「ふるさとづくり'93」掲載 |
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞 |
心の通う豊かな街づくり |
奈良県・西奈良ふるさとづくり交歓委員会 |
学園前開発の状況 訪れた人たちがしばし時の流れに思いを馳せ、心をいやす古都奈良。今も平城京は、1300年の歴史の薫りを鮮やかに伝えてくれます。時代が移り変わっても、人はどこかでつながっている、そのような気持ちにさせてくれる心のふるさとが、奈良なのです。 私たちの住む学園前は、その奈良市西部、大阪のベッドタウンとして急速に発展してきた新興住宅地です。その発展の歩みは、日本の高度経済成長と軌を一にしています。 それは昭和25年、近鉄が分譲を開始した時に始まります。当時は、帝塚山中学があるだけで、駅も生徒の登下校時だけに電車が停まる上うな閑散とした場所でした。赤松林の続くながらかな丘陵地帯で、今も坂の多い街並みがその面影をわずかに残しています。 昭和30年代に入ると本格的な開発が進められ、駅を中心として学園前は南北へと急速に広がりを見せていきます。豊かな自然に加え、大阪までわずか30分という条件は、住宅地として申し分ありません。赤松林が消え、茶褐色の地肌が見えたかと思うと、たちまちそこに様々な形の住宅が建設され、多くの人が移り住んできました。かつては、朝夕に学生だけが乗り降りしていた学園前駅にも通勤客が加わりました。電車の連結は年ごとに増え、ラッシュ時には何台も出発していきます。 今や、学園前住宅地の人口は約127,000人、奈良市全体の約36%を占め、関西でも有数の住宅地として「学園前」の名は知られるようになりました。 街としての形成 多くの住民が他の土地から移り住み、そして大阪への通勤者から成る学園前は、文字どおり「ベッドタウン」としてスタートしました。移り住んだ人たちはお互いを知らず、また働き盛りの世代の多かったことから、自分たちの生活を確立することに精一杯でした。団地にはいわゆる「核家族」が多く、人間関係は薄いものとならざるをえませんてした。 街としての発展は、生活に必要なものから始まります。学園前駅を中心として、北口にショッピングセンターが建設され、その周辺に病院、郵便局、銀行、電話局、学校などがドーナツ状に次々と開設されました。 また昭和35年、駅の南東の地に近鉄の手によって大和文華館が建設されましたが、この時期から、この地を文化的な薫りの高い街として発展させ上うという考えが人々の心の中に芽生え出したように感じます。 徐々に街としての体裁が整ってくるにつれ、住民にも「街」が意識されるようになってきました。そうしますと当然のことながら、同じ土地に住む者として心のつながりを求めます。そのために共に集える場所を、という願いがおこりました。 昭和46年7月、県の大きな力添えにより、待望の西奈良県民センターが登美ケ丘に開設されました。鉄筋コンクリート2階建て、延べ1,135平方討の建物のほか、運動場、児童公園等を備えた施設は、大和文華飾同様住民の文化意識を高めてくれるのに十分なものでした。 人のつながりの発展 こうして萌芽したふるさと意識を何とか確かなものにしようとして発足しだのが、西奈良ふるさとづくり交歓委員会でした。 昭和47年8月、県民センターを拠点として第1回目の会合を開催し、様々な企画を行いました。書道会、生活学校、囲碁クラブ等々、その輪は地の波紋のように広がり、日曜日には各部屋が満員になるほどの盛況でした。硬式テニスの愛好者がクラブを作り、スポーツ面での活動も広がりはじめました。 活動を通して心のつながりが生まれだすと、いろいろな所から「県民センター1周年を記念して盆踊りをやろう」という声が上がりました。しかし、構想はできても満足な予算はなく、やぐらも太鼓もありません。結局、各自治会で提灯を用意し、鉄パイプのやぐらとレコードによる音頭ということで落着きました。駆けずり回って、わずかながらも屋台や夜店を出すことがてきました。こうして第1回の盆踊りが開催されたのです。 盆踊りを街の名物にしようとの声が高まり、翌48年からさらに多くの人の参加と協力を得て充実を図りました。やぐらは借物でしたが立派な太鼓も手に入り、子供からお年寄りまで5000人を越す住民の参加する太盆踊り大会となりました。専門家に頼めばやぐら作りや会場設営も手っ取り早くできるのですが、あくまでも自分たちで出来ることは自分たちで、という考えから、金魚すくいややぐら作りなどについては自分たちの手で、という基本方針は変えませんでした。