「まち むら」83号掲載
ル ポ

住民自治が町の原動力
岩手県 藤沢町
 東北の短い夏。暑さも盛リとなるお盆を前にした季節、岩手県藤沢町の町民が熱く燃える。縄文の野焼きを現代に再現する「藤沢野焼祭」。中学校の校庭に設けられる窯に町民や遠方から訪れた人が製作したつぼや埴輪、瓶、皿など千数百点もの作品が適び込まれ、およそ6時間、「縄文の炎」の洗礼を受ける。
 実践考古学者の塩野半十郎氏の助言で昭和51年、縄文人の心と文化を現代によみがえらせようと始まった夏の祭典。今年で28回を数えた祭りは過去に洋画家の岡本太郎氏や版画家の池田浦寿夫氏ら著名な芸術家が参加するなど町を代表するイベントとなったが、会場を支配する土着的な空気は変わらない。縄文をテーマにした祭リであることがその要因となっているのはもちろんだが、この祭りは町内44自治会の団結の象徴、人々の創造力の発露の場でもある。
 町内各自治会は毎年祭りの2か月ほと前から集会施設なとに集まり、石焼祭に向けて作品を製作する。共同作品だけに150キロ、200キロもの粘土を使った大作が主流。過去の入賞実績を見ても、最高賞の塩野半十郎大賞や上位賞は自治会の作品が多くを占める。集会施設の周りや道路沿い、花壇の中なとには、それぞれの自治会が石焼祭でこれまでに製作した作品が何気なく置かれており、地域のシンボルにもなっている。


住民自治で町を再生

 藤沢町がまちづくりの基本単位に自治会を据えたのは高度経済成長の時代、人口流出と地域の衰退という負の連鎖を断ち切るうとしたのが発端。「昭和の大合併」で同30年、4町村が合併して人口16,400人(現在は約10,300人)の町が誕生したが、それから間もなく、若者たちが農村から都会へ流出、町民の間に「ここで何をやってももうからない」「跡継ぎに嫁も来ない」といった沈んだ空気がまん延し、46年には町が過疎地域の指定を受けるに至った。
 町は残った人たちに地域再生の活路を見いだし、「みんなの藤沢みんなでつくろう」を合言葉に49年自治会の組織化に着手、自らの手で地域づくりの計画を作ってもらおうとそれぞれの地域に「ミニ地域開発計画」の提出を求めた。しかし、町民による計画づくりは思うに任せず、町は職員を出身地などの地域担当に
任命し、集落の相談に応じる「職員地域分担制」を敷いた。地域担当職員は計画づくりの支援と住民と行政のパイプという重責を担い、昼夜を問わず地域に出向き町の施策を説明しては住民の声に耳を傾けた。
 自治会が自ら策定したミニ地域開発計画。ある自治会は地元に工業団地を造る夢を描き、町がそれを受けて誘致に走った。誘致が決まると、自治会は用地の提供に積極的に協力、工場ができると、周辺の環境整備にも自ら汗を流し、地域と誘致企業の間の極めて友好的な関係を築いている。
 同町の自治の歩みを見つめてきた佐藤守町長は「過疎というのは単に人口が減ることではなく、地域再生のエンジンが奪われるということ。交通の要衝など地理的に恵まれている町なら再生の要素を外に求めることもできるが、藤沢町の場合、再生のカギは町に残った人こそがエンジン、活力源だった」と、高度経済成
長の陰で、地域の再生にもがいた時代を振り返る。


