「ふるさとづくり'92」掲載 |
<市町村の部>ふるさとづくり奨励賞 |
百済の里づくり |
宮崎県南郷村 |
南郷村は宮崎県の北部、日向市から西へ38キロメートル、九州山地に連なる山々に囲まれた、人口3,000人余りの小さな山村で、林業をはじめとする第1次産業で生計をたててきた村であります。 何故、百済の里なのか!? 南郷村に古くから百済伝説が伝わってお9,ました。その伝説とは、村の中心部高台に大木に囲まれ建っている、「神門(みかど)神社」があります。ここに百済王族が祀られているのです。 朝鮮半島の古代国家「百済」が、唐と新羅の連合軍に滅ばされたのは歴史上の定説でありますが、その時代、百済から大挙して王族や、部宮などが日本に亡命したのも事実であります。 我が村の伝説はそこから始まるのです。その話では畿内地方に定住した王族は、その後どれはどの歳月をへたことかは不明ですが、その後動乱(当時、日本では壬申の乱をはじめとした事変が頻発し、不安定な時代でありました)から、討伐を逃れ定住の地を求め、海路筑紫の国を船2般で目ざしたもの、瀬戸内でしけに遭い、日向の国の、金ケ浜(日向市)、紋日浦(高鍋町)に漂着し、それぞれ山奥に逃れて定住したといいます。 神門神社に祀られているのは父王の禎嘉王であり、長男拙僧王は南郷村とは90キロメートル隔てた、木城町の比木神社に祀られています。 この親子対面を擬した「師走祭り」が起源のわからぬほど昔から続いており、比木神社の御神体が古代朝鮮の王族の冠を模しているとかいわれ、百済とのつながりの深さが推測されるほか、王の遺品といわれる、銅鏡などの文化財が数多く伝えられているからであります。 百済の里づくりのきっかけ、経緯 昭和30年代には、7,800人以上もいた人口も、60%あまり減少し、今では3,000人台になるほど、過疎化の進展、押しよせる高齢化の波、主産業である農林業をはじめとする第1次産業の低迷などから、村民は村で生活することに自信をなくし、村に対する誇りすら失われようとするなど、憂慮すべき事態になっていました。 このような事態を打開し、村民の自信と誇りの回復を図り、かつ確かな活性化目標を立てるため、田原正人村長のかけ声のもと、村の歴史的背景を踏まえた、村の文化を再点検、再確認つまり、足元から見直すことを開始したのでありました。 このことから、村に伝わる「百済王族の伝説Lに焦点があてられました。かつて、この伝説がひもとかれたことは一度もなく、ただ、かたくなに守り継がれてきただけでありました。 文化の点検、調査が進んでゆきますと、何と驚くべきことに王族の遺品と呼ばれる銅鏡24面は、昭和30年奈良国立博物館の調査がなされており、奈良時代の鏡だけても、日本国内で10指に入り、中には奈良正倉院の御物、東大寺大仏台座下出土鏡、見瀬丸山古墳出土鏡、飛鳥坂田寺跡出土鏡、長屋正邪跡鏡などと、古代中央権力と強くかかわりのある関係が感じられるものが判明しました。 中でも正倉院御物と同一品の鏡は日本でも5面しかない唐花(瑞花)六花鏡が南郷村にあるという事実、さらに馬齢、馬鐸や王の墓と呼ばれる古墳の存在、宝物の坂絵観音は高句麗や中国の影響を強く受けた描写ともいわれるもの奈良国立文化財研究所の調査から神門神社本殿に平城京の発掘から確認ざれた伝統技法が今に残されているなど驚異的な事実も判明しました。 また、王族親子対面の祭り「師走祭り」も文化庁の調査から、極めて古い形態を残すとして、重要民族文化財として記録保存の選択も受けることとなりました。このように、奈良国立文化財研究所、文化庁の調査、韓国への調査団派遣等の結果、百済王族の伝説、王族の遺品と呼ばれる銅鏡をはじめとする文化財、伝統的祭りなど、連綿と守りつがれてきた伝統行事などにすばらしい価値があることが判明、さらに古代の謎が大きくクローズアップされることにもなりました。 これはかつて(昭和30年)の調査で学者間では大きな話題となったものの、一般の関心が考古学などに向いていなかった時代背景と山奥の小さな村ゆえ関心をもつ人が少なかった事などが、謎を残したまま今日に至ったものと思われます。 しかし、今にしてみれば学術的価値を超え、神様の宝物として村人にしっかりと守り継がれてきたところに意味があったと思います。 このような動きの中で昭和61年「百済の里づくり」の村おこしのテーマとして決定しました。 昭和62年基本計画策定、63年村議会の決議を受け、村民運動として取りくむこととなったのであります。 百済の里づくり計画 百済王族の伝説、正倉院の御物と同一品を含む、奈良・飛鳥とならぶ銅鏡群、いにしえの時代から連綿と受けつがれ、百済の風習を奇蹟的に残す百済王族対面の珍しいまつりなど、誇り得る郷土の歴史・文化を礎に、「子々孫々に誇り得る南郷村の創造」を基調とし「百済の里づくり」を展開するものであります。