「まち むら」82号掲載
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環境都市への牽引役となったごみ処理施設反対運動
北海道・留萌市 藤山町町内会
 北海道留萌市の市民は、8種類のごみに廃食油を加えた「8プラス1」の9種類に分別する。これらは環境学習施設を兼ねた資源化施設「美・サイクル館」に運ばれ、その7割がリサイクルされる。留萌市がごみの先進地に生まれ変わるきっかけをつくったのは、市内でも有数の穀倉地帯にある藤山町である。


開拓で培われた藤山魂

 藤山町には、「藤山魂」という言葉がある。この地に開拓の鍬が入ったのは明治29年。すでに条件のいい土地の入植は終わっていた時期だった。藤山町の先人は条件の厳しい土地に足を踏み入れ、原野を切り開き、たび重なる留萌川の氾濫と闘い続けた。『ふるさと藤山の足跡』によれば、明治44年までに入植した
112戸のうち51戸が離脱するほど、開拓は困難を極めた。
 残った入植者たちは苦難に向き合い、力を合わせて鍬をふるい続け、市内でも有数の穀倉地帯へと変えた。それによって、どんなことにも一致協力する強固な団結心、自らつくりあげた大地への深い愛着、苦難を克服して開拓をなしとげた自信と誇りが生まれた。「藤山魂」はその歴史を継いだ人々の不屈の精神を表す言葉であり、藤山に住み続ける人、藤山を離れて各地各界で活躍する人びとの心に生き続けている。町内の人びとの心をつなぐ活動の拠点が藤山小学校である。
「藤山には、小学生のいない家庭も含めて町内の全戸がPTA会員となり、地域ぐるみで子どもたちを育てるという伝統があるんです。それ以前に、地域全体が、親きょうだいという、大きな家族のようなものといえますね」と、町内会長の寺本康雄さんは話す。


ごみ処理施設の計画

 北海道は自治体の面積が広く、埋め立て地の確保が比較的、容易であるため、ごみの全量を埋め立てる自治体が多かった。1990年、最終処分場が満杯になろうとしていた留萌市では新しい候補地を探し始め、市有地のある藤山町に白羽の矢が立てられた。
 地元説明会の後に開かれた町内会の総会では、「そんな危険な施設を藤山にもってくるとは許せない」と、全73戸(現在は68戸)が声を上げた。その後の臨時総会では反対協議会を結成。土壌や水質の汚染など10項目の理由をあげて建設に反対した。その根底には、入植以来100年以上をかけてつくりあげた農地と農業を守るという強い意思があった。「議員でいるかぎり、町内の人たちに市の側に立っていると思われかねない」と、寺本さんは12年勤めた市議会議員を辞職し、一住民として反対運動を主導した。
「毎晩のように会議を開きましたが、市との協議も139回に及び、500時間を超えました。深夜まで市と話し合い、それが終わると朝までかかって議論した内容を意見書にまとめ、朝いちばんで市役所に持参するという日々が続きました」と寺本さんは振り返る。


対立から協働へ

 留萌市と藤山町との協議は4年に及んだ。その過程で、市では計画段階の環境影響データなどを含むすべての情報を公開。互いに情報を収集し、ともに先進地を視察して、議論を重ねた。
 担当職員として交渉にあたった現収入役の吉田俊昭さんは、「藤山町は反対のための反対をしているのではない。反対するけれども、あきらめないで課題を克服しようとエールを送っているのだということがわかってきました。農業を営めなくすることは生産者の命を奪うことに等しい。住民の生命・財産を守る自治体として、農業と共存できる施設にしなければならないと思いました」と話す。
 最終処分場の建設をめぐる市と協議会との対立の場は、リサイクル施設の建設に向けた協働の場へと変わっていった。
 当初、破砕して埋め立てようと計画していた市では、反対協議会からの要望や提案への回答として、資源ごみは資源化し、生ごみは堆肥化、燃えるごみは固形燃料化に計画を変更。協議会がもっとも重視した最終処分場の浸出水には、最終処分場の排水基準ではなく農業利水基準を採用して高度処理することにした。


団結を取り戻す

 市との協議が続くなかで、市もここまでやったのだから受け入れてもいいのではないかという容認派と、あくまでも反対を貫こうとする反対派とに、町内は二分された。地域の対立に心を痛める高齢者を元気づけようと、寺本さんたちは劇団を結成。八幡神社の例祭に時代劇を上演して、団結を取り戻した。
「笑いあり、涙ありで、芝居とわかっていても思わず涙が流れ、幕が下りると拍手喝采。観客と出演者が一体になる舞台になりました。そんななかで町内のわだかまりも消えていったんです」と、副会長の原田盡一さんは話す。
 どんな活動でも全力で準備を行ない、計画をなし遂げた達成感と、人びとの心がひとつになる感動を共有し合う。藤山町ではそんな地域活動の積み重ねによって「藤山魂」を高めてきた。
「こんなに楽しいんだからまたやろうと、反省会ではもう次の企画を計画している。それが本来の地域活動だし、そのくり返しが地域づくりにつながっていくんだと思います」と寺本さんは続ける。
 反対運動を続けるなかで、藤山町の人びとの環境意識も高まっていった。町内会では藤山町環境美化推進委員会を発足させ、産業廃棄物となるため放置されることが多い農業機械の回収に乗り出す。藤山小学校には、北海道で初めての「子どもエコクラブ」が誕生した。


環境都市に生まれ変わる

 一方、市でも藤山町との協議と並行して、分別収集のモデル事業に取り組み始めた。吉田さんは、「藤山をごみ捨て場にはしない、資源を加工する工場をつくるのだと市民に訴え、分別収集の必要性を説いて回りました」と振り返る。
 その結果、徹底した分別を基盤にしたリサイクル施設、「美・サイクル館」が97年に完成。ごみの発生量は4割も減り、その7割がリサイクルされるようになった。留萌市は環境都市へと生まれ変わった。さらに、この経験を生かして、福祉や産業などまちづくりのあらゆる分野で情報公開と市民との対話を進めることにした。長い運動を振り返って、寺本さんは次のように語る。
「藤山の人たちは苦渋の選択をしたといわれることがあります。しかし、信念を貫いたからこそ、ごみに対する規制が厳しくなったいまも、改修や建て替えをする必要のない、日本一の施設になったのだと、いちばん誇りをもっているのは藤山の人たちなんです。運動が終わったからといって、町内はこれまでとまったく
変わりません。これからも同じように地域活動を続けていくだけですよ」
 今年3月、藤山町の人びとの心のよりどころとなってきた藤山小学校が、102年の長い歴史の幕を閉じた。校舎は町内会有志の運営委員会が管理をし、これからも地域の拠点として新しい歴史を生んでいくことになった。