お年寄りが憩う「黄北喫茶」

 現在の自治会活動を見てみよう。同町黄海地区にある第十二区自治会(68戸)。高齢化率は30%を超えており、町内のほかの地区と同様一人暮らしや高齢者夫婦の世帯も多い。
 同自治会の取り組みの一つに、お年寄リたちのお茶飲みの場「黄北喫茶」がある。介護保険適用外のお年
寄りや一人暮らしの人たちを集めて語らいの場を提供しようと13年7月に始まったもので、月1回、地元の集会施設を利用し、無料の喫茶を開設している。
 黄北喫茶を利用するお年寄りたちはお茶を飲み、話をしながら血圧を計ったり、昼寝をしたりと、のんびりと一日を過ごす。一方で、マンネリにならないようにと、ペタンクや輪投げ、体操などの軽スポーツや、カラオケ、健康づくりに関する講話、ボランティアによる人形劇、のんびり温泉につかる「移動喫茶」、地元小学校の収穫祭への参加、児童への昔の料理や遊びの伝承など毎回工夫を凝らした催しを盛り込んでいる。
 自治会員で組織する支援団体「黄北喫茶まぶる会」には14年4月現在57人が登録。会員は3人1組で班を編成、19か月に一回のペースでお年寄りの世話を担当する。喫茶が長続きするよう、長いローテーションで支援側の負担を抑えているのが運営上のポイントで、同自治会の会員で、町自治振興推進室係長でもある千葉松男さんは「お世話をする側から考えた逆転の発想」と説明する。
 開催が30回に近い黄北喫茶が順調に続いているのは利用者の喜び、笑顔がいわば原動力。利用者の1人、伊東トキコさん(83)は「同じような年の人が集まるので、お茶を飲みながら昔話するのが楽しみ。黄北喫茶のお陰でみんな元気」と運営に当たる会員たちに感謝する。月1回の開催回数や催しの内容にも不満は
ないというが、「ただこのごろは男の人があんまり喫茶に寄んなぐなったねー」と一つだけ注文を付けた。


深萱の自治の歴史は200年

 もう一つ、町のほぼ中央部に位置する黄海地区の深萱自治会(51戸)。自治会の記録によると、ここで自治活動が始まったのは文化7年(1810年)のこと。普通は高台にある地域の氏神様が人家よりも低い場所にあるのを不思議に思って調べたところ、神社の境内に屋根が架かった人が集まるようなスペースがあ
り、神社が今の公民館のような役割を果たしていたことが分かったという。
 200年近い自治の歴史を持つというだけに住民の結束は抜群で、自治会の集まりやスポーツ大会などの行事は毎回盛況を見せる。自治会の皆川洋一さんは「ほかから人を集めるにはどうしたらいいかと聞かれるが、それが一番困る。200年の歴史があるここでは、みんな大昔から、何かがあれば集まるものと思っている。選挙の地区別の投票率も毎回一番だしね」といたずらっぱい笑顔を見せた。
 同自治会の活発な自治活動の要因として、かつて藤沢と黄海という2つの村の境に位置した地理的な理由も挙げられる。どっちつかずの位置にあることから昭和の合併後も住民の自治意識が強く残り、「町内にできた自治会の一つのモデルになった」と胸を張る。
 自治の歴史の一端を見ると、昭和40年代後半には、廃校となった小学校の分校の校舎を使い、各世帯が負担金を出し合って自治会独白に職員を採用して保育園を運営。50年代になると、東京で働いている出稼ぎ者の宿舎に「東京事務所」を設置、「所長」の肩書きで上京した人と地域の“パイプ役”を任せるなどユニークな活動を続けた。
 同自治会でもこれからの地域を考える時、若い人たちが参加する地域づくりや一人暮らしのお年寄りの世話など、今日的な課題を挙げる。「高齢化率が高くても要介護率は低いが、それは地域にじいさん、ばあさんが現役で活躍できる場がたくさんあるから。自分の老後のためにもそうした場をもっとつくっておかなければ」。皆川さんや自治会長の及川敏頭さんは地域の将来に頭をめぐらせる。
 住民自治が町の再生の原動力となった藤沢町。地方分権型社会の時代を迎えて佐藤町長は言う。「地方は戦後の復興の過程で住民自治が失われ、中央が管理する地方自治に甘んじてきた。それは復興の過程としてある程度は仕方がなかったとしても、原理原則である住民自治は守られていなければならなかった。地方分権型社会を迎えてもう一度ゼロから地方自治の理念が問われるべき。行政は本来経済の論理ではなく、人間の論理で行なわれるもので、住む人にとって価値があるかどうかでまちがつくられなければならない」。