「まち むら」96号掲載
ル ポ

揚水水車の復元でコミュニティを再生
佐賀県唐津市・自然と暮らしを考える研究会
 佐賀県唐津市相知(おうち)町の町切(ちょうぎり)地区の水田では、春から秋にかけて5基の揚水(ようすい)水車が回る。およそ400年前に水田が造成されたときから使われていた8基の揚水水車は、時代の流れとともに2基にまで減少した。住民たちは1年に1基ずつ4基の水車を建造。復元された揚水水車は、先人が築きあげた水田に絶えることなく命の水を送り続けている。


400年の時を超えて

 松浦川の支流、厳木川の左岸の4集落からなる東川地区では、厳木川より高台にあるため水田を切り開くことはできず、コウゾやクワなどを栽培していた。1600年代、この地の人々は厳木川から取水する町切堰を築き、5キロに及ぶ町切用水を開削。数十ヘクタールの畑地を水田に変えた。そして、用水路に揚水水車を設置して水田に水を汲み上げ、念願の稲作を開始した。
 揚水水車とは、低地を流れる川の水を高地にある耕作地に供給するための水利機械である。川の流れが羽根板を押すにつれて水車が回転し、外輪につけられたひしゃくが川の水を汲み揚げ、頂点に達すると樋に排水し、水田を灌漑する。
「用水路沿いの道が小学校への通学路でしたが、町切揚水がふたたび厳木川に合流する5キロにわたって22、3基の水車がずうっと並んでいたものです」
 いまも揚水水車を利用している町切集落の小松郁郎さんは、当時の風景を思い起こして目を細める。
 このうち町切集落には8基の水車が設置され、約1ヘクタールの水田を灌漑していた。人々は洪水のたびに破損する部材を修復し、老朽化すれば新造しながら、およそ400年にわたって揚水水車を使い続けてきた。


地域の宝が存亡の危機に

 揚水水車は水田の所有者が建造して設置していた。芯棒にはシュロの幹を、腕木や羽根板などの部材にはスギを用い、ひしゃくと羽根板はクロガネカズラの蔓でくくりつけたと小松さんは話す。
「シュロの水はどこの家でも庭に植えてありましたし、クロガネカズラは山を歩いて探したものです。回転するにつれてギーギーと鳴る音はイノシシ除けにもなり、ほんとに水車らしかったですよ」
 町切集落には昭和30年代まで収穫した米を精米する動力水車もあり、住民が交替で利用していた。米の栽培にも精米にも水力エネルギーという身近な資源を巧みに利用する知恵と技術が受け継がれ、それが人々の暮らしを支えていた。
 しかし、1970年に始まった米の生産調整(減反)によって水田の一部は畑地に転用され、ビニールハウスが建つようになった。残った水田への直流方法も電動ポンプヘと代わっていく。
「水車は水田の所有者が材料と工賃を用意して大工さんにつくってもらうんですが、米価の低迷で経済的に引き合わなくなったんです」(小松さん)
 こうして10年前には揚水水車が2基にまで減少した。町切生産組合では、経済的に成り立たない揚水水車をみんなで電動ポンプに変えようという意見と、それでも地域の遺産として保存させなければならないという意見がまとまらないまま、水車に思い入れのある2軒の農家だけが使い続けていた。


1年に1基ずつ復元しよう

 個人が所有するものでありながら、林立する揚水水車が飛沫を上げながらゆっくりと回転する風景は、だれもが享受できる地域の大切な財産だった。揚水水車を復元する動きは、水田を所有する農家ではなく、住民から湧き起こる。
 このころ公民館長をしていた石盛信行さんは、70代の女性から「嫁いできたこの地の歴史を、学ぶ機会がなかった。地域の歴史を学ぶのが公民館の役割ではないか」と指摘を受ける。この言葉をきっかけに、石盛さんは集落の古老や郷土史研究家を呼んで「ミニ文化講演会」を開始した。この講演会で揚水水車をテーマにしたときには、古文書などを調べ、水車の構造や機能を学ぶ「現地水車取付研修会」も開催した。
「地域の歴史を学ぶうちに先人の知恵と苦労を知り、水車を再建しようという気運が生まれました。そして、一人ひとりが自ら行動を起こそうと『自然と暮らしを考える研究会』をつくり、水車を再建することにしたんです」(石盛さん)
 石盛さんは研究会の代表になり、1999年、旧相知町教育委員会の「緑と文化基金」の補助金10万円を活用して1年に1基ずつ再建することにした。この年は台風19号に見舞われたため、山から倒木を運んで製材。多久市にある佐賀県産業技術学院の協力を得て、最初の1基を完成させた。芯棒はステンレス、軸受けはベアリングになったが、復活した水車は住民の心にコミュニティ再生の灯をともす役割を果たした。
 こうして1999年から4年連続して1基ずつ建造した揚水水車は既存の2基と合わせて6基まで復活した。2年前の集中豪雨で1基が破損したため、春から秋にかけて5基の揚水水車が回るようになった。


設置と解体も協働で

 自然と暮らしを考える研究会では、ミニ文化講演会の開催と並行して、厳木川沿岸の環境美化活動も開始した。群生するタケを伐採し、積もった瓦礫を除去する活動を続けるうちに水辺はかつての美しさを取り戻し、明治18(1885)年に建立された町切堰の改修記念碑などが姿を現した。こうして整備された水辺と、時を超えてゆったりと回転する揚水水車の織り成す農村景観に誘われて、地区の人たちだけでなく、遠方からも見学者が訪れるようになった。
 しかし、個人の水田に水を引くのに米は水田の所有者のものになると、水車の公共性に疑問を投げかける人もいないわけではない。石盛さんは「そういう世の中を私たちがつくってしまった」と自省し、「多くの人が水車に心を癒してもらっているのだから」と時間をかけて理解と説得に努めている。
 田植え前の揚水水車の取りつけと稲刈り後の解体時にはおよそ150人が参加すると、石盛さんはほほえむ。
「春には収穫への願いを込めて設置し、秋には感謝を込めて解体します。みんなで水車に触れ、地域のために自分に何かできるかと問いかけてもらいながら」
 研究会では揚水水車の復元が一段落した後、小中学校での総合学習の時間に自然を学ぶプログラムを開発し、地域の自然と文化を教えるようになった。毎年夏には厳木川で「親子リバースクール」を開催している。こうした一連の活動が評価され、昨年10月に鹿児島県で行なわれた「九州川のワークショップin川内川」では、大賞を受賞した。
 5基の揚水水車は今年もまた役割を終えて解体され、倉庫の中で田植えを待っている。