「ふるさとづくり'93」掲載 |
<集団の部>ふるさとづくり賞 |
何とかしなくちゃ―市井の女たちの地域活動― |
宮城県・あかねグループ |
1975年に始まった「国連婦人の10年」は、女性の大幅な平均寿命の伸びと相まって、私たち市井の片隅にひっそりと生活している名もない主婦のあり方にも大きな影響を与えた。 肩書きも、お金もない主婦たちが集まって、グループを作り、活動すれば何か出来るのか。「あかね」は、その一つの試みである。 1000円の会計簿から 子どもたちが独立し、夫を看取った福永は、灘神戸生協で福祉関係の仕事をしていた。定年まで何年かを残してはいたが、一人暮らしの老母の面倒を見るために、仙台に帰ってきた。 新たな職を求めて職業安定所へ赴いたが、 「あんだのとすでは、そうずふの口もねえよ」(注:あなたの年では、掃除婦の口もないよ)という言葉が返ってくるだけであった。 「働き口がないなら、自分で作ればいいじゃないか」 思い直した福永は、得意の料理の腕を生かして、クッキングサロンを開いた。生徒募集のチラシを手書きして、近所の肉屋さんに置いてもらった。 そこに集まったメンバーは学び合い、趣味としての料理を楽しむ他に、もう一つ「ディナー配達」を試みた。近所に性む美容師、会社員、出版業など仕事を持つ女性の家庭に、週に1度、計15人分の夕食を届けた。これが、新聞に取り上げられ、思いを同じくする主婦たちからの反響があったのである。 それが一つのきっかけにもなって、昭和57年2月3日、クッキングサロンの主婦10人を核に、あかねグループは誕生した。 「女性の夜明けを明けゆく茜色の空に託し、女の生きがいを燃える色に象徴させて」 これが、命名の由来である。 それにしても、文無しグループなのだ。とりあえず、10人の連絡網を作り、代表者から電話をもらうようにと、一人100円ずつ預けた1,000円が、最初の会計簿であった。 第1回シンポジウム 同年、新宿で開かれた福祉シンポジウムに、あかねの代表者が参加した。 「女は3度、老いを看る。」 というショッキングな帰仙報告に、会員は吸い込まれ、胸を高鳴らせ、やがて、「この仙台でもシンポジウムを開き、学習を深めたい」という気運が盛り上がった。 ラジオの電波を惜りて、宮城県下に実行委員を募った。 「老いに関わるシンポジウムを一緒にやりませんか!」 さまざまな団体、個人からの申込みがあり、男性2名を含む総勢約50名の実行委員会が発足し、その年の秋、「第1回みやぎ女の自立と老いを考えるシンポジウム」が開催された。 遠く神戸や所沢、東北各県からも女たちは駆けつけてきた。会場は、参加者全員が燃えるような雰囲気であった。フロアから次々と手が上がり、涙と共に体験が吐露された。家庭という密室の中で、嫁1人が、辛く長い老いの看取りに歯を食いしばる。親の世代の看取りが終わり、夫を看取ったあとは、ボロボロになってしまったわが身の老いと向き合わねばならない。女たちが、その耐えてきた分だけ、発散度は激しいもののように思えた。 あかねグループとは このシンポジウムは、あかねグループの方向を決定づける大きな要因となった。老人介護ヘルパー、老人給食宅配、老人テレフォンなどの新たな実践活動が生まれたのである。 本年6月まで、あかねの活動は、主体となる7部と、2班1局を通して行われてきた。調理・手仕事・託児・仕入・福祉・編集・エルダーの各部と、老人食・老人テレフォンのボランティア各班および事務局である。会員は、仙台に住む主婦約70名で、通常活動は、あかねセンター(昭和2年モノの木造平屋建て。市内南小泉)で行われている。 活動は、ボランティアを基本とするが、もう一つの柱に「有償非営利サービス」を取り入れている。これは、活動に責任と広がり、継続性を持たせ、若い人にも受け入れられ、そして相手に遠慮を感じさせない対等さを保つためてある。この「授産」活動として、あかねセールを開いたり、福祉サービスに経費の実費負担を取り入れたりしている。 会員は、一つの部だけに所属するとは限らず、関心の赴くところ、自分に許された時間に従って、いくつかを選択する。入会希望者は、事務局から「何か出来ますか」と質問されるが、この「何」は、実は何でもいいのだ。自分が一番楽しいこと、やりたいと思うこと、そこから活動は始まる。あかねは、「自分自身の活動を、自ら見つけ、創り出す」場である。 大変緩やかな規則、崩れそうで崩れないしなやかな部分、一見ルーズでまとまりがないのに、気がついてみたら10年の積み重ねができていた。 