「まち むら」113号掲載
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水田の持つ生物多様性の回復を目指して地域あげての取り組み
滋賀県野洲市 須原魚ゆりかご水田協議会
滋賀県「魚のゆりかご水田米」

 「魚のゆりかご水田」とは、琵琶湖のフナやナマズ、ドジョウなどの魚が遡上してそこで産卵してまた琵琶湖に戻っていくことのできるように、排水路に魚道施設が設置された水田のことである。滋賀県はさらに農薬や化学肥料の使用を従来の半分以下と定め「魚のゆりかご水田米」を平成18年に登録商標している。魚道が整備され、魚のゆりかご水田として再生された地区は、平成20年3月の時点では琵琶湖に接する7市18地区。水田に魚道設備を設置する取り組みは他府県でも行なわれているが、所有者の賛同を得られず、たいていが個人所有の水田に限られていて魚道は狭い。滋賀県では水路に面した多くの水田の持ち主に一斉に呼びかけているため、排水路全体に魚道設備を設置することが可能となり魚が遡上しやすい。


魚が琵琶湖と田を自由に行き来できた時代

 滋賀県では、幼い頃「魚つかみ(魚をつかまえること)」に夢中になった経験を、目を輝かして語る人は多い。ただし、それは中高年以上の年齢層に限られる。「須原魚ゆりかご水田協議会」の代表、堀彰男(あやお)さんは61歳。圃(ほ)場整理事業が押し進められた昭和40年代は、同時に生産性を上げるために農薬の使用が奨励された時期でもあった。全国でこの時期を境にして水田の生き物の姿が激減した。堀さんはそれ以前に子ども時代を送り「魚つかみ」に夢中になった世代だ。琵琶湖周辺には無数の内湖(ないこ)と呼ばれる沼や小さな湖が広がり、琵琶湖に近い水田は湖とほぼ同じ水位であった。堀さんの育った野洲市須原地区でも、水田に農作業に行くには田舟(たぶね)という底の平らな船を使い、集落内にも水路が入り込んでいて魚は身近な存在だったそうだ。春、4月下旬くらいの繁殖期になると魚たちは夜な夜な群れをなして湖から増水した川や水路をさかのぼり、田植えのため水を張った水田に入って集団となり交尾した。夜の水田はバシャバシャとにぎやかで、生命力にあふれていた。魚はその後水田に滞在し産卵。孵化した稚魚はプランクトンを食べて育つ。そして6月上旬、田をいったん干す時期(中干し)になるとまた水路から琵琶湖へと旅立っていく。当時の水田はまさに、琵琶湖の魚を育てるゆりかごだった。(ちなみに外来魚のブラックバスなどは浅い水田では泳げず、入って来ないらしい)
 整然と整理された広大な現在の水田に、そのような魚の群れを見つけることはできない。フナなどがジャンプする高さは10センチ程度。水路は水田よりもかなり低く、魚が遡上するのは不可能なのである。ニゴロブナを春先に山ほど漁獲し正月に食べるための保存食、鮒寿司も今や庶民に手が出ないほど希少で高価なもの。そのため外国産のフナを使用した廉価版が出回っている。無尽蔵と思われていた琵琶湖の魚たちの姿が消えかけているのは、なにも水質の悪化や外来魚だけが原因ではなかったようだ。


オーナー制度で須原の人に変化が

 須原地区は平成20年度から2.4ヘクタールの水田が参加。この活動に取り組むきっかけになったのは、平成19年から5年間に限っての補助事業が行なわれている「農地・水・環境保全向上対策」だった。この補助事業は高齢化や米離れによる休耕田を地域で協力して減らしてほしい、というものだ。その目的に生態系の保全も含まれていた。当時自治会長を務めていた堀さんは、農家、非農家もあわせて地区全体で取り組もうと呼びかけた。須原地区は80戸(人口360人)のうち30戸が農業に携わっている。まず滋賀県の南部振興局と協議し、協定を結び、魚道や看板をみんなで協力して設置した。
 須原地区は平成21年度から「魚のゆりかご水田」にオーナー制度を導入した。この取り組みの周知のため、また都会の人に農業のしんどさを体験してもらい、同時に外部からの人を呼び込むことで須原地区に活気を取り戻そうというのが目的だ。1区画は100平方メートルで1区画につき年会費は3万円だ。期間は田植えから稲刈りまでということで5月中旬から9月中旬まで。オーナーになるとこの水田1区画で収穫したお米はすべてもらえる。実際の収量が少ない場合でも玄米30キロの「魚のゆりかご水田米」を保障される。機械を使わない、昔ながらの田植えや稲刈りを体験できるだけでなく、魚道や水田にいる魚の観察会、収穫感謝祭にも参加して須原の人と交流できる。初年度は16組のオーナーを受け入れることに。ねらい通り、イベント時には農家だけでなく非農家の方も含め地区から100人近い人が参加し、普段は静かな須原がとてもにぎやかになった。
 ほかにも思いがけないうれしい成果があった。それは須原地区で新たに農業をやりたいという若者が現れたのだ。別の仕事に就いていた30代の男性が、「ゆくゆくは『魚のゆりかご水田』をやりたい」という意欲を持ち、今年からアルバイト的に農業を始めた。また40代の男性は兼業で農業に取り組む決意をしたという。


持続可能な取り組みを目指して

 堀さんは、若い世代の意欲に応えるためにも「魚のゆりかご水田」を、国からの補助が終わると止めるのではなく、長く継続していきたいと言う。自身もサラリーマンを定年前に辞め、協議会の代表と農業に専心している。この米の安全性を訴えるためには、一括保存されるJAのカントリーエレベーターには入れられない。そうなると自家乾燥、籾摺り、冷蔵、精米などのための設備も必要となりお金がかかる。収量が少なく手間と設備投資が必要となれば価格が高くなるのは当然のこと。普通の米といっしょに店に並んでいたら値段だけで安いほうを選ぶ人が圧倒的に多いはずだ。値段の理由に納得し、安心と安全に対価を支払う意識を持った消費者でなければ選んでもらえない。堀さんは「魚のゆりかご水田」を継続していくため、必死でそんな買い手を探しているところだ。来年度のオーナーも熱烈募集中。滋賀県、野洲市の職員にもチラシをまいてもらっているし、ホームページを立ち上げ取り組みをアピールもしている。だが販路拡大は難しい。


ご飯を食べて水田の命を守る

 堀さんは「田んぼに魚を見ると農薬を減らさなあかんなあ、と地域ぐるみで、以前よりも意識が向上しました」と言う。いつしか農業は国土と命を守る誇り高い仕事ではなくなってしまった。本来の農業の姿を取り戻すため「魚のゆりかご水田」が、その端緒となるのではないだろうか。同時に私たち消費者が米を選ぶ時の意識も問われているのは間違いない。「無農薬で無化学肥料なので、収量は少なくなってしまいます。その代り食味値はいいんですよ」と自信満々の堀さんから「魚のゆりかご水田米」のサンプルを手渡され、持ち帰って食べてみることに。確かに旨みがギュッと詰まったご飯だった。生産した方から説明を聞き、直接手渡していただいた食べ物の味には顔がある。魚道の堰を飛び越えるフナの生命力まで一緒に噛みしめているようだ。炊きたてのアツアツを危うく3杯食べそうになり辛うじて踏みとどまった。