「まち むら」70号掲載
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住民参加による旧大社駅の活用策
島根県大社町 旧JR大社駅の活用に取り組む
 島根県簸川郡大社町北荒木にある旧JR大社駅は、廃止から10年を経た今も、現役を思わせる息遣いを感じさせる。列車は行き来しなくても、人々の出会いの場であり続けている。宮殿造りのどっしりとした駅舎は、訪れる人たちを温かく迎えてくれる。
 1924(大正13)年2月、今の大社駅は、手狭だった初代の駅舎に代わって誕生した。黒瓦に破風付きの屋根、高い天井、灯ろう型の和風シャンデリア、擦れて角が丸みを帯びた改札口の木枠…。82(昭和57)年「日本建築二百選」、97(平成9)年には県有形文化財に指定された。歴史を感じさせる重厚なムードが漂う。


ボランティアによる「花の駅」づくり

 そうしたどっしりとした雰囲気を中和するかのように、正面にはパンジーなど季節の花を植えたプランターが並ぶ。内部にも生花が飾られ、潤いを添える。花の飾りは、地元の女性ボランティアグループ「夢を紡ぐ会」が、昨年5月の会発足とほぼ同時に始めた。ちょうど1年たつ。子育ての傍ら、語り合い、花の世話を続けてきた。
 12人いるメンバーの1人は「駅舎にも何か彩りをと、花好きが集まって始めたんです。訪れた人が少しでもほっとできればと思って、地味にやってるだけで…」とはにかむ。
 夏場は毎日、水やりに通った。春や秋でも2、3日に1度は駅をのぞく。経費こそ会費と県・町からの地域づくりの補助金でなんとか賄うが、花の世話は「思ったより、けっこう大変」。
 水やりのほかに、施肥、枯れた花の摘み取り、植え替え…。そんな日々の作業を後押ししてくれたのは、周囲の声だった。駅舎の近所にすむ人は「きれいねえ。いつも見て通るんよ」と励ましてくれた。観光バスでやってくる人たちも「いいですね」と喜んでくれる。苦労が吹き飛ぶ。
 活動を続けるうち、一般の愛好家たちも「花の駅」づくりに参加してきた。JA女性部の有志も呼応してくれた。夢を紡ぐ会の人たちは、駅舎美化の広がりを喜ぶ。


地元農家が「ご縁市」を開く

 一方、駅南側では、今年も5月17日から「ご縁市」が始まった。「こんにちは。もう初夏だねえ」「きょうはええ野菜があるよ」「大根とキュウリをもらおうか」…会話が広がる。毎週水曜日の午前中、地元の農家の女性たちが中心になってつくる「ご縁市協議会」が運営し、駅ににぎわいをもたらす。
 本来は約400メートル北の「道の駅・ご縁広場」が協議会のホームグラウンドだが、せっかく残っている町のかつてのターミナルを生かして活動しようと、昨年からここでも出店の形で市を開催。今年も昨年同様、10月末まで週1回ずつ実施することにしている。
 遠くまで買い物に出にくい近所のお年寄りたちが上得意客。さらに、観光バスやタクシーで駅に寄ってくれる遠来の人たちにも人気がある。
「地元のおばあちゃんたちに交じって、カブやナスの浅漬けや切り花を買ってくれる観光客もいる。『どこからいらしたかね』と話が弾むことも多いですよ」。協議会メンバーの金森恵子さん(65)はほほ笑む。「こんな立派な駅、珍しいですね」と言われたりするとわがことのようにうれしくなる。


鉄道OBたちが駅舎を管理

 旧大社駅は、JR山陰線出雲市駅から伸びていた支線、大社線(約7.5キロ)の終点だった。国鉄が1912(明治45)年、開業した。出雲市駅(当時は出雲今市駅)との間に、出雲高松(当初は朝山)、荒茅の2駅があった。出雲大社の玄関口として、かつては大社の大祭礼に訪れる皇室の勅使が毎年、降り立った。そのため大社駅は、東京や京都駅並みに貴賓室を備えていた。65(昭和40)年には、出雲大社ご参拝の昭和天皇をお迎えした。
 最盛期もそのころ。東京や京都と結ぶ夜行寝台や急行は大半が大社始発・終着だった。60年代前半は乗降客数が1日平均約4000人、貨物輸送も活発だった。
 だが、マイカー時代の到来で、60年代後半以降、利用が大きくダウン。大社線廃止計画が示され、存続運動のかいなく90(平成2)年3月末で廃止された。
 廃止で廃れる駅舎。町民の思い出のこもった場を何とか守りたい―。町は、国鉄退職者でつくる日本鉄道OB会大社分会(内田鶴雄分会長)に管理を委託。1億7000万円で駅と敷地を購入した。
 助役、駅長として大社駅に勤め、退職後も「歩いて3分」の近所に住む内田分会長は「懐かしい駅舎が荒れるのがしのびなかった。仲間に誇り、一肌脱ごう、と管理を引き受けた」と振り返る。今は11人が交代で、午前9時にかぎを開け、夕方に施錠する。掃除もこなす。OBたちは誇りと喜びをもって務めている。
 雰囲気を出そうと往時の駅員の制服を着せた人形も手作りした。通票閉塞器など備品を集めた「レトロ鉄道展」も常設している。「貴賓室のテーブルはサクラ材、いすは絹張りで…」。訪れる観光客への即席ガイドも、つい熱を帯びる。「鉄道を守った先人の苦労、地域の生活に大きな役割を果たした大社駅の歴史を、次の世代に伝えていきたいから」。内田さんは話す。


町民参加の地域づくりの舞台

 国鉄・JRのOBだけではない。大社で観光タクシーを約20年走らせる杉原誠さん(48)は、客が施設見学している時間を利用し手書きの「大社町案内」を作って手渡す。旧大社駅の紹介にもスペースを割く。「メジャーではないけど、いい観光スポット。お客さんも興味を示す」と、ていねいな文字を連ねる。
 大正琴の「琴修会大社教室」(伊藤祥子代表)は月2回の練習で駅舎服務室を使う。「天井が高く響きもいい。音を聞きつけてのぞく人もいるんですよ」。すっかり気に入っている。
 駅舎の活用に道筋をつけたのは町の動き。跡地整備検討委で活用策を探り、昨年6月、公募で7団体1個人の駅舎利用を認定。「町有財産」として保存・活用するという位置付けが固まった。
 旧大社駅関連の町の本年度予算は約4400万円。年内をめどに大正建築の駅舎にマッチした外観のトイレを建設する。今後も一帯の公園化を図る方針だ。町観光商工課の石飛正幸観光振興係長は「行政だけの思いでやっても長続きしない。町民参加の地域づくりの舞台として開放したい」と言う。
 そうした言葉の背景には、駅舎が長年にわたり親しまれる存在であり続けた歴史がある。夢を紡ぐ会の花の駅づくりなどのほかにも、昨年10月には地元の大社高校2年生約200人が線路部分の草取り奉仕を買って出た。
 地元の多くの人々の支えで、旧大社駅は生き続ける。「理想的な余生」―こんな表現がふさわしい「地域の駅」である。