料理好きな人この指とまれ! 「あかねの弁当は、全部食べられるものばかり」なのが、人気の秘密のようだ。老人クラブのお花見弁当、主婦サークルのパーティー料理、PTAの役員会など、予約が来る度に必死でメニューを考え、調理する。煮物・あえも の・酢の物などバラエティに富んだ内容で、赤いサクランボやビニールの青笹などは、一切使わない。 調理部員は、「好きなことで人の役に立ち、時に多少の収入を得ることができるならば」と思っている。そのために、調理講習会や子ども料理教室やあかねセールヘの出品なども行っている。 将来は、子どものおやつのあり方や成人病の人のための食事づくりなども研究してみたいと思っている。 夢はシルバーファッションの製作 あかねセールをきっかけに結成された手仕事部は、講習会を月1回開催し、あかねセールに出品するほか、地域の子どもたちを相手に、「夏休み子ども手芸教室」を定着化させ、男の子も参加できる工芸教室なども開いた。 また、主婦の友社から購入した製品を元に、改良を重ね、あかね式介護ねまきを作成した。これが各方面に注目され、社会福祉協議会主催の婦人ボランティア講座などに講師として呼ばれるようになった。 老人には、明るい、こざっぱりとした着ごこちの良い日常着が必要だ。介護ねまきからシルバーファッションヘ、お年寄りが快適に過ごせるよう手助けがてきたらと、部員一同研究を続けている。 子連れママヘの応援歌 最近の若いお母さんたちは、子育て中でも社会参加や学習意欲が旺盛である。託児部は、このような時代の背景があって生まれた。 初めは、無認可保育所の「あかね子供園」をあかねセンター内に作った。お姑さんを看護するため託児にきたお嫁さんやインドネシア人のお母さんが日本語を習うための依頼などもあった。 しかし、働く女性は、子どもを朝早く預け、夕方引き取りにくる。その時間帯は、主婦である託児部員にとっても忙しい時間なのだ。そこで、短期保育の申し込みに対して、部員がローテーションを組んで対応することにした。 託児部は、意欲的な女性を支援するため、講習会や集会、映画鑑賞会などの会場への出向保育も行っている。 おいしく安全なものを求めて 添加物の少ない、安全でおいしく、かつ、手ごろな値段のものを食べたい、食べさせたいという母親としてごく当たり前の願いから、仕入部が結成された。 「その上地に根ざした食品、地場産品、生産者と消費者とがお互い顔の見える関係、これこそが本物の食物といえる。」と語る東北大学の先生を、半ば強引に顧問に迎え、ずいぶん多くの生産現場を歩いた。そして、田尻(県内)の手作りハムグループ、有機農法野菜のおだまき会(仙台市内の農業婦人産直グループ)、大衡村(県内)フルーツジュースの会、秋田角館のまどかグループ等々数え切れないほどの交流を重ねてきた。 そんな中から、仕入部は、共同購入の幅を広め、。良心的な生産者をバックアップしてゆきたいという思いを強くしている。 老いを支えるネットワーク 保健所から入った1本の介護依頼の電話をきっかけに、老いの看取りの現場に行くことになった福祉部員は、その光景に強い衝撃を受けた。 24時間の付き添いと家事、育児、農家の嫁としての農作業。孤立無援の中で老いの看取りに耐えている嫁の姿を見過ごすことは出来ないと、八木が老人介護ヘルパー第1号に名乗りをあげた。寝たきりの舅の足をさする、床ずれ防止の体位交換をする、水を飲ませる、姑を30分おきにポータブルトイレに連れて行き、その間に話し相手になる。週1回2時間、そのお宅を訪問する介護ヘルパーは、2人の老人にとっても、嫁にとっても、不可欠の存在になっていた。 「自分が老いた時、誰に看取ってもらいたいか」という質問には、「妻・嫁・娘」と答える人が多いという。だが、1人っ子同士の結婚が増えると予想される中で、自分の老後を希望どおりに「血縁の女性」に託すことが可能なのだろうか。「在宅介護は安上がり」というけれど、細やかに行き届いたケアをするには、食事、買い物、掃除、医者通いの付き添い等々、実に多くのものが要るはずだ。 より社会化された看取りの体制を一刻も早く作る必要を感じつつ、福祉部は、介護ヘルパーを通して、老人には何が出来て、何が出来ないかを学ぶ日々だ。 福祉部は、老人ホーム等各種施設での福祉活動や清掃ボランティア、地域に向けた様々な学習活動も行っている。 