「ふるさとづくり'93」掲載
<集団の部>

小さな台所から世界ヘ
熊本県・木魂館料理グループ「ピッコロクッチーナ」
活動の概要

 世界的な細菌学者〜北里柴三郎博士の生誕の地に立つ私たちの活動の舞台「木魂館」(研修宿泊施設)は、北里博士の志「ひとづくりは学習と交流から」を受け継ぎ、未来につなげようと構想された“学びやの里計画”の中心施設です。現在、全国各地あるいは世界から訪れる人々と町民との間でさまざまなふれあいが生まれており、町の交流センターとしての役割を拒っています。
 全国各地で頑張っている地域づくりグループや諸外国の人達、それに音楽を始めとした多くの文化活動のグループとの交流会やパーティなどの食事業務を受け持ちながら、同時に小国の新しい食文化の創造に向けて日々研讃に努めています。
 ピッコロクッチーナ〜小さな台所と名付けられた私たちのグループは、地元の農家の婦人たちが集まって結成されたもので、文字どおりちっちゃな台所から大きな夢(地元の産物を活かした世界の料理)を描いて頑張っています。これからも地域づくりの担い手として、料理を通した交流をもっと図り「輝く地域」を次代の子どもたちに伝えたいと思っています。


活動の記録

(1)人生とは出会いである。
 昭和63年11月に開館した研修宿泊施設〜木魂館。私たちが、この施設の建設計画を知ったのは建設の3年前の昭和60年でした。
 この年は、私たちの町が町制施行50周年を迎えた記念すべき年でもありました。反面250年続いた小国林業にとって最大の危機に直面した年でもあったのです。低迷する木材価格は町の活力までも奪おうしていました。
 そんな折、来るべき21世紀に豊かで魅力的な地域を創造しようと特産の杉を活かしたまちづくりのシナリオ“悠木の里づくり”が構想されました。そしてシナリオに沿ってさまざまなアクションが実行にうつされたのです。
 なかでも、小国杉を使って建設された小国ドーム(町民体育館)に代表される一連の大型の木造建造物の数々は全国の注目を集め、多くの人が訪れました。このシナリオの中で人づくりの拠点施設として建設が計画されたのが木魂館でした。
 木魂館が北里博士の生誕の地である私たちの住む北里地区に立つことが分かった時「私たちは何らかの形で参加できたら」との望みを持っていました。多くの地域で施設と地域がかけ離れるケースを見てきた私たちにとって、「木魂館を私たちの宝にしたい」との思いが強く募るのを感じたのでした。つまり「将来、子どもや孫だちとこの地域で暮らしていくためにも今、自分たちのできることから始めよう。そのためにもこのチャンスを活かしたい」と思ったからでした。ただそんな思いとは裏腹に「私たちが具体的にできることってなんだろう」との不安が生じたのも事実でした。しかしながら、研修宿泊施設ということは食事を提供しなければなりません。ということは「その手伝いだったらできるかしら」とのぼんやりとした期待が私たちの胸に生まれたのです。
 建設の2年前に当該地区を主とした食事係の一般公募が管理運営検討計画チームの呼びかけで始まりました。私たちは仲間と連れだってその説明会に出席したのですが、話を伺ううちに事の重大さに驚ろかされました。手伝いどころか私たちに調理をまかすというのです。ほとんどが農家の主婦の私たちにとってこの提案は“寝耳に水”といえるほどのものでした。しかしながら、ここで引き下がっては男、いや女が下がります。小国地方の方言に物事を深く考えず、つっ走る人のことを表現して“とっぱす”という言葉がありますが、まさしく私たちはその時“とっぱす”となって引き受けてしまいました。
 それからというもの、仲間の家に集まっては料理の学習を積んだのですが、残念ながら思うほどには進みません。どうしても山菜や昔ながらの調理にこだわってしまい、人さまに出せるものには到達できないのです。「やはりズブの素人には無理なのかしら」とあきらめようとした時、計画チームからひとりの料理研究家が紹介されました。それが山崎純子先生との出会いでした。「人生とは人と人との出会いである」とおっしゃったのは郷土の偉人北里博士でしたが、まさしくその出会いの第一歩が始まったのです。山崎先生はその足で世界を歩き回り料理を研究している方で、「火と鍋があればどんな料理でも調理できる」という考えの持ち主で、実際、北海道の置戸町で地元の婦人グループをご指導していらっしゃるということでした。
 初めて先生のご指導を受ける日、わたしたちは妙に緊張していました。「こわい先生だったら」とかあるいは「素人は相手にできないと断られたらどうしよう」とか……。ところがお会いしてみると、とっても気さくでそれでいて上品さの漂う素敵な方でした。そして私たちにご指導されたのが「地元の産物を活かした世界の料理」だったのです。
 最初に、素人でも簡単にできそうな料理を36種類、地元の物を使って教えて下さいました。でもその後が大変。先生が帰られてからの私たちの混乱ぶりは、今思えばおかしいばかりです。毎週いや毎日といっていいくらい調理の実習を個人や集会所の厨房を借りて行いました。そしてそれは13名のメンバーひとりひとりが自分のものにするまで続けられました。
 特に、味の統一を図るのが、一番難しい課題でした。人の味覚とは人それぞれ違います。そのためにうす味にすることに心がけたのです。木魂館の設計チームや家族を研修者に仕立てての練習をしたりしながら、開館に向かっての準備を進めていったのです。


