「まち むら」118号掲載
ル ポ

思いはひとつ―福島の“福幸(ふっこう)”(復興)
福島・原発事故避難者たちによる「かーちゃんの力(ちから)・プロジェクト」
 未曾有の大被害をもたらした3・11東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から早や1年数カ月が経ったが、復興は緒に就いたばかりである。とりわけ、大地震と大津波、原発事故と風評被害の四重苦に喘ぐ福島県民にとっては、復興への道は容易ではない。


家族バラバラの避難生活

 福島県の東部、「あぶくま地域」と呼ばれる地域に暮らしていた人々にとっては、原発事故で家族がバラバラの避難生活を送ることになるとはだれもが思ってもみなかった。原発が立地している太平洋沿岸地域からは30〜50キロメートル離れている上、ほとんどが標高200〜700メートルの丘陵地。森林と高原がなだらかな里山を形成している。
 しかし、こんな里山にも原発事故により放射能が降り注いだ。あぶくま地域の川俣町山木屋、浪江町津島、飯舘村、葛尾村、田村市都路、川内村などが「居住制限区域」に指定され、ふるさとから離れ避難生活を余儀なくされている。
 飯舘村比曾地区で農産物加工・開発に奮闘していた渡邉とみ子さんも、避難者の一人である。昨年4月11日、約6000人が住む飯舘村は「計画的避難区域」に指定され、全村避難を余儀なくされた。それまで家族バラバラで県外に自主避難していた渡邉さん一家はこれを機に、「家族一緒に避難しよう」と決断し、5月19日から福島市の借上げ住宅での避難生活が始まった。


飯舘村の特産物が消えてしまう!

 しかし、日が経つにつれ我が家への思いが強くなり落ち込んだ。飯舘村は「平成の大合併」の当時、住民を巻き込んでの大議論を展開。住民総意の意志で、独自の道を選択した。以来、「までいな村づくり」に歩み出していた。「までい」という言葉は、「丁寧なさま、大切に、もったいない」などの意味を持つ。原点に戻って村づくりをしていこうという想いが、この言葉には込められている。
 とみ子さんも合併問題の議論に参加して、「これからはまでいに生きよう」と、心に誓った。自らも村の自立に役立ちたいと、2005年に発足した「イイタテベイクじゃがいも研究会」の会長に就いた。「イイタテベイク」は、元相馬農業高校校長の菅野元一さんが開発した新品種のじゃがいも。皮が薄く、でんぷん質が高い特徴を持つ。甘く肉質がなめらかなカボチャも開発された。「雪っ娘」と命名され、この二つの農産物を飯舘村の新たな特産品にしようと、とみ子さんは仲間を募って奮闘していた。この農産物を使ったお菓子作りにも挑戦していた。
 その矢先、東電福島原発事故がその夢を打ち砕いた。絶望の淵に立たされた。これまでの苦労が泡と消えてしまうかもしれないと思った。


避難者のネットワークをつくろう!

 落ち込んでいた時、避難先に千葉悦子さん(福島大学小規模自治体研究所)が訪ねてきた。「こんな時こそかーちゃんたちで頑張ろう」と、声をかけてくれた。昨年10月のことである。千葉さんは、学生と共に10数年前から飯舘村の地域おこし活動に支援に入っていた。とみ子さんとは旧知の仲だった。
 千葉さんら福島大学小規模自治体研究所では、避難生活を余儀なくされている女性たちのネットワークをつくりながら、仕事おこしの支援ができないかと考えていた。そのための人材養成と拠点づくりを、福島県の緊急雇用創出事業制度を活用しながら進めていこうという企画だった。この企画を「かーちゃんの力(ちから)・プロジェクト」と名付け、渡邉とみ子さんに持ちかけた。
 心が前に動き出した。一人では何もできないが、仲間を結集できればふるさとに還れる希望が湧くかもしれない、と一歩を踏み出した。
 あぶくま地域の女性農業者の避難先を調べて聞き取り調査を開始した。みんな悲嘆に暮れていた。だが、「このままではダメだ。動き出さないといけない」とも思っていた。
 何もできない避難生活にみんなくたびれていた。今動き出さなければ、ふるさとに戻ることはままならない。農地も加工施設も資金もない。だが、自分の身体と知恵がある。仲間もいる。とにかく「今やれることをやってみよう」と決断した。
 昨年11月、福島大学をはじめ避難先の市民活動団体や各自治体が支援に乗り出し、「かーちゃんの力・プロジェクト協議会」が発足した。代表に渡邉とみ子さんが選任された。飯舘村、浪江町津島地区、川俣町山木屋地区、葛尾村、二本松市、福島市などの女性農業者と緊急雇用創出事業の職員を合わせて約20人のメンバーでスタートを切った。
 幸い、福島市松川地区の空き食堂を借りることができた。阿武隈川の畔に立地していることから「あぶくま茶屋」と名付けた。このネーミングは、ふるさとのあぶくま地域を想起させ元気が湧いた。


出来ることから始めよう!

「拠点はできたが、何から始めていいのか途方に暮れた。自分たちで作れる農産物はなく加工品もない。ましてや資金もない避難生活の中で何ができるのか。ハタと困ったが、とにかく今出来ることから始めよう、とみんなの気持ちが一致した」(渡邉とみ子さん)
 最初に始めたのは、「結餅プロジェクト」。正月を間近に控えていたので、お供え餅をつくればみんな元気になるのではないかと考えたからである。自分たちで作った餅が食べられれば復興の第一歩を踏み出すことができる。そんな思いもあった。
 ただ、原料のモチ米の調達が難しかった。そんな時、中越地震で「お世話になった」と、新潟県石内地区の人々がモチ米300キログラムも提供してくれた。嬉しかった。ネットワークづくりの第一歩が始まった。仮設住宅に避難している人たちへのふるまい餅と正月用お供え餅の販売は予想以上の反響を呼んだ。
 第二ステップとして始めたのが、「かーちゃん笑顔弁当」と名付けて販売した手作り弁当である。仮設住宅を中心に宅配活動も始めた。「ふるさとの味がする」と好評だった。ジャムやお菓子類などの商品開発を行ない、種類も増えてきた。仮設住宅での直売所も設けた。
 県内外のネットワークをつくりたいと「サポーター制度」も始めた。これは、年会費1万円で募り、夏と冬の2回、福島の特産品などを宅配する試みである。首都圏を中心に支援者が増えてきており、次のステップに弾みがついてきている。
「私たちの願いは、福島の“福幸(ふっこう)”(復興)。ただ避難しているだけの生活では心が折れてしまう。避難先での女性農業者たちの活動がふるさとへの帰還に役立つと信じて頑張っていきたい」(渡邉とみ子さん)
 次なる目標は、避難先で新しいコミュニティを創っていくこと。あぶくま地域の人々は現在、各地の仮設住宅や借上げ住宅に散り散りとなって生活しており、かつてのコミュニティは崩壊している。渡邉さんらは「あぶくま茶屋」を拠点に、食を通してネットワーク化を図り、心を一つにして帰還準備を進めたいと奮闘している。