この計画をもとに百済の里づくりは具体的に勤きはじめたのであります。 百済王族のルーツを訪ねる形で派遣された第1回調査団(昭和61年)は、百済最後の都、扶飴を訪れ、次年(昭和62年)には扶能から親善と交流のための視察団が米村し、百済シンポジウムを開催しました。 南郷村に伝わる、百済伝説や、文化財を韓国側からの目で検証するという形で、双方の深いかかわりが改めて確認され、村民の意気を大いに高揚させる役割を果たしたものでした(調査団は延べ5回派遣されました)。 百済の里の国際交流 百済の里づくり運動は韓国との国際交流の動きも加わり、新聞、ラジオ、テレビ等マスコミを通じて何回も報道されることになりました。韓国でも新聞、テレビを通じて何度か紹介され、南郷村の動きが関心をもたれるようになりました。 平成2年1月、韓国青年連盟日本研修団180名のホームステイ受入れがなされました。これはぜひ百済の里を訪れたいという、韓国側の熱いメッセージに応えて南郷村も積極的に受入れたものでありました。たった一晩の交流にもかかわらず、言葉の壁を超え、双方の子供達に強烈な印象を残しました。 この交流はその後、毎年夏休みには南郷村の中学3年生全員の韓国研修団が派遣されるようになり、今回で2回目を迎えました(ふる方と創生資金活用)。 このような韓国との交流はさらにもう一歩進み、韓国語が話せればとの思いから、また韓国の事をもっと良く知りたいとの村民の要望に答えて韓国から国際交流員を招くことになり、朴真姫さん23識(ソウル出身、京畿大日諸口文科卒)が平成2年2月から赴任し、彼女の明るい性格も手伝って、韓国語の普及はもとより、日韓がより近いものになって来た感がします。 韓国からの観光団や訪問者も増加し、平成2年には約1,300人が訪れました。 8月には韓国民自党最高委員(元総理)の全鍾泌氏一行の米村は日韓交流の大きな弾みとなりました。 11月百済の里中核施設であります“百斉の館”も完成し、落成式には全鍾泌氏の力添えもあり、韓国国際文化協会長を団長とする文化使節団が南郷村を訪れました。使節団の中には韓国ナンバーワンのサムルノリ(余徳寿一行)や、韓国国際ペンクラブ会長や国会議員、姉妹交流の相手方である扶能の一行とともに来村しました。 12月中旬、韓国の教職員研修団816名が大型バス18台で来村したことも特筆すべきことでした。 この間、南郷村からも、村長以下、議会議員、商工会、農業団体、各種団体、同窓会同志、韓国語講座を中心とする文化使節団等など、多数が韓国扶能を訪れ、現在大半の家庭がパスポートを所持しています。 平成3年2月の神門神社師走祭(前述の王族対面の祭り)に百済の風習が残るとして、韓国政府派遣の考古、民俗学者も米村(国立民俗博物館長、国立中央博物館考古部長以下8名)し、学術的な面からの交流も始まっています。本調査には、奈良国立文化財研究所、文化庁からもオブザーバーとして参加がありました。 平成3年8月韓国の伝統芸能であります“サムルノリ”を南郷村が学ぼうと4名の指導者が韓国国楽協会から派遣され1カ月間指導を受けました。 平成3年9月9日大韓国民国百済古都扶餘邑との姉妹縁組の調印も行われました。ちなみに、扶餘は日本の太宰府、明日香村とも結んでおります。 このように地域の歴史と日韓交流を礎に村民を巻き込んだ“百斉の里づくり”が大きく動き出しております。 これらの動きが評価され、宮崎日々新聞社から第1回国際交流賞受賞の栄誉に輝きました。 地域活性化の動き 地域の歴史、文化財の面から、また国際交流などの面からの活性化は、前述の通り村政史上類例のないものとなっていますが、これまで、ゼロに等しかった観光客が現在月1万人を超える勢いでこのまま推計すると、年間15万人規模となる見込みてあります。 イメージ戦略 百済の里南郷村は、かつて何の特徴もなく、自信を失った村民が居住し、何事にも他に秀でたことのない村でありました。この南郷村が、最初に手がけたのが地域イメージの確立でありました。 その戦略として、村の伝説や、伝説にかかわる有形無形の文化財などをさらに詳しく調査し、後世に残すべくまとめた1冊の本「神門物語」を編集しました。この本が、新聞、テレビなどマスコミ各社から注目され、この本にそった報道や番組が、この5年間に数多くつくられ、“古代史の謎とロマン、百済の里”のイメージが定着してゆきました。 地域イメージの確立と、向上は、数多くの人々を南郷材にひきよせるばかりでなく、村民や材出身者達が胸をはって、材を名乗れるようになったことや、子供達が作文などに百済の里を書いていることにも現れています。 