SINCE1988

 1988年11月。木魂館は開館しました。いよいよ、この2年間積み重ねてきた私たちの活動をお披露目する日がやって来たのです。
 最初に作ったのが開館パーティの料理。緊張と期待の渦巻く中、私たちのステージの幕があきました。「美味しい」「めずらしい」など多くの声が会場から聞こえてきました。そのときの私たちと言ったら、まるで子どものように「うれしい!」と素直に驚嘆の声を発したのです。
 あれから4年。ピッコロクッチーナも大きく成長しました。メンバーこそ家庭の理由などで10名と若干減りましたが、私たちの子どもたちが“ピッコロクッチーナジュニア”として学校の休みなどには手伝ってくれますし、メニューも自分たちが独自に開発したものも加えて単品で350種類と増え、全員調理師の免許も取得しプロとしての自覚を持って楽しくやれるようになりました。また、料理の担い手が普通の主婦ということで、例えば食卓や地域のお祭りや会合に出たりしています。特に、長い間ほとんどメニューの変わらなかったお祭りの接待料理の仲間入りのできたことは、新しい文化の遺伝子として組み込まれたような気がしています。あるいは町内の旅館や飲食関係者を集めた「クッキングセミナー」を開催したりして、その普及に力を入れています。今年からは、メンバーが農家の主婦ということもあって、自前の農園で安全な野菜も供給しています。来春には、私たちの活動をまとめた本も出版の予定です。
 私たちの取り組みを農山村の活性化のきっかけにしようと、多くの地域から視察・研修においでになります。具体的には長野県や福岡県などに私たちの活動をモデルにした施設も誕生しています。料理を通しての交流から、今まで家庭と地域しか知らなかった私たちの視野も広がり、家庭の話題づくりにも1役かっています。例えば都市から嫁いだ嫁とのコミュニケーションが図れるようになりました。また、神戸や大阪といったグルメ先進地への視察研修を通して多くのことを学ぶこともできましたし、近い将来、外国への研修も計画しており、夢は広がるばかりです。来年度には、私たちの活動の場も「小さな台所」から、もう少し大きなものへと脱皮が図られそうです。ハードがとかく先行しがちな風潮の中で、私たちはハード、ソフト、ハードとうまく連関させることができていると思っています。私たちの小さな取り組みが、いろんな地域へと波及し、共に心豊かな暮らしができる農山村が実現できればと夢をふくらませています。
「時代の転換期に地域の可能性をさぐり、将来像を模索するための志向や活動を刺激し増幅させる場所や機会」を創造するために、私たちは地域内部の動きに即して、じっくりと個性を育てるという行為を基本に行ってきました。地域の女性をネットワークし、食事のサービスの提供という経済的側面と新しい郷土料理の研究(地元産物を活かした世界の料理)という学習的側面を備え、地域が必要とするものを提供することによって、自分たちの職場を創り出そうという考え方は、いいかえれば「地域が学校であり職場である」という発想ともいえるものです。