ゼロからの出発 ある日、福祉部の佐藤がヘルパーとして訪問した時、老人はひっそりと、もやしのおひたし一皿でお昼ごはんを食べていた。 「そんなの見ていられないわ。私たちで作って届けましょう」 それを聞いた部員は一斉に、老人給食サービス開始に向けての真剣な討論を始めた。相当な困難が予想されたが、仙台市近辺を調べてみると、やはり民間ボランティアだけの老人給食の例がない。知り得る限りの公的機関に支援を訴えたが、全て空しかった。 八方ふさがりの中で福永は言った。 「この活動こそ高齢化社会の最も重要なメニューだと思う。自分たちだけででもやりましょう。窓を開ければ風は吹き込むわ。老人に明日はない」 チャリティバザーで生みだした6万円を設備購入に当て、保健所の保健婦・栄養士さんから献立づくりのアドバイスを受けた。ご近所のお年寄りやマスコミ関係者の人たちに試食をしてもらったら、翌日の新聞に老人給食のことが4段抜きで報道された。 申し込みが殺到した。 ずいぶん遠くからの希望もあったが、調理室の広さやボランティアの人数から、現時点でも、月2回、センター近辺の約30人にしか配れない状況なのである。申し訳なくお断りした方から、「待っていますから、どうぞ頑張って下さいね」と、逆に励まされ、自分たちの非力さが悲しかった。 もう、どうしたらいいのか? 老人給食から1人暮らしのお年寄りが、どんなに話し相手を欲しがっているかを知り、老人テレフォンを開設した。まったくの素人としてどこまでやれるか、自信も見通しもないまま、「やるっきゃない」のあかね精神で、第1歩を踏み出した。月―回、専門医の話を聞くなどさざまな学習会を開いて、相談員としての資質を少しでも高めようと努力している。 未熟な己を認識しながらも、毎週火曜日、いつかかってくるか分からない電話を前に、ヒヤヒヤの状態が続いていくのである。 ナイスエイジを目指して 「私ね、昨年60の大台に乗ったんだけど、体力的に衰えてきてみんなについていけなくなったから、あかねを止めて老人クラブに入ろうかと思っているのよ」 女の人生ロングランでいきましょう、を合い言葉に励まし合ってきたあかねとして、前代の彼女たちの声を見過ごすわけにはいかない。大正生まれの会員が数回話し合って、エルダー班が誕生した。活動目標は、「親睦」「教養」「社会参加」「連携」などである。発展途上ではあるが、これからあかねの中でも重要な役割を担う芽を待っているはずだ。 安心して老いられるまち 本年6月、あかねは、活動10周年を機に組織を新たにした。在宅福祉をさらに充実させるため、会員の共通活動としての食事サービスチームを設け、一方ではゆとりと楽しさのあるサークル活動なども取り入れた。また、9月には、東北各県に実行委員を募り、「高齢化社会を良くする会」の全国シンポジウムを仙台で開催した。県と仙台市にも共催者として協力をいただいた。 夫の転勤に伴い国内外にこの運動を広めた会員たちや多様なあかね活動を通して培った数々のネットワークに加えて、このシンポジウムは、交流の輪がより一層広まる契機にもなった。そして、あかね活動に続こうとする相談の電話が、市内外を問わず、さらに増えている。 仙台の一隅で、10年の試行錯誤を繰り返しながら先駆的に積み重ねてきたノウハウとネットワークを生かして、各方面にこの運動が広がるようリード役を果たさなければ―――あかねは、その期待と責任を強く感じている。もちろん、これからのさまざまな福祉問題の解決にとっては、住民活動への行政援助も不可欠であり、公的機関への働きかけと協力体制がますます重要になるであろう。 「地域に役立ちながら、女の人生80年が充実する町」 「安心して老いられるまち、一人になっても、身体が不自由になっても人間らしく生きられるまち、仙台」 あかねは、そんなふるさとづくりを目指している。 語り部後記 最後に、あかねの語り部、編集部のPR。 機関誌「あかね」(年3回)、出版物「社の都より」(老いの看取り体験手記集)、「思秋季よさようなら」(創立4周年記録)、「なんとかしなくちゃ」(創立7周年記録)、「今、フレッシュメイトが楽しい」ほか。 「高齢化社会とは、平和と豊かさが人間に与えた贈り物である。戦争・飢餓・貧困・病苦などの克服をなし得た人間が、それと同じ叡知で、この最も人間的な営みである老いの問題を克服していくことを私は信じる。その運動の旗頭こそは、老いと身近かに向き合う女をおいて他にない。会の成功を祈る」(あかねの会報に寄せられたメッセージより)。 |