手作りのふるさとづくり、街づくりが私たちの願いでしたから。 盆踊りは、さらに10月10日の体育の日の「ふるさと親子祭」へと発展しました。これは親と子が共にみこしをかつぐという、親子、地域のふれあいを目指した催しです。毎日仕事で忙しい父親も多く、またさまざまな意見もあり、実施に移すまでには困難なこともありましたが、多くの人たちの支えがあり、9台のみこしの参加のもと実現にこぎつけました。 模索の中で始まった交歓委員会の運営も、今では自治会、婦人会、万年青年クラブ、子供会、スポーツクラブ等36団体から構成され、多岐にわたる活動を行っています。 交歓委員会の果たした役割 自分のふるさとから離れて移り住んできた人たちによるふるさとづくり。それは、まさに無から有を生み出す活動でした。物心両面での多くの困難を乗り越え、それなりの成果を上げることができた原動力は、人と人とのつながりを求めたいという一心でした。 交歓委員会では、住民の心を束ねるには、みんなが参加できる行事を実施すること、また、心を交わすことのてきるクラブをたくさん育成することと考え実行してきました。そして、委員会として一定の役割を果たしてきました。しかし、回を重ねるにつれ参加者の固定化等による様々な課題が生じました。 それをどう克服していくか、それに対する私たちの回答は、新住民だけによる街づくりではどうしても限界がある、そこでまず、元から住んておられる人達の声を大切にすること、それに、行事を学園前住民だけのものとする挟い考えてはなく、かつて自分のふるさとであった、あるいはそれによく似た風景や習慣をもつ他の町や村との連携を積極的に深め拡大することである、と考えました。つまり、幹ができても根を広げ、枝を坤ばし、葉を繁らせなければ、樹木は枯れてしまうと考えたのです。 こうして生まれた行事が「ふれあいプラザまつり」で、今年で5回目の開催となります。これは交歓委員会が県や市に働きかけて誕生した事業ですが、企業や自治体等30団体以上の協賛もあり、「子供百人知恵くらべ」、「ふれあいフォークダンス」、「特産品市」など世代間を超えて楽しむことができる私たちの大イベントです。 開発当初に移ってきた家庭では、そのとき子供であった世代が、今まさに働き盛りを迎え、孫の世代が元気に学校に通っています。 第1世代にとっては、親兄弟と共に過ごしたふるさとから離れ、移り住んできたこの地が、第2世代、第3世代にとっては幼なじみのいる自分の「ふるさと」になったのです。盆踊りの季節には、それぞれのふるさとに帰省していた時代から、ここで生まれ、仕事であるいは結婚して他の地域に移り住んでいる子供たちが、この学園前に帰省してくる時代に変わりつつあるのです。 歴史の浅いこの街に、子供からお年寄りまで多くの人のつながりと活気が生まれてきたことが何よりもうれしく思います。交歓委員会が少なからず、それに支援していることが私たちの誇りとなっています。 今後の課題と展望 これからの社会の大きな課題の1つとして、高齢化問題があります。学園前でも第1世代の高齢化が進み、新たなコミュニティ作りが求められているように思われます。 その方向は、高齢化に対応した生涯教育の核となる街づくりではないかと考えています。幸い、この地域は文化的条件に恵まれています。その利点を生かしながら、子供からお年寄りまで地域が一体となった教育環境を作り上げることを新たな街づくりの目標の1つとしていきたいと考えています。 2つ目の課題は、先にも述べましたが、今まで行ってきた行事についての見直しとマンネリ化の打破ということであろうと考えます。伝統を確実に引き継ぐことと昨年どおり行なえば大過なしというマンネリ化とは、言わば表裏の関係にあるといえます。常に住民のニーズに耳を傾けよりよいものにしよう、新しいものを発見しようという気持ちで行事に当たらなければ、たちまち新鮮さを失い、その時点から住民の遊離が始まると思っております。その点で、肩ひじを張らない程度の緊張感をもちつつ、「ふるさと学園前」の伝統となった行事を見直していきたいと考えます。 文化とは人と人とのつながりです。私たちの街づくりの活動は、人のつながりを求めて始まったものてすから、それを文化的なものに高めていくのは決して難しいことではないはずです。その過程でまた豊かな人間関係と新たな活力が生まれてくるでしょう。 平城京のような長い歴史はなくても、人の心のつながりを感じさせる、豊かな心のふるさととして、私たちの街を育てていきたいと思っています。 |