地場産品の開発も地域イメージと結びつき、数々の商品を生み出しております。 中でも、韓国との交流から訛れた「百済王キムチ」は月3トンも売れるようなヒット商品となっています。 その他にも、例えば、地鳥を活かした「百済風窯焼鳥」、昼夜の大きな温度差の気象特性を生かした花づくり「百済の里、神門菊」、「百済王せんべい」などのほか、梅、菜、茶、トマト、椎茸、柚子、山菜加工品、布、竹、木、紙など素材を使った工芸品にもすべて、百済の里のブランドが使用されています。 平成3年3月にオープンした村営レストランも、村で生産される“神門牛”の高級肉を使い、同じく村産の備長炭を使った、本格的炭火焼、韓国風焼肉を売りものにしています。 村おこし実行委員会の結成をはじめ、地場産品の加工グループも次々と誕生しています。 村の観光施設“百済の館”“恋人の丘”“村営レストラン”は物産販売の場として、また、若者の雇用の場として活気を見せていますが、入込客を相手に販売される産品は、品質、デザインをはじめ、売れる品目の目安など、日々の販売活動から生きた経済の勉強の場として活性化の役割を担っています。 百済の里のブランドも徐々に広まりつつあり、材外のデパートなどへの販路拡大へもつながっております。 国道、県道など地域開発の要となる交通アクセスの整備にも、地域おこしのテーマが予算獲得などに大きな役割を果たしている事実も見逃せないところであります。 百済の里をテーマとして各種イベントの開催も地域の活性化に役立っています。 伝統的行事がよりにぎやかになったものでは、王族対面の祭り「師走祭り」、南郷村の伝統芸能、いだごろ踊りを中心とする「百済の里夏まつり」があります。この二つは、村民の心の寄りどころであり、にぎやかさの復活はまさに、村おこしと言えるでしょう。 そのほか、若者を中心とした恋人フェスティバルは、韓国から贈られた“絆の鏡”のもと、有名歌手のコンサートなどがはなやかに催されます。 文化祭なども“百済の里文化祭”として催されています。 村おこし戦略の特徴 地域活性化のテーマと併せて、歴史的、文化的資源の再点検はもとより、地域資源の再点検、現状分析を行いました。 活性化の手段を地域イメージの確立、観光開発に置き、15のプロジェクトに体系づけ、住民の理解を得られやすい型で展開することにしました。 施設は限りなく本物づくりを基本にしています。例えば、最初に完成したプ目済の館〃は、日韓交流のシンボルとして、韓国百済最後の都。扶於回の国立博物館(王宮跡地)にある建物をモデルにしましたが、この計画の実現にあたっては、韓国大使館、総領事館、国立博物館などの協力支援を受け、建設あたっては、瓦や敷石(チヨンドル)を韓国から取り寄せ、垂木や梁を埋め尽くす極彩色の丹青(タンチョン)は本物韓国の職人が腕を振るいました。 また、現在、計画が進められている博物館は、奈良正倉院と同一品を含む日本有数の銅鏡群を展示することから、奈良正倉院の原寸大複製の建築物で“四の正倉院”を建設することにしており、この計画は、奈良国立文化財研究所の学術支援を受け、宮内庁所蔵で門外不出といわれた正倉院図を入手、設計も古い建造物の修理や寺社建築に経験の豊富な建築研究協会(京都)に依頼し進めています。 建築基準法協議をはじめ、材料の調達等、課題を調査し、問題の解決に向けて進めております。予定では、平成3年度から着工の予定であり敷地造成をはじめており、平成7年には完成する予定です。 本計画は、奈良正倉院と直接のかかわりをもった文化的資源をもとに、地域おこしにより強いインパクトを与えることをねらうとともに、高水準の文化的刺激と、永く後世に伝えるものを築き上げることで、永遠の村民の誇りづくりをねらうものであります。 このように南郷村のふる方とづくりは、すべて本物づくりが基本であります。 また、村の景観づくりも、百済の里づくりの基本コンセプトにのっとり、瓦屋根の美しい“古都”の創出をテーマとしており、村民体育館、保育所、デイサービスセンターも瓦葺としましたが、現在、工事中の役場庁舎も百済の里にあわせたデザインと瓦屋根で建築が進められています。 その他、街なみの修景木、国道橋梁デザイン、などにも古代史の舞台づくりが大きく進められています。 公園、神社、公共施設用地の管理も、老人クラブをはじめ、商工会婦人部、公民館活動などのボランティア活動が活発となり、美しい村づくりが動き始めました。 私達のふるさと百済の里南郷村は、活力ある文化の村として、また、若者が村に戻ってきたいと思わせるような魅力あふれる、そして高齢者の安らぐふるさとに生まれ変わろうとしています。とにかく、村の中に活力が見られるようになりました。村民の心の活性化からたしかなふる言とづくりが始まっています。 |