「ふるさとづくり'95」掲載 |
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞 主催者賞 |
市民による独創的な文化を次世代に継承 |
北海道函館市 市民創作「函館野外劇の会」 |
1987年3月に、何か新しい芝居を作るんだと声をかけられた20人ぐらいのメンバーがざわざわと集まって酒を飲んでいた。 たいがいは知った顔だったが、まったく知らない顔を見つけて戸惑っている人もいた。やがて、中心になるというフランス人、フィリップ・グロード神父が紹介された。「五稜郭で野外劇をやります。がんばりましょう」単にこれだけで始まった。 劇と名がついているので舞台に関係のある人が多かったが、趣旨が理解できない人の方が多かった。街づくりで参加していた人は「俺たちは交通整理でもしていればいいんだべ」という顔だ。野外劇に対しての共通の認識は空中戦の内に消えて行く。言い出しっぺの神父の故郷に手本らしきものがあり、今では観客28万人、利益でFM局を作ったり、鉄道を買い取ったり、ブロードウェイの制作者が見に来るという。そんならと有志が見学旅行に出かけることになった。それぞれのメンバーが自分の課題をかかえて、報道陣にはやしたてられて出発した。 がんじがらめの条件をくぐり抜け フランスでは、3種類のそれらしきものを見た。何といってもル・ピィ・デュフの野外劇は圧巻で全員呆然としてしまった。しかし、自分達の課題を調整しだすと我々にも可能だと結論を出した。 それにしても問題は大きかった。ル・ピィ・デュフの様な恵まれた条件は一切ないと言ってよい。我々が上演しようとしている五稜郭は国の特別史跡で、今までの経験からその公園内でイベントを企画する時の難しさは並大抵でないことを知っている。条例でがんじがらめになっているのをくぐり抜けてきているのだ。 案の定、ここがひっかかった。文化庁、その下で管理責任のある市の文化財課。上から下から「あーでもない。こーでもない」とにかく責任は一切そちらで持ち、何か地域住民から問題が起きたら即中止、公演中の事故も即中止、要するに自分達がどんな責任でも持つというならやればということ。 今でもゾッとするのだが、公演のために、文化財である石垣が崩れたら、それは責任を持って補修(補修料1カ所4000万円)することを言われた。この6年間で何ヵ所崩れたことか。 ボランティアによる市民参加 予算をたてる時に、総額5億円と算出するものがいた。そしてそれを真面目に考えて動きだした。 当然のことながら挫折につぐ挫折。それでも今まで函館の街で企画された市民主体の事業では最高の予算5000万円が確定された。収入は切符の売上げ3600万円(前売1、800円×2万人)、広告収入1000万円、補助金等500万円、会費500万円(500円×1万人)。すべてボランティアによるため事務費は経費のみ。それからシナリオ原稿、シンボルマーク、参加者を市民に対し公募を始めた。 まず、シナリオ。公募した作品を地元出身の詩人に構成してもらった。マークは中学の先生の作品がほのぼのとしていると採用。 演出団を構成してシナリオの分析・上演の方法を検討。当初予定した公演場所は条件に不適合と判断、場所を変更した。 2万人の入場者を確保するためには、1回の入場者が2000人を超えても可能な座席をつくり10回の公演をしなければ予算と合わなくなる。 対岸30mの堀を挟んで、公園の内側を舞台とし、堀の上に能舞台にも似た水上舞台を作る。堀の外側(一般の人の生活道路にもなっている)に客席を設置。堀に沿っての横に長い舞台ながら土手の上も利用すると一番遠いところで客席前列からでも約100メートル。いわゆる間口は200メートル。馬が走り技ける距離は300メートル。このロケーションに見合うようにシナリオを道南の歴史にできるだけ忠実に、箱館戦争を中心に作りあげた。 迷案奇策に振り回されながら 北海道の歴史は浅いと言われているが、それはとんでもない話で、それなりの歴史が脈々と続いている。 まして、道南・函館は本州各地よりも外国との交流ということでは独自のものがあった。恵まれた良港を持った函館は世界地図のほとんどに“ハコダディ”として長崎と並んで載っているものが多い。 そこに五稜の西洋式城郭を持っていることは、しかもそれが現存しているのは世界でも1、2を数える程しかないので、知る人ぞ知る宝物なのだ。そんな中で限定されながらもプランがねられる。 堀に浮かべる船はボート屋のを借りよう。侍大将が乗る馬は道産子が居るから頼もう。お祭りはおみこし集団にお願い。この辺ならまだ正常。ヘリコプターを飛ばして空からレーザー光線をうとう。100メートルの塔を立てて星を飾ろう。黒船を同じ大きさに造りせめて先の方だけでも浮かべよう。鮭にリモコンをつけて操作し堀を行ったり来たり、着弾のために地面に爆薬と、次から次と出される迷案奇策に振り回された。客席の上にかもめが舞う、人が空から客席に挨拶をする等はまだしつこく追及しているが………。 