの会」への依頼があった。ある教授の子供(姉弟)が夏休みに千代田へやって来る。彼らは学生で、アマチュアではあるが、本国
でコンサートを開くほどの素晴らしいピアニスト。ぜひ町内で、2人のコンサートを開き、CUNYの学生や町民の皆さんに、ピアノ演奏を通して“ニューヨークの香り”を届けたいというのである。「ちきゅうの会」も大賛成。会場はキャンパスを出て町民ホール。まさに大学と地元のジョイントが実現した。
 当日、700席のホールは満席、聴衆は、先生も学生も、そして町民も“ニューヨーク”に思いをはせ、静かに名曲に聴き入った。香りだけの“ニューヨーク”ではあったが、町民の拍手は最高潮。アンコールが続いた。“ピアニスト”の父親と友好縁組を結ぶ会員は、この日の“スター”に山のようなプレゼントと花束を用意。お互いの固い握手は、縁組の絆を一層深めていった。
 司会進行は、聴衆である両国民のため、日・英語のバイリングァル。コンサートのパンフレットは、町内のイベント用としては画期的な印刷物となった。すべての説明に英文、日本文が記載されていたのだから…。


CUNYだけではありません

「ちきゅうの会」は、広島県が設立にかかわった「(財)ひろしま国際センター」の組織「ひろしま国際交流サミット」に当初から加入し、県内の団体と情報交換、交流を続けている。ある団体が主催する“県内留学生のためのチャリティーバザー”には手弁当で協力し、会員の家庭に眠る不用品の収集から運搬、市内のバザー会場での“販売係”も買ってでる。
 毎年、年末大みそか。正午から1時間、雪がちらつく町内のスーパーの店頭で募金を呼びかける“ユニセフハンドINハンド募金”は、会の行事として2回目となる。昨年は、CUNYの先生も参加してくれた。集まったお金は世界の子供達に役立っていると思えば、寒い中でも街頭に立つ会員の心は、ポカポカの春なのである。
 また、「ちきゅうの会」が所属する中央公民館には、常に協力いただき、多くの共催事業を行っている。「ちきゅうセミナー」や、JICAの協力による「国際交流パネル展」もその一つである。
 これからの時代、私達のまちにおける国際交流のあり方を、町民と共に考えることのできたこれらの事業を通して、“国際化時代は都市部だけでなく、田舎にも必ずやってくる”という意識が町民の間に少しずつ根付いていった。この事業のすぐ後にCUNYが開校したのだから、今としては不思議である。


「ちきゅうの会」の夢?

 広島県の田舎の小さな国際交流。私達のこの活動は、他の小さな町や村での国際交流への“きっかけ”と“はげみ”になると信じている。そのためにも頑張らなくては…。
 しかし、会員同士、常に戒めているのは、相手が“金髪、白人、アメリカの大学教授”だから交流を進めるのではないということである。1994年に広島では、“アジア競技大会”が開かれ、アジア各国から多くの人々を迎え、スポーツ・文化交流が行われる。
 国際交流とは、人間交流である。地球上のあらゆる人と人間同士の温かい交流を深め、それが戦争を防ぐ大きな力となって、世界の人類全体の幸福につながる。
 こんなことを願い、まず町内から輪を広げ、1人でも多くの人に会員に加わってもらいたい。ともかく、これまでは外国の人を受け入れることがほとんど。来年あたり、先生の誘い「是非ニューヨークヘいらっしゃい」に甘えて、「ちきゅうの会」団体ツアーでニューヨーク訪問といきたい。そのプランづくりに今から余念がないこの頃である。