「ふるさとづくり'93」掲載
<自治体の部>ふるさとづくり賞

地域素材を生かした村おこし
長野県 鬼無里村
村名のおこり

 長野県鬼無里村は、多くの伝説に語られるように、その村名のおこりは大変古いとされています。一説によると天武天皇の遷都計画がこの地に棲息する鬼共に伝わり、鬼共は自分達の住家を無くす事を憂い、一夜にして山を築き妨害した。天武天皇はこれに怒り、命令によって鬼共を征伐してしまった。この地に鬼がいなくなり、「鬼無里」と言われるようになったという。最近では、平安の時代源経基(みなもとつねもと)公の側室であった紅葉(もみじ=幼名を紅葉)にまつわる鬼女紅葉伝説が、村名のおこりと言われるようになっています。この伝説を裏付けるような地名が今でも村内に残っており、東京(ひがしきょう)・西京(にしきょう)・二条・三条・四条・五条・高尾などは、京都を惚ぶ紅葉がつけた地名とされています。
 春にはこぶし・桜・ショウジョウバカマにヤマブキ、シラネアオイやニリンソウ、きわめつけは本邦一と言われる水ばしょうの群生地。夏の小鳥の声と清流の音、秋は紅葉ときのこ類など、大自然に恵まれた鬼無里村です。


「伝説の里・鬼無里村です」

 同時に、古くから語り継がれた伝説の宝庫でもあります。「鬼無里村」は、読み方の難しい全国の地名にもあげられています。そこで、「きなさ」という響きの良い読み方と村名を多くの方々に知っていただくため、また、村のイメージアップのためにイメージコールを発信しています。イメージコールとは、村役場・村教育委員会・村公民館へお電話を頂いた際、必ず職員が、「伝説の里・鬼無里村役場です」。春の水ばしょうのシーズンには、「水ばしょうの鬼無里村教育委員会です」。また、秋には「もみじの里・鬼無里村公民館です」と言って、電話をお掛け下さった方に、まず鬼無里に掛かったという安心感にあわせ、村のイメージアップを計っているところであり、皆様からありがたい反響をいただいております。


都市との交流で村民もいきいき

 山村の特徴をいかに生かすか大きな課題でありますが、昭和62年には、信州の明るいイメージである唐松林を、都会の夢をもつ皆様に山のふもとにいる村民が、力を併せて緑づくりを進める分前青林事業を実施。―口20万円で30年間山づくりに励み、その収益を分け合おうというものですが、当時の木材価格の推移では、財産形成にはならない事をご承知で契約される背景には、財形により今自分が、地球の一点を緑化できるという夢と山間地域との心の交流があるからです。山持ちもこの事業により、森林づくりが3Kと言われる中で都市での関心と、1年に1度
産品の発送や村を訪れるオーナーとの交流で、同じ山仕事にも張り合いが持てると言っています。
 村には「ふるさとの館」という施設があります。これは村内で古くなった民家を移築し、宿泊施設に改造し村内外のみなさまに解放して、「ふるさと鬼無里」を味わっていただいています。この施設は、いろりを囲み古い居間で自由に語り合い、希望によっては地域の生活改善に取り組んでいる主婦が、交代で鬼無里の味を提供しています。周囲は森で囲まれ、夜は全く雑音がなくなり、自分自身の人間の音が微かに楽しめる、そんな雰囲気が都会の若者にもうけ、利用者が増えており、地域のイベント「ふるさと体験塾」も開かれております。


山村を意識した村おこし

 30年代の昔は、鬼無里出身をはっきり言えないのが青年の常識ぐらいに考えられていました。
 村の主産業は当時、炭焼き・麻加工・養蚕などであり、山猿と同居している位に言われ、山奥のイメージは村民にとっても決して誇りと言えるものではありませんてした。村民はイメージを自分達自身がつくり出している事に気づき、生活改善運動をいち早く取り組み、虚礼の廃止でお互いの経済を考え、日常生活にゆとりを求め、コミュニケーションを深めてきました。しかしながら、そう何事もうまく行くばかりではありません。石油・ビニールに押され、木炭・麻・蚕は衰退し就業形態に変化をきたしました。追い打ちをかけるオイルショックの頃から、村には山村の実態を生かす村おこしの気運が高まってまいり、まずは「山村内の自生している山菜に付加価値を高めて送り出しては……」と、森林組合に加工施設を設け、農・林泉の収穫する原料を全景集荷が農協とタイアップの中で実現。さらに工場へは40名が通年就労となりました。食品加工はその後全国へ波及しましたが、量産よりも安全食品として貫く生産方針は、今では首都圏生協・生活協同組合へ直接結びつき、安定経営につながっています。
 さらに木炭は、燃料以外での活用が注目される目前、炭焼き経験者が協力して「炭焼きものがたり」冊子を発刊。これを契機に木炭を活用しての材おこしが持ち上がり、平成元年にはついに全国へ呼びかけ「現代に炭はよみがえるか」をテーマに「炭おこしサミット」を開催、炭をおこして村おこしに取り組みました。1年おいて平成3年には、「炭で広がるさわやかライフ」とテーマを変え、まさに国民のくらしに快適さを与える木炭に大きな期待が集まり、参集者は北海道から沖縄県まで「炭おこしサミット」は拡大し、小さな村の大きな研修会となりました。材と森林組合はこのイベントをバネに、土壌改良資材「くろっこ鬼無里」、木酢液では「魔法の水」といった商標登録をして商品開発に成功しました。
 現在は「くろっこ鬼無里」や「魔法の水」が、全国から引き合いがある事は森林組合の活気をそそる事でもあり、また、村内では特産品である野沢菜漬の原料は、木炭や木酢液を使った安全商品として勧めています。