本場ル・ピィ・デュフに追いつきたいがため基礎固めを忘れてしまうことが多かったが、何をおいても参加する市民が必要である。役として必要な人数1500人。しかし、その人数が舞台裏で着替えたらパニックになる。一人が3役か5役をこなすとバランスがよい。進行をスムーズにするための舞台まわしの仕事とその動きを統括するコントロールタワーが必要となり、その連結方法が検討された。 1988年第1回公演 ル・ピィ・デュフを見た者はまだましな方だったが集まってきた市民は驚いた。舞台といわれる所は普段は公園の花見でしか通らない所、ここから出てあそこへ隠れてくださいと言われて走って着いたら、もう戻るのが嫌になって帰ってしまった人。一生懸命説明していた舞監が怒りだす。どうしたのかと聞くと単なる観光客のアベックだったとわかったため。昼間の公園の練習風景は今まで企画してきた者たちが皆投げ出したくなることの連続だった。やがて照明が入り音楽が流れる。 夜は魔法、すべてを覆い隠して光の当たった所だけに人の目は集まる。リハーサルで客席側にいた関係者はややホッとする。しかしそれよりも不安の方が何倍にもなったのも確かだ。 1988年第1回目の公演が終わったあと、皆でビールを飲んでいた時は、なんともいい難い興奮状態だった。それぞれが参加していて実態は全然わからない。ところが客席で皆喜んで騒いでいる。テレビカメラが走り、フラッシュが盛んにたかれる。とにかくなんだかすごいことをやったらしい。皆浮いていた。これで明日もやれると。そして7年目を迎える。 広がる人のつながり 問題がなかったわけではない。というより問題が多過ぎて麻痺状態といった方が正確なのかもしれない。多くの人が参加して去っていった。大人達は自分の年齢を単に体が疲労するだけで年取ったなと感じているが、若い力は、あの小学生だった子が高校生になって大人の役で澄ましている。高校生が大人になって照れながら手伝ってくれる。近所の人達が皆優しくなって「おっ野外劇か」と道を譲ってくれる。転勤する人達が宣伝してくれるものだから「函館に来たら野外劇に出られるのを楽しみにきたんです」と言ってくれる。昔の着物が欲しいと新聞に出したら全道から「祖母のものですが」と送られてきたもので衣裳の収納が一大事業になってしまったくらい、人のつながりは単に出演者同志だけではない。手紙だけでまったく見ず知らずなのに充分な理解者として各地方に存在する。何もできないのですがと言って雑巾を100枚送ってくれた方がいて、その助かったこと、お礼を申しあげたら「元気なうちは毎年送りましょう」と。 もちろん耐えられない位の悲しみもあった。参加していた方がお亡くなりになる。中でも、ル・ピィ・デュフに見学に行った時から目立たない様にしていて、始まると目に見えない所でサポートしてくれた若社長。雨で泥まみれの楽屋や舞台にダンプでザアーと砂を入れてくれたり、大きな船の運搬でにっちもさっちもいかない所を、知らないうちに全部堀に浮かべてくれたり、屋形船が欲しいと話していたら船がひっくり返るぐらい立派な屋根を待ってきてくれたり、そしてそれが誰かわからないようにしていてくれる。その彼が入院中に密かに抜け出し公演準備を見ていたと後で話を聞いた時の全員の落胆、それでも仕事は続ける。 機会あるごとにPR 自分の街の歴史を自分達が演じている満足感と自信とちょっぴりの不安。仕事は年中を通じてある。広報活動による全員の掘り起こしと観客。特に観光客をどうやってあの有名な函館山からの夜景と同時に野外劇を鑑賞してもらうか。出前劇と称してホテル、旅館等での宴会の席や会議の参加者へのPR公演。街の中で年間行われている行事にできるだけ参加して市民に野外劇への参加、協力を訴える。 この街の文化人と称する人達の、「昔からある財産を喰いつぶしているだけだ」との批判に、「そうじゃない。市民のこんな当たり前の活動を根づかせることで、北海道の玄関としての存在を訴えていくことができるのだ」と誰にでも胸を張れるように充実した組織にしていきたい。 函館の風物詩にしよう 変な話だが、この野外劇に誰と誰が全体で何人くらい参加しているのかを正確に把握している人は誰もいないと思う。受付、席への案内、チラシ配り、駐車場への案内、入場者の整理と出演者との区分け、裏方の仕事の手伝い、それに出演者が毎回違う。10回の公演すべてに参加している人は少ない。それに公演前後の搬出入だけに協力してくれる人。正確な数字は出たためしがない。 概算で1日の関係者数を出してみると、役者が最低350人から800人、裏方は受付の方も含めて100から250人、これがゲネプロ、子供招待日を含めて12日間集合する。 上司の命令で来る人から、「野外劇命」と意気ごむ人まで老幼男女、3歳から80歳までが夏の夜の函館の風物詩にしようとがんばる。できればこの街の文化の拠点にしたいとの思いを秘めている。 グロード神父が「力があまっているからボランティアとして参加するのではないよ。自分がそうしたいから、しなきゃいけないと思うからここに来たんだよ」と言う。 函館野外劇の会がそういう場になりたいと心から思う。あらゆる方法でその輪を広げていきたい。 |