「まち むら」115号掲載
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生活支援から心身のケアまできめ細かく被災者を支援
東京都立川市 大山団地自治会
 東日本大震災の発生以降、多くの被災者が長年住み慣れた地域から離れることを余儀なくされた。全国の自治体や各種団体が避難所などの受け皿を整えたが、生活支援から心身のケアまで多岐にわたるサポート体制を作り上げるのは容易ではない。こうした中、東京都立川市の都営・上砂町1丁目アパート(通称・大山団地)自治会は地域の豊富なマンパワーと実行力で、幅広い支援活動に積極的に取り組んでいる。


近隣の企業、団体と地域ぐるみで即応

 大山団地は立川市の北西部に位置する1200世帯、入居者数約3000人の大規模な住宅団地。震災後の3月28日、福島、宮城両県から20世帯、60人が入居募集開始前の新築棟に入居するとの連絡が都から自治会に入った。入居開始日はわずか3日後の4月1日。都からの提供品は冷蔵庫、テレビ、ガス台、照明、布団―の5点のみで、その他生活品の提供はない。未曾有の災害により、家財道具や財産を奪われ、ほとんど着の身着のまま故郷を後にした人ばかりだ。知らない土地での生活にまず必要なものは何か―。自治会はまず団地周辺の食料品店やスーパー、郵便局などの位置を記した地図の作成に取り掛かった。
 1日に実施された入居者説明会では、団地周辺の地図を被災者に渡すとともに、被災者一人ひとりから心身の状況や持病の有無、現在必要な生活用品などを詳細に聞き取り、リストを作成。団地の住民あてに急遽自治会だよりを発行し、近隣の企業、団体にはファクスで早急な支援を要望した。翌朝には、炊飯器、ストーブ、電子レンジ、洗濯機などの家電製品から、まな板、包丁、食器、トイレットペーパーなどの生活用品までが続々と届き、半日で自治会事務所には支援物資の山ができた。
「とにかく時間がなかったので夜中までかかって受け入れ準備を進めました。常日頃から団地住民をはじめ地域の企業や団体の皆さんともいいお付き合いができていたから、急な支援のお願いにも応じてもらえたのだと思います」。自治会長の佐藤良子さん(69)は話す。
 大山団地自治会は2000(平成12)年の三宅島噴火の被災者を受け入れた経験がある。当時、物資や支援金を募った団体・個人から再び協力を得ることができ、今回の支援企業や団体・個人は100を優に超える。協力を仰ぐため佐藤さんが直接、企業や団体事務所に足を運ぶこともしょっちゅうだ。市内にある国立災害医療センターが受け入れ拠点となり、被災ストレスによる心的障害、高血圧などで体調を崩した被災者を住民が病院へ送り迎えするなど心身面のケアにも気を配っている。地域の農園からは野菜の差し入れも。団地内にとどまらず地域ぐるみの支援の輪を広げていった。


内職やサロン、野菜作りも細かく対応

 さらに、長期化する避難生活を考慮し、新たな支援のあり方も模索している。
「今日の洋服おそろいみたい、親子のようね」。自治会事務所の一室から和やかに談笑する声が聞こえてきた。異なる世代の被災女性ら十数人が、週4日、菓子箱を折る内職に精を出している。仕事の合間には茶飲み話に花が咲く。部屋にこもりがちの被災者にとってはいい気分転換となり、仕事に従事できるというやりがいも生まれる。自治会が地域企業に働きかけて、8月末から始めた。
 福島県南相馬市の阿部ユリ子さん(70)は「これまで部屋に閉じこもることが多く、一人で悶々としていました。ここで楽しく仕事や世間話ができるようになり地震の悲しみも次第に薄れてきました。皆さんには感謝の一言につきます」と笑顔を見せた。
 現在、同市内で避難生活を送る被災者は93世帯、約280人。大山団地にはこのうち約半数の47世帯・約120人が生活しており、高齢者はその8割を占める。お年寄りに対しては毎日、ボランティアや佐藤さんらが訪問や電話で安否を確認。また、自治会事務所の一室を「ふれあいサロン」を開設し、憩いの場として昼食会などを開催している。
 また被災者の中には、丹精込めた畑地を残し避難してきた農業者も多い。避難後の一時帰宅で背丈ほどの雑草に覆われた畑を目にし、涙を流す人もいた。佐藤さんらは近隣の住民から無償で畑を借り受け、希望者に利用してもらうことにした。秋から4人が野菜作りを再開する。


支援組織の設立で活動の継続を確保

 大山団地での先駆的な被災者支援は自治会を中心とした積極的な働きかけの成果だが、支援の枠組みを組織化したことも奏功した。5月末、自治会は立川市と連携し、「立川・東日本大震災被災者を支援する会」を設立。市内全域の被災者の支援活動を自治会に一本化し、一体的に取り組むのが狙いだ。同会として義援金を募り、被災者支援の際の交流費や被災者の交通費などを捻出。支援物資の配布や地域の行事への招待など、団地内だけでなく、他の市営住宅やホテル暮らしの人々全員に呼びかける。
 支援組織を設立したのは、活動を無理なく継続していくためだ。三宅島噴火の際、支援に要した自治会の会計支出は180万円に上った。財政的に無理をすると後々の支援が立ち行かなくなる可能性も出てくる。活動のウイングを市内全域の被災者に広げた分、佐藤さんらの事務作業は煩雑になるのだが「そんなに大変とは思ってないです」と笑う。
 今後は、補償や代替地などの法律・行政関係の情報提供にも力を入れる。7月には弁護士や行政相談員を招き、被災者を対象にした初の法律相談を開催した。政府や市町村などからの義援金の支給、補償対象の確認や自宅修理に関することなどあらゆる相談に関し、個別に対応した。「被災者」とひとくくりに言っても被害の程度や知りたい情報はさまざま。それぞれの状況に即した情報や対応が必要とされているのではないか、との思いからだ。


人とのつながりが大きな力となって

 生活基盤を物質的に整えるだけでなく、こうしたきめ細かな心遣いと、人とのつながりが震災の悲しみを背負った人々の心の支えとなる。これまで数箇所の避難所を転々としてきた被災者からは「これまでの避難所とは地獄と極楽の差」、「もう帰らず、ここ(大山団地)で死ぬまで暮らしたい」との声も上がっているという。
「そう言ってもらえるとやりがいを感じます」と佐藤さん。「近頃は都市型の無縁社会が増えていると言われるが、隣近所同士が関わりを持ち、互いに感謝の気持ちを忘れないのは当然のことで、うちではそれをいつも実行してきた。被災者の皆さんにも同じ思いで接しているだけです」。
 確かに同団地では住民が両隣に住む高齢者らを見守る運動を日ごろから行なっている。また一人一役運動と称し、よりよいコミュニティを作るための役割を定めるなど住民主体の地域づくりに注力してきた。被災者支援はその活動の延長線上にあるという。「団地の住民でなくとも、困っている人を助けるのは人の心情として当たり前のことです」。
 佐藤さんが目指すのは、平成の「士農工商」という。「士は市民が主役、農は能力を生かして、工夫(アイデア)を実行する。そうすれば商(仕事)に恵まれ、生きがいができる」。被災者の生きがいにつなげようと、さまざまな試みをフットワーク軽く実践する大山団地自治会と、それを支える人々。人とのつながりが大きなマンパワーを生み出す。普段から人を大事にしているコミュニティの底力を感じた。