快適な生活環境を求めて

 観光としての入り込み客の増加を望んでいる実態の中で、村民自らの生活にゆとりと快適さもなくてはなりません。
 高齢化社会と言われていますが、あえて村では長寿社会と用語も意識し、長寿者福祉の中での介護は、在宅介護を原則とする村民研修を進めています。一人暮らしや二人暮らしの家庭は、ホームヘルパーや保健補導員のプロジェクトが週2回の安心コールを送っています。
 施設づくりでは、保育所と長寿者共同住宅をそれぞれ1階と3階の同じ棟にして、2階を時には幼児と長寿者がふれあえるスペースを取って、生きがいと生活文化の伝承を図っています。
 木炭ろ床浄化施設の研究は、下水道の完備まで程遠い我が村にとって、また、水源地域として重要な位置づけの中で進めています。し尿よりも汚濁の激しい家庭雑排水は、村民の食生活の向上に比例するごとく汚れを増しています。下水事業の推進は図りながらも、生活環境の快適さを求めて今日、木炭の浄化能力・脱臭能力に目をつけ、各家庭で活用すべく推進しています。
 この事業には婦人団体が大いに協力、浄化の経過を学習・視察を重ね、村内への設置を熱心に検討しています。
 住環境でも地域が協力して、各戸玄関までの舗装や山間部など家屋に山を背負っている家庭には、住宅排水事業を実施して宅地内の湿気排除を行い、快適な日常生活を送れるよう努めています。
 核家族化は避けられない事とし、村内に若者住宅を村が建設、結婚すると入居する事ができ、地域では新しい住民(元々が村民ではあるが)としてコミュニケーションを深めています。


村民あげて村おこし

 山林野は村土の85%を占めており、過去村有林の伐採により戦後の復興の財政的恩恵に浴してきました。そのほとんどがブナの原生林であり、このブナに感謝する気持ちと現世の森林がもつ公益的機能を認識し、村民あげてブナの植栽を進めています。ブナはフローリング床村として森林組合の業務を拡張、就労の揚が確保され、さらに副産物の製材から出るオガ粉をエノキ茸栽培に向け、近年では千万単位生産にこぎつけた農家が7軒生まれています。エノキ茸は村の旅館・民宿で地場産品として観光客に提供しています。
 村の特産品開発は、村民のいくつかのグループによって進められており、おやきブームも創りあげています。おやきは昔の常食としていたものを、現代風にアレンジ・冷凍技術により今では全国どこへでもお届けしています。おやきの具は野菜数種、きのこなど村内産を使うことにより農家の収益があがっています。首都圈でのイベントにも直販に出向く事が、販売促進と同時に村民にとっても東京を知るよい機会となっています。
 ふるさと体験館は、村外からふるさと鬼無里を訪れていただく方々が、「わらじを脱ぐ場」として案内所・地場産品の展示販売・土地の味覚の提供機能を備え、お客様を快くお迎えしています。ここで働く者は、村内の主婦が交代で出勤し「喫茶室わかこみ」と併せ、年中無休態勢が特徴と言えます。販売品は特定せず、村民個々が何を作ったら売れるか工夫し、数量も1袋からすべて扱うことも村民の生きがいとアイデアの創出につながっています。
 味の開発では、他にも伝説にちなんだ「紅葉の繕」などは地場産のキビ・平ゴマなど市販にない産品を生かして、「ふるさとの館」でメニューに取り入れ特徴を出しています。
 村を横断している国道406号沿線では農産物の直売所が開かれ、都会からのお客様に販売しながら、農家の皆さんは村の紹介をしながら、老若男女の考えるところを生の声として受けとめています。
 古くから語り継がれている鬼女紅葉伝説を伝える「信州鬼無里鬼女紅葉太鼓」は、村内に働く青年達が保存会を結成し、海外公演も含む村外での演奏も多く、鬼無里村の名声を高める事に貢献。同時に仲間づくりをしっかりさせながら、村内の小学生達にも師範役として技術の伝承に努めています。
 このような村の誇りを自ら見つける努力が功を奏し、子供達の間でも村を誇りとする気運が高まっており、NHK中学生日記の番組へ体験談を投稿したことがきっかけとなって自演による番組制作となり、放映後は全国から寄せられた声援が自信となって、高校へ進んでも「鬼無里村」を決してひがむ事なく誇りとするようになってまいりました。
 今、鬼無里村は村づくりスローガンに「時を磨く村・鬼無里」を据え、過去、現在を磨き未来へ光を放つ、そんな気構えで村おこしを力強く進めております。